バレンタインのイベントが過ぎると、周囲はまた驚くほど良好に過ぎていった。クローバーの塔は元から中立を保っているだけあって抗争の類は驚くほど少ない。時折町中で騒ぎが起きるだけで、ナイトメアやグレイが出るまでもなく終わってしまうものばかりだ。寒さが染みる塔の、自分の部屋や廊下から町中を見渡すととても果てしない気持ちにさせられる。まるでずっと前から冬で、中断していた時期などなかったようにさえ感じてしまう。
わたしは自室に籠もることが多くなった。部屋はストーブがたかれていて暖かく、グレイやナイトメアもわたしが特段働くことに意欲的でなくとも叱ったりしない。ただ数時間帯置きに部下が来て、わたしの体調を気遣うのは相変わらずだ。部屋の中でわたしは特段することもなく、本を読んだり編み物をしたりして過ごしている。部屋は暖かいのにわざわざ窓に椅子を寄せて、じっと外の様子を眺めていることも多かった。
過不足はないというのに満たされない。バランスをとった水盆のようだ、と思う。これ以上溢れさせても少なすぎてもひっくり返ってしまうのに、それではいられないのだ。どうしたいのかもわからず、動き出せず、だからこうやって立ち止まっている。


「…………子どもよりタチが悪い」


渇いた唇から漏れた声は、自分の耳にしか届かない。体調は悪くなかったが、気分が優れない。あの風邪の日からずっと、夢見が悪いのだ。顔のない両親や生まれ育った場所や思い出が始終蘇る性格の悪い夢ばかり見るようになった。いつも足がすくんで動けず、けれど瞳を閉じることもできない。
ナイトメアに会えばそれらすべてを知られてしまう。いや、もうすでに彼は知っているのかもしれない。知っていてわかっていて、放っておいてくれるのだろう。


「…………涙も出ない」


両親の顔を思い出せないわけではないが、確実に思い出になりつつある。きっと、いつか思い出せなくなるのだろう。傲慢で自分勝手だ。きっと両親の脳裏からわたしは消えやしないのに、ここで涙も出せずに夢でうなされるわたしは親不孝者だ。
戦っていくと決めたのだ。ここが好きで住まう人々が大切で、一緒に居たいと思った。それには自分の中の良心と、戦っていかなくてはいけない。いけない、なんて義務のように言うことすら憚らなければいけないのに。


「…………?」


控えめなノックの音ともに、もっと小さな声。わたしは思考を中断して、呆れてしまう。椅子から立ち上がり扉を開けると声の主であるナイトメアが情けない顔をして立っていた。そんな顔をする必要などないのに、まるでわたしが困らせているように感じてしまう。廊下の冷気が部屋に入り込み、身体を竦ませる。ショールを羽織っていた肩が震えたのを見て、慌ててナイトメアがわたしを部屋に押し込んだ。


「す、すまない。扉を開けたまま話そうと思っていたわけではないんだ」


きっちり扉を閉めて、ナイトメアは更に困惑する。わたしは出来るだけ笑顔になろうとしたけれど、まったく力の篭らない笑みしか作り出せなかった。


「どうしたの…………もしかしてまたサボり?」
「いやっ、これは堂々とグレイに許可をもらってきたんだぞ。その、君が最近元気がないと部下から聞いてね…………」


口ごもり、わたしをじっと見つめるナイトメアの瞳は綺麗だ。吸い込まれてしまいそうになる。その瞳がわたしの心を覗きたいと思っていることは知っていた。
ごめんね。だからわたしは一心にそう思う。


「君が謝る必要はないだろう」
「でも、本当にごめんなさい。どうしてかわからないけど、心がからっぽなの。ナイトメアに読んでもらうものなんか、何一つないくらい」


もちろん夢見は悪いけれど、もっと大きな喪失感に満たされてしまっていた。どこにも過不足のない世界だと知れば知るほど、どうしても埋められない穴が出来てしまう。どうすればいいのだろうと悩んでも、穴の大きさに足踏みをしてしまってどこにも行けやしない。
ナイトメアは、ともすれば彼に勝る精神科のお医者様などいないほど頼りになる存在だろう。けれど患者があまりにもうつろで正体をなくしてしまっていては、彼とて手の施しようがない。


「やはりあの夢のせいか?」
「…………わからない。でも、仕方のないことだって思う」
「あの夢はひどい。君が参るのも当然だ…………だがその」


言いにくそうに頬を掻き、ナイトメアがわたしを見つめる。本当に心配をしていると、言葉ではなくともわかるような表情で。


「あの夢を見ているときの君はひどく脆くて、無理に中断してしまえないんだ。まるでガラス細工のようで、うっかり壊してしまいかねない」


ガラス細工。わたしはポケットに眠る自分の心の象徴を思い出す。わたしの心そのものだという、瀟洒なガラス瓶だった。たっぷりと液体の入ったそれは、今でも居心地悪そうにしている。まるでわたしの元に戻ったことを、不当だとでも言うみたいに。
心と身体をひとつにしようといくら試みても、大した成果は得られなかった。ではなるようになるだろうと放っておけば、こうやってもっと悪い事態となる。ナイトメアはちっとも悪くないのに、心配させてしまう。もうわたしの「大丈夫」など通用しないだろう。わたしも無意味な愛想笑いには疲れてしまっていた。
いくらかの沈黙がふたりの間に落ちる。立ったまま、こうやってお互いに視線をくれないでいるのは初めてだった。けれど不思議に居心地悪くはない。むしろ雪の音もストーブの音も、すべてが調和をなしていているように思えた。


「…………今度、サーカスがある」


ようやく口を開いたナイトメアは、少しだけ声を和らげている。彼は今度サーカスがあること、それにはこの塔の役持ちや部下が参加することを教えてくれた。そうしてその様子から、彼がわたしを連れて行きたくないといっているのが理解できた。わたしを惑わすものがあるのだと、彼はきっと知っているのだ。
だからわたしはナイトメアをきっちりと見据えて、崩れるように笑う。


「置いていかないで」
「…………
「みんな行くんでしょう? だったら、置いていかないで」


そうして冗談めかせて、首をかしげる。


「淋しくていなくなっちゃうかもしれない、よ」


あまりにも自虐的な冗談に、ナイトメアは笑ってくれる。それは困ると言ってくれ、では絶対に連れて行くしかないなと約束までしてくれるのに、どうしたって心の中の空虚さは拭えなかった。仕事に戻っていく彼の背中にひらひらと手を振りながら、その扉が閉まると音ともに錠が落ちたように感じてしまう。唯一外と繋がっていた、確かなものを断ち切られたような瞬間。
サーカスにいく。変わりに思考を別のものに切り替えた。随分会っていないように感じるけれど、ジョーカーは元気だろうか。仮面と相変わらずのやりとりをして、アリスを呆れさせているのだろうか。口の悪い仮面の、まっすぐで逃げられない物言いを思うと不意に懐かしくなってわたしは少しだけ元気になった。
――――――気になることを放っておいて、いいわけがねぇだろ。いけないと思うなら、まずいことに決まってる。
そうだ、放っておいて好転することなど、ない。わたしは両腕を支えるようにして抱えながら、窓の外を見つめる。























造りかけの似姿





(09,03.12)