ステンレスのボウルにスイートチョコレートを刻んで入れ、60度くらいの湯煎でゆっくりと溶かす作業は心が落ち着く。ゴムベラを使って丁寧にやるのがいい。底から混ぜて、均一になめらかになるチョコレートは不思議に美しいと思う。ボウルに水が入らないように固定し、生クリームとバターを一緒にレンジで溶かす。バターは溶かしすぎると沸騰するので10秒くらいずつ、確認しながら進めなければいけない。 もう一体何時間帯こうしているのだろう。むっとするほど温かく甘い空気が調理場には満ちている。食事の準備をするコックたちは戻ってきていないのだから約束の時間内ではあるのだろうが、料理と言うものはいつだって時間間隔をなくさせる。特にお菓子作りは根気と丁寧さが大事だから、材料をはかったりするときや泡だて器を使うときなどは無心にならざるを得ない。わたしの心はそういうとき途端に解放されて、でもふわふわと天井付近で行き場を失って小さくなる。どこへも行けないのに、ひどく満ちたりてしまう。 卵黄をときほぐして砂糖と混ぜ、ゴムベラに伝わせながらチョコレートとまぜる。ふたつの別の物体を、こうやって一つにあわせるのも好きな工程だった。色を変えてお互いに折り合いをつけながら、けれどまったく別のものになる瞬間。分離していたものが一緒になると、焦っていた心臓が安心する。 すっかり合わさったチョコレート生地を満足して眺めながら、湯煎に戻して温度を保つ。次の工程に進まなければならない。 「あ、やっぱりここにいたのね」 調理場の扉が開いて、そこからアリスが顔を出した。いつものエプロンドレスを着て、可愛らしいリボンを頭に乗せた姿。アリスは微笑んでわたしに近寄り、手元を眺めながら感心するように息を吐いた。わたしは彼女の反応に苦笑して、別のボウルに用意しておいた卵白を泡出て始める。 「今日は誰に会いに来たの? ユリウスか…………それともナイトメア?」 「ううん。違うわ。…………前に町で会った時、グレイが持っていた包みを思い出したの」 そう言って笑うアリスは彼女もバレンタインのチョコレートを買うために冬を訪れたことと、そのとき見つけた店の袋の柄がグレイのものと似ていたので気になったことを話した。もちろんアリスの読みは間違いではなく、わたしとグレイはバレンタイン専門の店に行ってきたのだ。冬になって色彩を変えた町は、手に取る商品まで様変わりしている。 「じゃあ、アリスはペーターに贈ったの?」 かしゃかしゃかしゃ。メレンゲになる前、卵白をあわ立てるときの音が好きだ。左腕に抱えたボウルをしっかりと固定させ、右腕を大きく回しながら空気を含ませる。泡だて器の一定のリズムを聞いていると、自分が穏やかになれる。 アリスは少しばかり緊張して、頷く。そうしてきちんと場所を変えて贈ろうと思っていたのにその場で要求されてしまったことを、渋々と話した。 「少なくとも、心の準備をしてから渡そうと思っていたのに」 「…………でも、ペーターにとっては始めてのチョコレートだったんでしょう?」 潔癖症と用心深さはこの世界随一と言っていいペーターは、もらうものはすべて処分していた。もちろんバレンタインのチョコレートも、女の子の気持ちの篭ったカードや花も。信じられないでしょう、と零すアリスにわたしは、けれどペーターに贈り物をしようと思う女の子がいると思えるアリスのほうが信じられない、と思う。いくら顔がいいと言えど、相手はハートの城の宰相なのだ。冷酷無比なウサギにラッピングを施した可愛らしい包みを持つ少女が駆け寄り様に撃たれるなんて、悪夢すぎる。この世界の顔なしと言う人々がどんなに恐れしらずでもそれはないと思うのだが、アリスは必ずもらっている、と言ってきかない。惚れた欲目かな、と椅子を持ってきて調理台に頬杖をつく彼女を見ながら思う。 「そうね。たぶん、はじめて。ペーターが認識している中ではおそらく…………」 「たぶん、じゃなくて確実にそうでしょ。だって、彼にとって大切にしたいのもチョコレートを欲しいと思うのもアリスだけだもの」 ペーターのバレンタインは、アリスで始まってアリスで終わる。なんて単純明快で、わかりやすい愛の形だろう。わたしは透明な液体だった卵白が、徐々にもったりとした白い泡になっていくのを見つめる。むくむく膨らむさまは、まるで人の期待のようだ。 アリスは気恥ずかしげに頬を赤くして、誤魔化すように笑う。 「それにしても、すごい量ね。もしかして全員違うの?」 調理場の隅、もうすでに作られたチョコレートたちはラッピングされて箱の中で大人しくしている。赤や黄色、形もさまざまなプレゼントに自分でも苦笑してしまう。すべての中身がチョコレートだというのは変わらないが、楽しくて趣向を凝らしすぎてしまった。 もったりと重量を増し、ボウルの中のメレンゲは艶めいている。その中に先ほどのチョコレートを流し込んでゴムベラでゆっくりと大きく混ぜ、更に薄力粉をふるい入れる。 「自分でも作りすぎたかもって思った」 「…………これじゃ、グレイの荷物もあれだけになるわね」 「うん。随分重かったと思うのに、ひとつも持たせてもらえないんだもん」 結局最後のラッピング類は奪ったけれど、それ以外はすべてグレイが持った。甘いものばかりが詰まった紙袋がいくつになってもびくともしないグレイの腕のせいで、わたしはいつのまにか買い込みすぎてしまっていた。 不平を漏らさず態度を崩さず、彼は常識があるだけではなくて優しい。 「だからね、グレイには感謝の意味も込めて」 ボウルの中身を型に流し込み、オーブンに入れてタイマーを調節する。いくつかのプレゼントのうち、彼のものはまだラッピングしていないので中身を見せて上げられた。上から開けるタイプのケーキ箱を覗いたアリスは、とても女の子らしいきらきらした顔をさせる。 「きれい…………!」 グレイのチョコレートはショコラハートだった。チョコレートケーキをハートの形にくりぬき、たっぷりとチョコレートクリームを塗った上に固形のままのチョコレートをピーラーで削ってデコレーションする。夢みたいにふわふわと甘い、ケーキだった。ひそかに会心の出来だと思っているケーキをアリスは褒めてくれる。お店で売ってるものより綺麗。 「もちろん、なにしろ愛情が詰まってますから」 テーブルに並ぶひとつひとつに違った愛情が入っていることを知っているのは、作った本人だけだ。その人を思いながらレシピを選んだのだし、喜んでくれるか考えながら材料を買った。笑いながら材料をまぜて、わくわくしながらオーブンを覗いて、ひどく自己満足な行為だとも思うけれど楽しかった。 わたしの世界では基本、手作りが主流だったように思う。もちろん高価なチョコレートをもらった方が嬉しい男性もいるだろうが、大事なのは誰にもらうかでありどんな思いが込められているかなのだから、手作りと言うのは一番わかりやすい愛情表現だ。その愛情表現がチョコレートであるというのもまたいい、とわたしは思う。 「知ってる? アリス」 オーブンに入れた型――――ガトーショコラ以外すべての作品を作り終えて、わたしは珈琲を入れながら尋ねる。洗い物を手伝ってくれたアリスは調理器具を仕舞い終えたところだった。なぁに、と振り返る。 「溶かして固めただけのチョコレートはね、わたしの愛情どおりになるの。だから一度溶かさなくてはいけなくて、固めるための手段に苦心しなくてはいけない」 動物よりも植物よりも、素直で融通のきかないものが食物だ。どうあっても偽れないし、どうでもいいと思いながら作ったものはそうなってしまう。自分の手で作られたものが相手の口に入る、直接的な奉仕でもある。 考えて失敗してチャレンジして、それでもその人を思って作ればみんな同じ味になってしまう。 「だから、ね」 席に着いたアリスに珈琲カップを差し出して、プレゼントの山から一つ取り出す。白と水色の淡いストライプ模様のリボンの付いた、網籠をかたどった入れ物。 「これはわたしからアリスに。ずっと看病してくれてありがとう」 自分の時間を浪費して、付き添ってくれてありがとう。アリスは驚いた顔をしたあとに、先ほどとは違う眩しいものを含ませた瞳で微笑んだ。その笑い方があまりにも綺麗だったので、わたしはそれだけでも作ってよかった、と思う。 「ありがとう! 素敵な贈り物ね」 抱えるようにして両腕に閉じ込められた箱の中身はマカロンが入っている。チョコレートとフランボワーズの二種類。小さくて愛らしい、アリスにぴったりのお菓子だ。わたしは他の人に作ったあまりを手早くお皿に集めて、二人だけのお茶会をする。甘ったるい調理場はそれだけでも満腹になるほど幸福だ。 オーブンが最後のケーキが焼きあがったことを示すように鳴り、わたしは中身を覗くまでどきどきする。 |
Candied C ynthia
砂糖漬けの女神
(10.02.05)