それから程なくしてわたしの風邪は治った。身体の痛みもダルさも抜けて、すっきりとした気分だ。もうすでにナイトメアの係りつけの医師はわたし専属になりつつあり、彼に言わせればすでに完治していたのだがナイトメアやグレイがそれを引き伸ばした。やはり以前から身体の具合がおかしいことを知られていたらしい。風邪以外にも何かあるのではないかと疑い、様々な医療器具が持ち込まれ、さながら集中治療室になりつつあったわたしの部屋はやっとすべての機材が運び出されてもとの状態に戻っている。アリスも城に戻っていたし、わたしは何度も大丈夫とふたりに言い募ったが、一番信用できないものがわたしの「大丈夫」だと確信している彼らには通用しなかった。仕方がないので大人しく診察され、わたしは肺炎の心配もなければ骨密度についても問題ないというお墨付きをもらった。


「本当にほんとーに! 気分が悪かったりしないんだな?!」


ベッドから出たい、と言ったわたしにナイトメアが大声を張り上げる。半身を起き上がらせてのやりとりにも疲れ果てたわたしは、けれど心配をかけたことも事実なので言い返すことも出来ない。


「気分も悪くないし、どこも痛んだりしてない。もうお医者さまも大丈夫って言っていたじゃない」
「いーや! あの医者は薬ばっかりだしてろくに診察しないからな。腕が鈍っているかもしれん」


それはあなたが薬を飲まないからいくら診察したところで無駄だからでしょう。
頭の中で考えると、彼には筒抜けなのですぐに言い返される。


「君は…………! なぜそう自分の体に無頓着なんだ? 特別丈夫というわけじゃないんだぞ!」
「…………いや、わたしも何で風邪がこんなに長引いたのかわからないんだけど」
「そうだろう! やっぱりまだどこか不調があるのかもしれない。すぐに違う医者を呼んで…………!」


自分のこととなるとまったく動かないくせに、ナイトメアはこういうときばかり素早い。わたしはまた診察漬けになる日々を想像してぞっとした。彼が出て行くより早く服のすそを掴むと、ナイトメアの暴走をなんとか止める。


「もう回復したったら!」
「だが安心できんだろう。いつまた倒れるか…………!」
「それはあなた!」
「なにをぅ? 聞いて驚くな。なんと君が寝込んでいる間、一度も吐血しなかったんだぞ」


な、ときらきらした笑顔で黙って控えているグレイを促せば部下は苦笑いとともに頷いた。風邪と吐血では程度の差がまったく違うのに、どうしてこうも自信満々なのだろう。そもそも吐血しなかったからと言って何に驚くなと言うつもりなのだろうか。本来ならば日常的に吐血している方が問題なのだ。
けれどあんまりにもグレイが健気にフォローするので――――本当にナイトメア様はやればできるお方なんです――――その話題には触れずにおくことにする。


「そろそろ外の空気を吸いたいの。これじゃ、また病気になっちゃうでしょう」
「なら窓を開ければいいだろう。ちゃんと厚着をして、きちんと時間を決めて」
「追加するけれど、自分の足で歩いて外気に触れたいの。土の上を歩くってそれだけで治療になるんだから」


まったくもってでたらめだが、わたしは胸を張って言う。ナイトメアがやや不審そうにわたしを見ていたがやがて根負けしたらしく、長く重苦しいため息を吐く。


「そんなに行きたいのか?」
「うん」
「外はうんと寒いんだぞ?」
「うん」
「私がいくら止めてもか?」
「うん。…………ナイトメアには感謝してるけど、もう本当に大丈夫だから」


思わず即答してしまい罰が悪くなって急いで付け加える。彼は眉を吊り上げて拗ねている表情を作ったまま、けれどなかなか了承してはくれなかった。仕方なく背後で控えるグレイと視線を合わせると、彼はやれやれと肩を竦める。


「ナイトメア様、の言うことも一理あります。筋力と言うものは動かさないだけで減っていくものですから」
「なっ! グレイっ」
「それに彼女も考えあってのことでしょう。具体的に行きたい場所も決まっているはずです。…………そうだろう?」


すっと瞳を据えられてどきりとする。行きたい場所など決まっていなかった。グレイはグレイなりに止めるつもりらしい。わたしは、けれどこれ以上の軟禁生活は御免だったので瞬時に考えをめぐらせる。


「き、決まってる。そんなに遠いところじゃないから」


言いながら、ふといい案が浮かんだ。これならばナイトメアも納得してくれるだろう。わたしは余裕を持って微笑む。


「町にある、肉まんが美味しいって有名になったお店があるでしょ? あそこに行きたいの。そこだったら塔から近いし、適度な距離だと思う」


健康なのに寝かされている間中、わたしの退屈を紛らわせてくれるのは雑誌だけだった。その雑誌に冬の名物特集として載っていたのがその店だ。なんでも普通のものよりも大きくて具材も魚介類をふんだんに入れているらしい。写真一杯に温かそうな肉まんが映し出されていて、外にでられるようになったら絶対に行こうと思っていた。
ナイトメアは意表を突かれた顔をする。


「肉まん…………?」
「そう。食欲が出てきたの。それはいいことでしょう?」
「それはいいことだが…………何も肉まんなら塔に持ってこさせれば」
「わたしが、自分の足で、行きたいの」


わざわざ区切って発音し、にっこりと口角をあげて笑う。ここで押し負けたらいつ解放してもらえるかわからない。ナイトメアはまだぐずぐず言いそうだったので、わたしは最終手段を使うことにする。


「だったら、一緒に行けばいいじゃない」
「は?」
「わたしのことを心配してくれるんなら、一緒に行ってくれるでしょう? そしたら気分が悪くなってもすぐにあなたが助けてくれる」


実際に気分の悪くなったわたしをナイトメアがどうにかできるなどとは思わなかったけれど、わたしはそう言って微笑んだ。鬱陶しくなどないし、もちろん彼らの心配は嬉しいのだがこれ以上は身体がなまってしまうのだ。ナイトメアは束の間考えた後で重々しく頷いた。仕方がないな、付き合ってやろう。妙に仰々しいそれに苦笑して、わたしはお礼を言う。アリスによれば彼はわたしが伏せっている間、足しげく通ってきてくれたらしいし、グレイによれば仕事もしていたらしい。心配性が過ぎたからといっても、感謝すべきなのだ。















「寒い」


隣で呻くナイトメアは、がちがちと震えている。病み上がりのわたしの方が健康体のようだった。彼はきちんとコートを着ているし、手袋だってしているのに。
ふたりで連れ立って塔から出て町を歩いていた。お目当ての肉まんを売る店は歩いても十分ほどかかるだろう。わたしは用意されたツイードコート――――首周りと手首にたっぷりとボアが施された、太ももを覆う長さのコートだ―――を着て、おそろいの手袋をはめ、靴下も三枚履かされた上に皮のブーツを装着している。耳を覆うように被っている毛糸の帽子はざっくりと編まれた可愛らしいものだ。そのどれもが新品なのには驚いた。風邪を引いている間にナイトメアが用意させたのだという。


「わたしは、とーっても温かいよ」


ありがとう。伝えると腕を抱えるようにして震えていた彼が少しだけ誇らしげな顔をする。


「当たり前だ。もう絶対に風邪など引かせられないからな」
「……何もナイトメアがそんなに気負う必要ないじゃない」
「いーや、何が何でもだ。女王には私の病気が移ったのだろうと言われるし、帽子屋にも散々女性の扱いがどうたらと説教されたんだぞ? あいつらは人の気も知らないで…………!」


恨めしそうに呟くナイトメアに、アイツは女王にしてやられたのだ、とブラッドが言っていたことを思い出した。なるほど、わたしの風邪はナイトメアの管理不行き届きと結論付けられたわけだ。


「ごめんね」


部下の体調不良まで管理しろとはさすがに思わない。それに彼の部下と言ってもわたしは正式なものではないし、自由に動き回っていたのは自分の落ち度だ。風邪を引いたのは純粋に自業自得に過ぎない。
しょんぼりと小さくなるわたしに、けれどナイトメアはあっけらかんとしている。


「何を言ってるんだ? そうじゃなくて、君は少し前から体調が悪そうだったろう」


隣を見れば鼻を赤くしたナイトメアがまっすぐに見つめてくれている。


「私は気付いていたのに、大丈夫だと言う君の強がりを受け入れたんだ。心が読めてもこれじゃあ、何の役にも立たないと言われても仕方ないだろう」
「そんなこと」
「知っていたのに何もしなかった。それでは知らなかったことと何ら変わりない…………いや、それよりもタチが悪いな」


知ってくれていたのに、何もしなかったのはわたしが悪い。歯車を手放してからずっと、言いたいことはすべて思うようにしている。してほしくないこと、気遣ってほしくないこと、わたしはいちいち思うことでナイトメアに注文をつけてきた。だからわたしの我侭を通してくれたにすぎない彼は、けれどそれについても反省しているのだ。


「君がしてほしくないと思うことはしたくない…………が、やはり限度がある」


ナイトメアの腕がゆっくりと持ち上げられ、わたしの耳の下にそっと差し入れられた。体温をはかっているのだ。冷たい彼の指先は、温かさを奪っていく。


「君が風邪を引いている間中、少しも気が休まらなかった。あんな思いは二度と御免だ」
「そんなに心配したの?」
「当たり前だろう。君は顔が広いから色んなヤツが来るし、そんなに仲がよかったのかと見せ付けられるし…………なにより、苦しそうな君を他のやつらに見せたくなかった」
「…………苦しそうだった?」
「あぁ…………苦しそうだったし、忘れかけていた。何度も夢に入ろうとしたのに、夢と現実の境目があいまいすぎて手を出せなくて」


忘れかけていた。ナイトメアの言葉に、わたしは自分の生まれ育った場所をループしていた夢を思い出す。今考えても怖い、あれらはすべてわたしの内側だった。顔のなくなった両親や友人たちの、無言の叫び。声すらも忘れてしまったのだろうか。あまりにも重要とは言いがたい会話ばかりを繰り返していたから記憶にも残らなかったのだろうか。
耳の裏側から指が引き抜かれ、途端に風が入り込む。ナイトメアは、唇は紫色だが微笑みは穏やかだ。


「だが帰ってきてくれたろう。ちゃんと、思い出してくれた」
「…………ナイトメアは、甘い」
「ん?」
「甘すぎるでしょう。風邪をひいたのは自業自得だし、塔を騒がしくさせたのだってわたしのせい。それにもう心を読めるんだから…………」


わたしの中身が綺麗じゃないことくらい、わかるでしょう。
自分の汚さなど身に染みて知っている。八方美人でそのくせ無鉄砲、考えなしのくせに妙に小賢しい。歯車をユリウスに渡してからずっと、ナイトメアをできるだけ避けるようにしていた。彼の、わたしに対する評価が低下するのを確かめたくなかったのだ。そしてそれをナイトメアが一瞬でも顔に出せば、理不尽に傷つく自分がいることを知っていた。そうしてそんな醜態を晒したくなかった。
ナイトメアはきょとんとした後、眉を八の字にして苦笑する。


「そんなことを気にしていたのか」
「…………わたしには、一大事だったんだけど」
「なら、私も一大事だった。ずっと君に嫌われたのだと思っていたからな」
「そんなこと」
「ないと思ってくれているだろう。大丈夫、わかるよ。…………ずっと申し訳なく思ってくれているのも、迷惑をかけてしまってどうしようと考えているのも、わかる」
「…………」
「だがわかるからこそ、私は君を甘やかすだろう。君の心は、君が思うよりずっと心地いい」


さぁ、行こうか。言いたいことを言い終えて満足したのか、ナイトメアは歩き出す。とりあえず嫌われてはいないらしい。わたしは自分のことを甘やかす価値などないと思うけれど。
開いてしまった距離を縮めるように歩き出し、彼の隣にもう一度おさまる。ちらりと隣を盗み見ればナイトメアと目があった。


「私としては、未だに君が隣にいてくれることの方が驚きなんだよ」


零した声に諦めが混じっていたので、わたしは悲しくなる。だから裏返るように声が明るくなった。


「当たり前でしょう。わたしは自分の中身が嫌いなのであって、ナイトメアのことは好きだもの」


感謝しているし、言葉では言い尽くせない感情もある。ナイトメアが闇を抱えているようにわたしも自分の内で闇を飼っている。それらを見られることに対して葛藤がないわけではないし、進んで見せたいものでもない。出来るなら見せたくないけれど、ナイトメアだって見たくて見ているわけでもないのだ。それならあとは嘘だけはつかないようにして、常に彼とは正面を向いていなければいけない。目を見るのは、どんな言葉よりも真実に近いとわたしは思う。


「あ、ほらほら。あの店!」


長蛇の列が視界に入り、指をさす。ナイトメアは明らかに嫌そうな顔をしたが、腕をとって並ばせた。彼はこの町を治める権力者なのだから並ぶ必要などないのだろうが、それでは楽しくないのだ。苦労がなければ思い出にならない。思い出にならなければ、思い出すのが困難になる。
忘れたくないものばかりが残ればいい。忘却は罪だ。残していったのに、忘れるなんて自分勝手すぎる。悩んで苦しんで、それでようやく自分の中の釣り合いが取れているのにどうしてわたしは零してしまうのだろう。記憶の入れ物に空いた穴は大きすぎて、わたしは修復できない。






















目隠しの掌も





(10.02.05)