が熱を出してから数えて十七の時間帯が過ぎた。その間に夜を七回やりすごし、昼はただの三回しかめぐってこなかったので洗濯物が乾かないとアリスはぼやく。エースが「仕事」に出て行ったあのときから、アリスもずっとに付き添っていたわけではない。時折意識を取り戻すがどうか少しでも城に戻って欲しいと懇願するので、二度ほど戻っている。そのたびにビバルディはの様子を熱心に聞きたがり、ペーターはあんな細菌だらけの女のところに行かないでくださいと言い募ってきた。彼の潔癖さは知っているが、自分の友人を雑菌扱いされるのは納得いかない。何度となく喧嘩になりそうになったがそのたびにの忠告が―――ただでさえ独占してしまっているのだから、喧嘩だけはしないでほしいとは言った――――思い出されて口論以上にはならずに済んでいる。 は最初から落ち着かない様子だった。アリスはジョーカーのサーカスで寝かされていたを思い出す。森で倒れていたんだとジョーカーは説明したけれど、アリスはを見つけたとき前回を思い出して気が遠くなりそうだった。は自由でどこにだって行けるのだが、アリスはこの頃それでは帰らないこともできるのだと解釈を改めていた。はどこにだって行けるが、戻らない意思があれば帰らないかもしれない。 「アリス、から目を離さないでやってくれ」 三時間帯前にやってきたブラッドは、夕方に訪れて昼になり夜がくるまでの傍にいた。けれどが意識を取り戻したのはただの一度きりだ。その間ちょうど席をはずしていたのでアリスには彼らが何を話したのかわからない。けれどアリスが戻ってきたときブラッドは神妙な面持ちでを見やりながらそう言った。目を離さないでくれ。 「どういう意味?」 当然と言えば当然の質問をしたアリスに、ブラッドは思いがけないほど低く恐ろしげな声を出す。 「ナイトメアとこの塔の役持ちに伝えてくれ。これ以上不安にさせれば『力ずく』で奪わせてもらう、とね」 ナイトメアやグレイ、ユリウスに向かってブラッドは確実に怒りを顕わにしていた。アリスの質問には答えずに出て行くブラッドを何も言えずに見送りながら、はいったい何に対して不安を抱いているのだろうと考えた。もちろんアリス自身にも未だに不安なことは多い。そのどれか一つでも同じ問題ならば一緒に考えてあげられる、と暗くて後退的な観測を持った。 元々、ナイトメアがブラッドの見舞いを断り続けたのが悪いのだ。そのせいでブラッドは初めから不機嫌だった。共は連れずに来ると譲歩してくれていたのに、ナイトメアは子どものように何かにつけて拒否してしまった。そのせいで不穏な空気が流れ、しまいには帽子屋屋敷に武器弾薬が大量に運び込まれたとの噂を聞いたアリスが急いでナイトメアを丸め込んだのだ。頑ななナイトメアを叱りつけて使者を送らせるとブラッドは待っていたようにすぐに塔に訪れた。もちろん共は一人もつけず、彼らしく慇懃無礼な姿勢は崩さずに。 ―――――――――わたしは果報者だねぇ、アリス。 の甘ったるく幸福そうな声。肯定した自分は何を見落としていたと言うのだろう。それがどうしてブラッドには見抜けたのだろう。歯がゆさにきりきりと痛む胸を抱えて、アリスはを見つめる。医者の話ではもう峠は越えたということだが、依然として頭痛と吐き気を訴えているので安静にしなければならない彼女は、穏やかな寝息をたてている。 「…………どうした、アリス」 「ユリウス」 そっと扉が開き、ユリウスが現れた。ノックはしないでと告げたので、彼はきちんと守ってくれている。ナイトメアやグレイと顔をあわさないように配慮しているのかもしれないが、ユリウスが訪れるときは大抵誰も見舞いにきていなかった。 隣の椅子に座る彼は、そこでを眺めているだけだ。言葉をかけるでもなく、タオルを交換するわけでもない。アリスはいつか自分が彼に願っていたことを、なんとなくぶつけたくなる。 「…………ユリウスには迷惑かもしれないけど、私はずっと、を留めておけるのはユリウスだと思っていたわ」 静かに、けれど唐突にアリスは呟く。声はひそめなかった。 ユリウスは少しも表情を変えずに、肩を竦める。 「まさか。…………コイツを繋いでおけるわけがないだろう。それでなくとも飛び回った挙句こんな状態になっているんだ。無理に繋いでこれ以上騒ぎを起こされたら、手が付けられない」 手が付けられない。彼の口から聞くと、冬そのものの冷たさを感じる。もちろん言っている半分も冷たくはないと付きあい上知っていたけれど、それでも希望を持ってしまうのはやはり期待していたからだろう。 本当に大変だったのよ。アリスは思いを馳せる。あなたがいなくて、エースは可笑しくて、はどんどん自由になっていって、収拾がつかなくなってしまっていたクローバーの世界は混乱を極めたの。考えはするが口にはださない。引っ越しで弾かれたのはユリウスのせいではないからだ。けれどせっかく元通りになったというのに、どうして前のようにはいかないのだろう。 「謝る気はないのね?」 だからその代わりに問う。出て行けと言われたの、と怒るわけでもなく淋しそうに呟いたは喧嘩をしたと言う割りにちっとも覇気がなかった。 ユリウスは束の間沈黙を置いて、ため息を吐き出す。 「…………何を謝れと言うんだ。私はそのままのことを言ったんだ。コイツに必要なものは本当にここにあるのかと」 「違うわ。そうじゃない。もし本質がそこにあるのだとしても、はもっとシンプルに傷ついたのよ」 ―――――――――ユリウスは、わたしに誰かを選ばせたかったんじゃないかって思ったの。 そう言ったは理解した上で傷ついていたけれど、もっと深い部分で落ち込んでいた。もちろんユリウスにとって見ればなんでもないことだったのだろう。口の悪さも根性の暗さもわかっているが、それに甘えて気をつけなくていいわけではない。 「…………もし」 アリスは瞳を瞑って精一杯想像する。季節をめぐって戻ってきて、ただいまを言った相手に言われればどんな思いがするのかを。 「もし、私がペーターに『出て行け』って言われたら、死にたくなるわ」 不思議に涙はでてこなかったと言ったは、だから本当は泣きたかったのだ。 愛情を受け取ることも渡すことも彼女はひどく不器用だ。誰にでも優しくできるのに、特定の誰かには難しいと言う彼女の道のりは遠い気がする。だから少なくともユリウスの問いは決断を急ぎすぎたのだし、もっと冷静になればふたりとも昔のように戻れるはずだった。同じではなくても、そのような関係には戻って欲しい。 ユリウスはではなく窓の外をぼんやりと見つめている。 「…………そうか」 しんしんと降り積もる雪は町並みを真っ白に染め上げていく。アリスは要領を得ないユリウスの「そうか」に頭を痛めたがそれ以上言及しなかった。その代わり、この男が動かなければ、と考える。この男が動かなければ他に誰が、とこの世界を結び付けておいてくれるのだろう。それは同じ余所者にはできないのだと、アリスは心の中で呟いた。誰も彼もがアリスに頼むと言い置くけれど、決してできないことをどうしてわからないのだろう。アリスだって繋いでいてもらっている側なのだ。風船がふたつ集まったところで空に舞い上がってしまう原理と同じく、足を持っていない自分たちは助けがなければ留まっていることすらままならない。 |
私達だけの孤独
(10.02.05)