サーカスの余韻を残しつつ、わたしは塔の生活をまた始めた。雪が音を吸い込んでしまうクローバーの塔はナイトメアが駄々をこねない限り騒ぎ立てるものが極端に少ない。グレイにしてもユリウスにしても、どちらも仕事熱心なので滅多なことがない限り出会わないからだ。石造りのためにしんと静まり返った廊下を歩きながら、わたしはふと窓の外を見る。珍しく雪の降っていない空は、うっすらと白をまぶしたような青が美しい。 仕事をしているのかと言われれば、以前ほど引きこもっていることがなくなっただけであって熱心ではない状態は続いている。ただ部屋にいなくなっただけだ。塔の中を目的もなく歩き回ることが多くなり、外出もユリウスよりは出かけている。塔のお膝元にある町中でカフェに居座っていることもしばしばあった。ぼうとしていると、時間などはあってないように進んでいく。 「秋に行きましょう、」 いつものように塔の中を散歩していると、突然目の前にアリスが現れた。冴えるような水色のエプロンドレスを着て、腰に両手をあてている。 わたしは驚いて目を瞬かせながら、反射的に頷いていた。うん。アリスの問答無用の言い方には迫力があり、わたしは宙を浮いていた意識を引き戻される。どうしても、彼女の強い瞳には逆らえない。 あれよあれよと言う間にわたしの身支度は完了し、ナイトメアの承諾もアリスが得てくれていたので流されているだけで冬を抜け出すことになった。アリスはわたしの左手をしっかり握ってくれている。ひっぱる腕に逆らうように力を抜きながら、心地いい強さに身をゆだねた。 「…………ねぇ、アリス」 すでにジョーカーによって季節は秋に変えられており、わたしはアリスの準備のよさに感嘆する。そしてそうまで準備をさせてしまうほど、自分は彼女の目に「異常」と映っていたことも思い知った。 アリスは前を向いたまま、なぁに、と返事をする。 「突然、どうしたの?」 「…………どうしたもこうしたも……………………それを聞きたいのは私の方よ」 アリスに見えないように、わたしはひっそり笑った。予想通りだ。わたしは無気力な自分に辟易する。こんなにも自由なのに、わたしはもうどこへも行けない。行く気がないのだ。 「よくわからない。ごめんね、アリス」 「…………ナイトメアが心配していたわ」 「心の中が空っぽなの。…………どうしてかは、わからないけれど」 わからないことばかりだ。わたしは突っ立ったまま世界の終焉を迎えているような気持ちになる。このまま終わってしまうことをただ見守るだけしかできない。 秋の道はざくざくと小気味いい音をたてる。落ち葉がきりもなく降ってくるせいだ。 「それにしても、どうして秋?」 話題を変えようと零せば、アリスは心持ち上を見上げた。彼女の目にも写っているだろう、真っ赤な落ち葉はそれだけで壮観だ。はらりはらりと舞い落ちて、わたしとアリスを彩っている。 「春はペーターが五月蝿いの。夏も騒がしいし、秋なら…………のリハビリにもいいでしょう?」 「リハビリ…………」 「そうよ。あなたにはリハビリが必要なんだわ」 言っているうちにどんどん力強く肯定される。アリスの頷きには決断力があると常々思う。 リハビリ。わたしは心の中で反芻して、笑った。特段何かあったわけではない。誰かに傷つけられたわけでもなく、大事件が起きたわけでもないのにどうして閉鎖的になってしまうのだろう。引っ張ってもらえなければ歩いていけない。ため息ばかりが漏れていき、そのたびに内側がしぼんでいくように感じた。 やがて訪れた帽子屋屋敷は、けれど騒がしくないというわけでもなかった。 「お姉さんたち!」 「あぁ、よかった! 今迎えに行こうかって兄弟と話していたんだ」 門柱の前で背の高い男性ふたりに手放して喜ばれ、わたしとアリスは同時に引いた。彼らは子どものときと変わらないはしゃぎようを見せるので、こちらとしては対応に困るのだ。彼らはきっちりとスーツを着込み斧を持ったスタイルで、にこやかにふたり同時に手をだした。戸惑ったように呆けるわたしたちに、双子はそれこそ嬉しげに微笑む。 「今回は僕らがエスコート役だよ、お姉さん」 「ハートの城とクローバーの塔のお姫さまを、ちゃんとボスのお茶会にお招きするためにね」 だから、と差し出された腕をじっと見つめてわたしは微笑む。アリスも隣で微笑んだようだった。演出好きのブラッドは、こうやってゲストを楽しませてくれる。わたしの手をディーが、アリスの手をダムが引き門をくぐると華やいだ屋敷が近くなる。しっかりと握られたディーの手のひらの体温を覚えておこうと一瞬だけ目を閉じた。こうやって握られているだけなのに、どうしてか泣き出しそうになってしまう。大丈夫、わたしはひとりきりではない。 「ようこそ、お嬢さん」 「おぉ! 待ってたぜ!」 大理石の大きなテーブルに陣取った一団が、わたしたちを迎えた。上座にはブラッドが座り、その隣には腰を浮かせたエリオット、背後に控えるのはマフィアの構成員兼使用人だ。その誰もが微笑んだ状態でわたしとアリスを迎えてくれる。なんて贅沢なんだろう。握ってもらった手を優雅に席に誘導させてもらいながら、自然と頬が緩む。 ブラッドはすでに片手に持っていたティーカップをソーサーに戻し、優雅に微笑んだ。 「先日はに結構なものをいただいた。あいにく出かけていたのが心残りだが……これはほんの礼だ」 うまかったぜ、チョコレート。エリオットが眩しい笑顔のまま言ってくれる。わたしはそれはよかった、と胸をなでおろした。 ブラッドはたくさんのお菓子を用意してくれていた。秋の果物を初め、それを使ったとりどりのスウィーツは次々と運ばれてきたし、甘くて飲みやすいからとワインも供された。使ったこともないワイングラスにとろりと深みのある液体が注がれ、そこに映る自分と目があう。ワインは驚くほど甘く芳しかった。吸い込むように身体におさめていくわたしにアリスがストップをかけるまで呑み続けた。顔が赤くなり呂律の怪しくなったわたしにエリオットが陽気に声をかける。双子も負けじとたくさん飲んで、たくさん食べた。ただブラッドだけが場に流されず、けれどその場を完全に支配しながら紅茶を飲んでいる。 「…………、大丈夫?」 アリスが時折声をかけてくれたけれど、わたしはふにゃりと微笑んだまま手を振るだけだ。ワインは頭の螺子をいい具合に抜いていた。空虚さは消えて、かわりに胸いっぱいにワインが注がれている。ぼんやりとしていたかった。とろとろと液体が身体をめぐるのを感じていたい。 ふと空を見上げて、ひどく懐かしくなる。引っ越し直後、わたしはブラッドの逆鱗に触れて半ば捕らわれるような形でここに滞在した時期がある。乱暴されたわけではなく、何かを強要されたのでもないけれどここを出たくて空を見上げたことだけははっきりと覚えていた。窓越しの空は昼でも夕方でも夜でも美しく、脱出不可能の屋敷に捕らわれるわたしを慰めてくれた。 けれど今は縛るものなどないのに、こうやって張り付けにされている。自分自身で、手足に釘を打っていることなどわかっているのに。 「…………ねむい」 まぶたが重く、開けていられなくなる。身体の中の隅々にワインが行き渡っている。血液の代わりにワインが流れ、そのとろとろとした音が睡眠を促しているようだった。 アリスの気遣う声――――大丈夫じゃないじゃない!――――が遠く聞こえ、ついでブラッドの淡々とした声――――泊まっていけばいいじゃないか―――が続き、わたしは意識的に頷いていた。強制されたわけではなく、そうしたかった。秋の空気、やんわりと包み込まれていく空虚感をもう少し手放していたかった。椅子から立ち上がると足元がおぼつかず、ふらりと傾く。 「おっと!」 絶妙なタイミングで差し込まれた腕に助けられ、わたしは軽々と宙に浮く。エリオットの匂いだ。視覚ではなく嗅覚が先に彼だと結論付ける。鼻先をくすぐる太陽の匂い、ひだまりと硝煙がまざった複雑で彼らしくシンプルな香りだ。 寝てていいぜ。耳元で囁かれた声が引き金になった。わたしはすぐに身体から力を抜く。もうまぶたが完全に落ちきっていて、眠りは深くどこまでも落ちていけた。ふわふわと浮いているようなのに、確実に落ちていくのがわかる奇妙な錯覚。ここを抜け出したかったはずなのに、わたしは落ち着いている自分がいることに気付いた。むしろ戻ってきたことに安堵しているような、説明のつけられない感情がぐるぐると回っている。 酔っているせいだ。わたしはエリオットの身体に頬を寄せて、どこまでも落ちていく感覚に溺れる。 |
溶け合うことはないのだけれど
(10.03.12)