わたしにとっての世界とは、そこにあってしかるべきものであってそれ以上の価値などなかった。変わり映えのしない住宅地の一角に、どこにでもあるような家があり、これまたコピーしたような年頃の娘の部屋があるというだけだ。特別なものなどなかった。持っていたのは大量生産された靴や服だし、スーパーに行けば大抵のものは揃っている。お金に特別不自由したことなどなかったし、それはたぶん物欲がなかったせいだろう。あれもこれもと思うほど、興味を引かれるものがなかった。 わたしは居間に立ちすくんでいる。視界に映るすべてが―――たとえばマグカップ、たとえばテレビ―――お前は誰だと問うてくる。忙しなく働く母に、ゆったりと座る父、わたしだけが立ちすくんでいるというのに誰も声をかけてくれない。それとも、わたしのことなど見えていないのだろうか。 ―――――――――この世界で、わたしには顔すらないの。 母にも父にも、以前として顔などない。けれど決定的に違うのは彼らがわたしに話しかけなくなったことだ。熱心に語りかけてくれたのに、もう空気のように扱われている。まるでわたしひとり消えたからと言って取り立てるものなどないようだった。 思った途端に言いようのない寂しさに見舞われた。忘れられることが寂しい。捨てたのは自分であって、彼らが元の日常を取り戻してくれたのならそれ以上のことなどないのに、理不尽にもわたしは思う。父に母に友人に、忘れられるのはこんなに悲しいことなのだ。 胸がきりきりと痛み、身体が無意識に手を伸ばそうとする。掴もうとする腕を渾身の力で止めたのは、これ以上惨めになりたくなかったからだ。自分で失ったものに、捨てられたからといって何を非難すればいいのだろう。 忘れないでほしかった。わたしが忘れないように、ずっと覚えていてほしかった。 でも、そんなのは勝手な願いにすぎない。 「…………」 まぶたを開けると、カーテンから光が漏れ出していた。この世界にはない、気だるげな空気はわたし自身が作り出している。身体が朝だと訴えるので、そのようなものに見えているに過ぎない。 天井の高さも色も模様も、ベッドに敷かれたシーツの硬さも違う。身体が妙に温かく、となりをみればアリスがすこやかな寝息をたてていた。わたしはようやくここが帽子屋屋敷であり、ワインを飲みすぎてアリスともども宿泊したのだと思い出した。思い出したと同時に気だるさが増し、頭の中の靄が一層きつくなる。身体のダルさは抜けきっていないようだった。 アリスを起こさないようにそっとベッドから抜け出し、わたしはひんやりとした部屋に立つ。秋の空気だ。部屋の中まで行き渡った、清冽で渇いた匂いを肺一杯に吸い込んだ。手近にあったショールを肩にかけ、ベッドから出たとき同様注意を払って部屋を出た。そろりと足を踏み出すと、誰もいない廊下に出る。白っぽい空気に包まれた廊下を歩きながら、まるで自分が異端者だと思う。なんて馴染んでいないのだろう、この空気と雰囲気にまるであっていない。アリスならばあんなふうに、寝ているだけだというのに部屋と一体になれていたのに。 「…………ブラッド?」 あるひとつの扉の前に立ち、ノックのあとに小さく呟く。けれど何の応答もないのでノブを回した。あっさりと扉はわたしを受け入れて、簡素な部屋が現れる。 余計な調度品は何一つなかった。サンクスギビングディだからと仕事に励むブラッドが仮眠室に使っている部屋だ。カーテンがかけられ薄暗い部屋にはベッドと小さな書き物机があるだけだ。わたしはそっと耳を澄まし、ブラッドがそこにいることを確認する。もう執務室を回ってきたあとだったので、ここにいるしかないと思ったのだ。 足音をたてないように近づいて顔を覗くと、ブラッドは表情も変えずに眠っていた。 ――――――――眠っているボスを起こしたらー、ましてそれが昼ならー、確実に殺されちゃいますよー。 ずっと前、屋敷に捕らわれていたころ他愛ない会話の中で誰かが言っていた。昼の嫌いな彼らしい。珈琲を飲んだというだけで、ピアスを撃ったのだからあながち嘘ではなさそうだ。 けれどわたしはつかつかとカーテンまで踏み出すと、力いっぱい左右に引いた。 「…………っっ!!!」 ブラッドのかすかなうめき声と共に、身体を貫かれるような鋭い殺気が発せられた。わたしは自分も急な光に目をちかちかさせる。 「おはよう、ブラッド」 「…………おはよう、お嬢さん」 起こしたのがわたしだとわかったのか、殺気を抑えてブラッドが言う。肘をついて身体を起こし、寝乱れたシャツをそのままにして。鍛えられた体躯が白いシャツに映えていた。 ブラッドは頭を抱え、半ば睨むようにしてわたしを見る。 「私を起こす際には気をつけろと…………屋敷の誰かに言われなかったか? 君でなければ今頃、絨毯が汚れていただろうな」 「…………じゃあ、わたしでよかったねぇ」 くすくす笑いながらわたしは温かな日差しをあびる。彼には有害としか感じられない、におい立つ空気。わたしはカーテンを握りしめながらひとしきり笑った。 「…………どうしたんだ、お嬢さん」 あまりにも長く笑っているのでブラッドがいぶかしむ。彼の瞳にはまだ光が戻っていない。わたしはぼんやりとした思考のまま、カーテンの厚ぼったさを感じる手のひらに集中しようとする。 「誰もいなかったの」 突飛なことを言っているわけではなかった。本当に誰も居なかったのだ。アリスと一緒の部屋から出て、廊下をひたひたと歩きながらわたしはひとりぼっちだった。ただの一人の使用人にも会わずエリオットや双子もどこにもいなかった。 ひたひたひたひた。わたしは次第に焦り、恐怖した。夢の続きがワンダーランドにまで及んだのかと思った。 ブラッドは要領を得ずに、けれどじっとわたしを見据えてくれている。くしゃくしゃの髪も乾いた唇も何もかもがブラッドだった。クローバーの塔で熱を出したわたしが初めて悪夢を見たとき、傍に居てくれたのも彼だ。 「どうした、お嬢さん。また怖い夢でも見たのか」 そのとおりだった。けれど怖い夢はもうすでに、わたしを置き去りにしている。ぎゅ、とカーテンを握る手に力を込めた。酒の残った頭では多くは考えられない。だからこそシンプルに、わたしは悲しかった。 誰にも覚えていてもらえない、孤独。 「寂しかった」 呟くと、心の奥に言葉がぴたりと収まった。正直すぎる声は、少しだけ酒に焼かれている。 わたしはブラッドに顔を傾けて、泣きそうに微笑んだ。 「寂しくて寂しくて…………ブラッドに会いたかった」 エリオットではなく双子でもなく、どうしてブラッドを探したのだろう。でも廊下をひたすらに歩きながら探したのは間違いなく彼だった。彼に会って、何が何でも言葉を交わさなければいけないと思った。あの熱の日のように、救ってくれると信じていた。 ブラッドがわずかに目を見開き、こちらを凝視する。まるで珍しいものでも発見したような顔だ。 「その…………お嬢さん」 「ん」 「君は…………まだ酔ってるんだな?」 断定的な声は、けれど恐々としていた。わたしはくすくす笑い出す。笑いながら首を振った。無論、頭はぼうとしたままで。 ブラッドはわたしの様子にまた動揺するように目を泳がせて、やおら立ち上がろうとした瞬間に―――――――――ベッドから転落した。 「……〜〜〜!」 ひどく痛々しい音と共にブラッドがベッドの下で膝を抱える。脛を痛めたに違いない。わたしは傍に駆け寄って、膝をつく。 「大丈夫…………?」 「いや、大したことはない。それよりお嬢さん」 くしゃくしゃの髪のまま、ブラッドがわたしを見つめる。視線の高さは同じだ。ただ戸惑っているのはブラッドの方であるようだった。わたしはじっと彼を見つめる。寝起きの彼は普段より幼く無防備だ。 「…………。酔っていないというのなら、なぜ裸足なんだ?」 ブラッドが唇を持ち上げて、脛の痛みにこらえながら指摘する。そこで初めてわたしは自分が裸足であることを知った。だから廊下を歩く際、ひたひたと音がしたのか。塔の冷たさに慣れすぎたせいで、寒さにはそれほど堪えなくなっていた。 「あぁ、道理で寒いと思った」 「真顔で言わないでくれ…………会話をしているこちらが悲しくなる」 ため息をついて、彼はベッドに身体を寄りかからせるようにして座りなおす。まだ脛は痛むだろうに、ブラッドは辛そうにはしない。 わたしは自分が半分酔っていることを自覚せざるを得ない。けれど陽だまりは暖かく、ブラッドの傍はとても安定していたのでそれは瑣末なことだった。この屋敷でやっと出会えた彼が覚えていてくれればいい。わたしはブラッドの隣に移動して、同じように座り込む。 「…………?」 ぴったりと身を寄せるとブラッドは存外温かかった。先ほどまで寝ていたから当たり前と言えばそうだ。そっと頭を傾けると、彼の肩にしっくりと収まる。そうしてゆっくり瞳を閉じながら、歌うように囁いた。 「病気じゃなくても、傍にいてくれるって言ったでしょう…………?」 眠るまで傍にいてくれたブラッドの、献身的な言葉に甘えた。彼は自分の発言を撤回したりしない。頭のてっぺんあたりで、ブラッドが仕方がないとため息をつく。 「…………今後は酒にも気をつけなくてはな」 瞳をつむり、決して眠るつもりはなかったのにいつのまにかわたしは眠っていた。彼はあの日の宣言どおりに怖い夢など見せず、ワインのとろとろとした甘さのままに眠るわたしの傍にいてくれる。やがてアリスに発見されて揺さぶり起こされるまで、わたしは幸せな眠りの淵で存分に泳いだ。まるで存在を消された夢などなかったように、都合のいい夢だった。 |
幻想水溶液
(10.03.12)