「レディス・エンド・ジェントルメン!ウエルカム・トウ・ザ・ワンダフル・ワンダーワールド!」


突然大きな光が場内の一箇所を照らし出し、丸く切り抜かれたステージの中央にあてられる。そこに立つ男は右手を胸に抱え、左手を広げてわたしたちを迎えた。
ジョーカーのサーカス。聞かされていたとおり彼は団長らしい。こうやって始まりの口上を述べるくらいには偉い人物なのだろう。
すり鉢型になっているテント内の、たぶんいい位置に陣取られたクローバーの塔の一団の中央でわたしは彼と対峙している。もちろんこんな言い方はおかしい。わたしの右隣にはユリウスがいるし、左にはナイトメアがいるのにジョーカーはまっすぐにわたしを見ているような気がした。客を一通り見る仕草をしても、すぐにわたしを見つけ出す。


「いつもは縛るもの、縛られるもの。今は、楽しい、夢のひととき」


区切り方が芝居がかっていて、彼の通る声は耳に余韻を残していく。彼はいつも「楽しい」を多用する。いつだって楽しくなければいけないのかと錯覚させられるが、詳しく尋ねれば少しは不幸であるほうがいいのだとも言う。格好に似合いの矛盾ある文句だ。
わたしはまっすぐに見つめてくれるジョーカーを存分に見返す。ここには胸を張ってきているのだと、主張するかのように。


「今このときだけは時間を解放しましょう。お楽しみあれ!」


響きと光が同時に何色もの変化を起こし、紙ふぶきが舞う。わたしはそれらがひらひらと舞う先にいるジョーカーの背景に鉄色を見つける。正しくは赤や黒でまとめられたステージなど一瞬で消え、あの檻が垣間見えたのだ。檻ばかりの石畳で出来た建物が、まばたきと共に何度も現れる。けれど背景など変わらずに立つジョーカーだけは微動だにしない。そこが檻であろうとサーカスであろうと、当然という顔で立っている。
意識が持っていかれそうになった次の瞬間突然なった破裂音のおかげで、なんとか踏みとどまれた。ジョーカーはまだすらすらと口上をのべている。銃の取り扱いやジョーク、それにまた芝居がかった口調が続く中でわたしは見たものを理解しようとじっと彼だけを見つめた。けれどもうジョーカーはわたしを見てはいなかった。まるで、今回はここまで、とでも言うみたいに。


「わぁ………!すごい!」


ジョーカーのサーカスは本当に凝っていた。演出から団員の衣装にいたるまで計算しつくされている。空中ブランコを猫がこなし、火の輪くぐりをライオンもさることながら小象がやりおおせたときは本当に感動した。小動物―――猫や犬はもちろんウサギや鳥―――が懸命に芸をこなすのはとても可愛らしいし、自然と熱が入る。
隣でユリウスも感心した声を出す。


「そうだな、あの仕掛けはおそらく…………」
「仕掛けの話などよせ、時計屋」
「そうだぞ、グレイの言うとおり素直に見ろ」


理論派のユリウスにグレイがつっかかり、彼らは一時騒然としたのだがわたしはあまり構わなかった。ただサーカスに見入り、わたしがあまりにも声をあげてはしゃぐのでグレイもユリウスもいつのまにか黙り込んでいた。隣でナイトメアがくつくつ笑っている。
仕掛けなど知らなくてよかった。思い出にもあまり残らなくていい。今このとき、きちんと楽しもうとわたしは集中していた。
あまりにも集中しすぎていたからかもしれない。ようやくサーカスが終了しぞろぞろと表に出てすぐにわたしは塔の面々とはぐれてしまった。ユリウスに仕掛けのうんちくでも聞いて、ナイトメアやグレイの感想も聞こうと振り返ったのだが、そこには知っている人が誰もいない。


「…………あれ?」


先ほど表に出たばかりなのだから、すぐ近くに出口があるはずなのにそれすらもない。不思議に思って数歩あとずさると、背後で名前を呼ばれた。聴覚ではなく頭に直接響くような、声だ。振り返ったわたしは、少しだけ怯えていた。


「やぁ、


ひらり。ステージで光を浴びていたジョーカーが、いた。わたしは跳ね上がった心臓を宥めようと胸に手を当てる。わたしは何に怯えたというのだろう。名前を呼ばれただけで、それが誰かなど振り返らなければわからなかったのに。
ジョーカーは軽い足取りで近づき、顔を覗きこんでくる。


「どうしたの。怯えた顔をしてる」
「…………人に酔ったの」
「あぁ、君はサーカスは初めてだからね」


すらりと出たうそを信じてくれたように頷くジョーカーにほっと胸をなでおろす。わたしは徐々に落ち着きを取り戻し、微笑んだ。


「それより、お疲れ様。とても楽しかった」
「それはよかった。サーカスは楽しませるものだからね。君が楽しんでくれたなら、俺たちも楽しかったってことだ」
「なに、それ」
「いいんだよ、それで。…………ただ君が見ているからって演目をしつこく尋ねられたから、てっきり体調でも悪いのかと思った」
『そうだぜ。ぎゃーぎゃー五月蝿いったらねぇよ』


黙っていた仮面が口を挟み、わたしは彼の腰に目をやる。空洞になった瞳に微笑むと、黙り込んでしまった。
なんでも安全面に対するチェックがしつこかったらしいが、それは多分サーカスに来る前にナイトメアたちが話していた前回の暴力的なアクシデントが問題だと思われたので黙っていた。見たくもないアクシデントなど、想像するのもいやだ。
ジョーカーは肩を竦める。


「警戒されてるんだよ、俺」
「警戒? なぜ」
「さぁ、それは彼らに聞かないと。立場としてはユリウスに近い、取り締まる側なんだけどね」
『そうだぜ、同じ穴の狢だって言うのによぉ。お前の前じゃみんなが優等生ぶって優しいだろ』


ケタケタ笑う仮面の声に、首をかしげた。優等生ぶっている。そんなことは言われなくとも知っていた。ナイトメアが他の人々から恐れられているのも、グレイが昔荒れていて今も少しだけ気性が激しい部分があることも、ユリウスがこの世界の葬儀屋と呼ばれるに足る仕事をしていることも、すでに知っている。だから彼らがわたしに覗かせまいとする部分だって必ずあるのだろう。どうしたって見えない場所でしなくてはいけない仕事もあるかもしれない。だからそれとは別に、彼らに仮面を被らせていることなど知っていた。
この世界にあとからやってきたわたしに、きちんとした部分を見せてくれているのにそれ以上の何を望めというのだろう。


「そうだね。きっと装わせているんだと思う」
「…………へぇ。ショックじゃないの。全部を見せてもらいたいと思わない?」
「変なことを聞くんだねジョーカー。じゃあ、あなたは見たいと思う?」


右手を心臓の真上にとんと乗せて、わたしはまっすぐにジョーカーを見た。


「わたしの中身。会って日が浅い分、被ってる仮面の奥」
「…………君の?」
「そう。見せたくないから、わざわざ隠している部分」


にっこりと微笑むとジョーカーは束の間考えたあとに首を振った。いいやと言って、やっぱり君は面白いよと笑い声交じりに答える。それとは別に、仮面はイラついているようだった。


『おい、ジョーカー! お前が言いくるめられてどうすんだ!』
「でも本当にこの子は面白いんだよ、ジョーカー。君だって聞いていたろ」


中身を見たいかなんて、そうそう言えない。ジョーカーは瞳を細めて、感情の読み取れない笑みのままだ。わたしは見せられる中身など少ないのだと思いながら、それでも堂々と微笑む。サーカスのショーを見ているときからずっと、活力が戻りつつあった。多分一時しのぎだろうが、パワーと言うか高揚感に満たされていてからっぽの心のことなど忘れていられた。


「ついてきて、よかった」
「…………まさか、置いていかれそうだった?」
「そのまさか。心配してくれたんだけどね…………置いていかないでって駄々をこねたの」


ナイトメアが塔にいてほしいと望んでいることくらい知っていたし、行くと言ったときグレイもユリウスもいい顔をしなかった。でも彼らがいくのにわたしが行かないなんて、それこそ意味がないと思ったのだ。あの塔に暮らしている意味。
仮面の笑い声が高くなり、わたしはびくりとする。


『ケケケッ。置き去りにされたのはどっちだろうな。最後は誰が置いていかれるのか』


刃だった。どうしてこの仮面はいちいち鋭い刃で切りつけるのだろう。わたしは為すすべもなくざっくりと切られてしまう。鮮やかな血を流して、きちんと覚えていられるように脳に刻む。置いていかれるのも、置いていくのも御免だ。
ジョーカーは笑ったままわたしの両肩に手をのせ、くるりと回れ右させる。耳元で、優しいと言うより怪しい声がする。


『はぐれるなよ。ヤツラと居たいんだろ』
「さぁ、楽しんでおいで」


言われなくとも楽しむ気はあるのだが、いかんせんわたしは迷子なのだ。まずはみんなを探さなくてはならない。探してもうはぐれないように、紐でも何でも使わなければ。


!」
「…………おまえ、こんなところに居たのか!」


ジョーカーと別れて数歩も歩かないうちだった。わたしは突然肩をつかまれ、ぐいと引っ張られる。目の前に星が飛ぶほどの衝撃だが、身体はよろめかなかった。ただ、目の前に現れたユリウスとグレイが交互に何事かを捲くし立てている。


「よかった。いきなりいなくなるからまさか人攫いにあったのかと思った」
「浮かれてふわふわとしているからはぐれるんだ。まったくお前はエースか」
「それはないだろう、時計屋。を騎士に例えるのはあんまりだ」
「だが、現にこいつははぐれているだろう。あれだけ近くにいたのにあっさりと」
「それは俺たちの不注意もあるわけで…………?」
「……何をしている?」


言い合いを始めるふたりをじっと見つめたわたしがおもむろに手を伸ばすと、同時に怪訝な顔をされた。わたしの手は彼らのスーツの端っこを、ぎゅうと握りしめている。


「こうすれば、もうはぐれないでしょう?」


そうしてようやく微笑んで、わたしは謝った。ふたりはなんとも言えない顔をして、スーツを握ったわたしの手をやんわりとほどいて握りなおしてくれた。驚いて見上げれば、どちらも同じくらい染まった頬。


「スーツを握るな、皺になる」
「…………他に言えないのか、時計屋。その…………スーツよりは、見栄えがするだろう?」


さっさと歩き始めたユリウスに引っ張られるようにわたしとグレイが歩き出す。早くもなく、わたしの歩調に合わせてくれた足取りだ。わたしは目をつぶっていても帰り道がちゃんと確保されていると感じる。少なくともこの手を握っていれば迷うことはない。いつだって迷うのは、わたしが手を伸ばさないからだ。それなのに迷ってから当然のように手を出すわたしは、彼らに見せていない部分がよほど醜いのかもしれない。




















独りで踊れるならここに居る必要も無い



(09.03.12)