「それで、どうしてブラッドと一緒にいたのか説明してもらえるかしら」 改まった物言いに、隣で歩きながらわたしは冷や汗を流す。帽子屋屋敷に泊まったあと、酔っ払ったわたしはブラッドの部屋に向かったらしい。挙句彼を叩き起こして自分は眠りこけたというのだから、神経が太いなんてものではない。アリスに揺さぶり起こされて視界がはっきりしたとき、けれど目の前にいたのはブラッドだった。彼の肩に頭を乗せて眠っていたらしく、背骨がわずかに軋んだ。ブラッドは誓って手は出していないと言ってくれたし、わたしは自分がふわふわとした気持ちのまま彼の部屋に入った記憶もきちんとあったので何もなかったことなどわかりきっているのだが、アリスは信じてくれなかった。本当に何もなかったのと問いただし、それではなぜ向かったのかと言及する。彼女なりの心配なのだろう。 「だから、ブラッドに会いたかったの」 それ以外に理由がない。わたしは裸足で彼の部屋に行くほど、会いたかった。会って気持ちが落ち着いたので眠りに付いたのだ。自分勝手すぎるが、事実だった。 帽子屋屋敷から自分たちの滞在先に戻る道で、アリスは呆れるというよりは苛立つようにわたしを見ている。対するわたしは肩を竦めて小さくなるしかない。 「本当にそれだけ?」 「…………誓って、それだけ」 「あぁ、もう。…………今度からワインを飲むときはきちんと限界を知るべきよ」 限界も何も、初めて美味しいと思ったワインをどれほど飲めば酔うかなんてわかりようもない。思ったけれど口には出さず、母親に叱られたように「はぁい」と間延びした声を出した。アリスの癇癪の粒は弾けるたびに可愛らしい音がしそうだ、なんて考えながら。 鬱蒼とした森の中を確実な足取りでわたし達は歩く。エイプリルシーズンで地形は変わったが、それでも迷うほどのものではない。サーカスの森ができたせいでメルヘンチックにはなってはいるけれど。 突然、ぴたりとアリスが足を止めた。 「どうしたの」 声をかけると、アリスはまっすぐ前を凝視していた。そのすぐあとで、振り払うように何度もまばたきをする。まるでそこにあるものを意識的に消そうとするかのようだった。 「ごめんなさい。なんでもないわ」 「…………?」 「ちがう…………そうじゃなくて。この前サーカスに行ったとき、は」 サーカス。アリスの発言は突然だった。アリスもハートの城の面々とサーカスに行ったと聞いたが、彼女の視線の先にサーカスなどない。アリスは混乱しているようだった。 やがて落ち着きを取り戻した彼女が「いいの、忘れて」と言うまでわたしは隣で突っ立っていた。木偶の棒のように、ただアリスを見つめたまま。 「じゃあ、またね」 分かれ道でアリスが呟く。ちっとも元気がなかった。まったく「なんでもない」とは言いがたい。わたしはアリスが同じものを見ているのだと確信する。わたし達の悩みは似通っているのだ。ということは、彼女の目の前にも「檻」が現れたということになる。 アリスの小さな背中が見えなくなるまで見送りながら、わたしは俯いた。ならばなぜ言ってあげられなかったのだろう。わたしも見ていると、一言でよかったはずだ。それなのにどうして言えなかったのだろう。答えは簡単だった。わたしもアリスも、檻について口に出せば現実になってしまうと知っていた。 きびすを返し帰路を急ぎながら、弱いままの心臓を思う。心の強さなど無意味だ。どんなに歩いても前に進もうとしても、捕らわれれば逃げられない。 「…………言ってるそばから」 森の中を歩いていたはずなのに、わたしはいつのまにか石畳の上にいた。二歩目で背筋に悪寒が走り、三歩目で辟易し、四歩目でようやく止まった。アリスもわたしも口を閉じたというのに、どうして白昼夢ばかりが口を開けているのだろう。そうしてどれだけ注意しても、呑み込まれることを避けられないのだろう。 「ここ、どこ?」 声を出し、反響する石畳に夢ではないと確認する。檻が整然と並び、錠がいくつもかけられたそこは確かに牢獄だった。ただ、洋風のつくりのように思える。こうやって吹き抜けになり二階部分も檻が並ぶさまを、外国の映画で見た覚えがあった。 かたかたかたかた。機械仕掛けの音が足元からあがる。視線を下げればたくさんのおもちゃが床に散らばっていた。よくよく見れば牢獄だというのに天井からは操り人形が無数に垂れ下がっているし、人形など置き場所に困っているふうでもある。誰が巻いたのかゼンマイ式のブリキ人形が隊列をなして目の前を移動していた。 悪趣味なお化け屋敷でもこんなこと、しない。わたしは大きな錠を見上げながら思う。第一実用性がないものばかりだ。おもちゃも檻も、誰もいない場所ではひどく滑稽だった。 かたかた、きいきい。足元にひとつのブリキ人形がおぼつかない足取りで歩み寄ってくる。 「おい、こら」 あまりにふらふらと動く人形に手を伸ばそうとした瞬間だった。その人形があっけなく黒いブーツに蹴り上げられる。視線の先から一瞬でなくなった人形が、遠くの壁にがんと音をたててあたった。 視線を徐々に徐々に、ゆっくりと引き上げる。 「お前ら調子に乗ってんじゃネェよ。ここは楽しむ場所じゃないってこと、わかってんだろ」 聞き覚えのある声、容貌、けれど見慣れない服装。刑務官のような黒服に身を包んだ、彼は確かにジョーカーだった。 わたしは身を起こして彼を見つめる。まるで初めて出会う人のようだった。ジョーカーは赤い前髪の隙間から、するどい瞳をわたしに向ける。 「んだよ、呆けやがって。お前やっぱり×××なんじゃねぇの」 言いながら、不機嫌気味にジョーカーは笑った。その口調に肌があわ立つ。この感覚は、知っていた。理性ではなく五感がそうだと告げている。ピエロのジョーカーとは、彼の醸し出す空気さえも違っていた。 「ジョーカー…………?」 「はぁ? 俺はジョーカーだ。それ以外の誰に見える」 「違う。あなた、腰の仮面の方のジョーカーでしょう」 わずらわしげに制された腕を、思わず掴んだ。口の悪いジョーカーはわたしの手を見て、数秒それらについて考える。まるでこんなことは予想していなかったような顔。 わたしはまばたきすらも惜しむように彼を見つめた。ジョーカーの顔が歪む。 「だったらなんだ? 何か不都合でもあるか」 「ううん、なにも」 「なら離せよ。しがみつかれんのは嫌いだ」 振り払われるまでもなく、わたしは彼から離れる。そっけなくされているはずなのにわたしは嬉々としていた。身体の底から浮きたっている。理由などわからないが、彼の声が仮面の声とは違っていたからかもしれない。きんきんと響くものではなく、暗くて果てしなく口が悪い。 ジョーカーが明らかに眉根を寄せた。 「何笑ってやがる。とうとう脳がやられたか」 「違う。会えたのが、嬉しいの」 「はぁ?」 本心だった。彼の言葉にどれだけ切りつけられたかわからないのに、それでもわたしは心のどこかで会えると確信していた。アリスのように腹話術だなんて思えなかった。わたしは牢獄に似合わず明るく笑いながら、手を差し出す。 「その姿のあなたに会うのは初めてでしょ。はじめましての挨拶」 「…………イカレてんじゃねぇの、お前」 「こんなところでそんな格好して、いきなり罵倒してくるあなたに言われたくない」 握ってもらえないことなど承知していたので、潔く手を引っ込めた。笑い声が漏れそうになったけれど、また馬鹿にされそうだったのでどうにか堪える。代わりにジョーカーに質問をする。ピエロのジョーカーと彼が別物であることを確認したかった。ジョーカーは不機嫌なまま鼻を鳴らした。 「アイツも俺もジョーカーだ。同じジョーカーだが、ヤツと俺はまったく違う。同じ分だけ違うんだ」 「そう…………ふたり同時にはいられないの?」 「ここにか? お望みなら呼んでみろよ。来るかもしれねぇ」 「ううん、いい。それだけわかれば、充分」 納得したわたしにジョーカーは自分が違う世界に飛ぶことも、また仮面と入れ替わることもできると主張した。まるでそれだけで知った気になるな、とでも言うように。 彼らは考え方も目的を得るためにとる手段もまったく違うらしい。わたしはトランプのジョーカーがちょうど二枚つづりになっているようすを思い描いた。同じようで違う、ふたつの絵柄は彼らと同じだ。ディーとダムのように双子でもなければ、ひとつの身体を共有しているわけでもない。 「あなたはあなた、ってことでしょ?」 「へぇ、わかってんじゃねぇか。ただでさえジョーカーとジョーカーでややこしいのに」 がんがん。彼は手持ち無沙汰なのかおもちゃを蹴り続けている。止めようとすれば出来るのかも知れないが、止めようとおもえなかった。 「ジョーカーは大概二枚入ってる。なくしたら困るからだ。だが二枚なければ出来ないゲームもある」 「…………」 「欠けられないのに、欠けられる。ややこしいにもほどがあるぜ」 「本当に」 随分納得した声が自分から漏れたが、わたしは彼の話しなど途中から聞いていなかった。あまりにもがんがんと小気味よく蹴るので、その音に耳を澄ませていた。がんがんがん。かたかたと物悲しく動くよりよっぽどいい。 「ここは牢獄、だよね」 「あぁ? まぁ牢獄っちゃあ牢獄だな。なんだよ、お前入ったことあるのか?」 「ないけど、知識上なら知ってる」 「知識上、ねぇ」 はっと鼻で笑ったジョーカーは、仮面のときよりずっと感情豊かだ。 「牢獄でも監獄でも、知っていて得することなんてねぇだろ」 「知識って大概そういうものだと思うけど」 「…………ちっ。てめぇはやりにくくってしょうがねぇ」 がん!一際高い音と共に、ブリキ人形が宙を舞う。大きく弧を描いて落下した先で、あきらかに壊れた音がした。 「用のないやつが来る場所じゃねぇんだよ。ここは罪を犯したやつらをぶち込むための場所だ」 「ふぅん…………」 「真面目に聞けよ。この監獄の、俺は所長様なんだぜ」 にやりと笑ったジョーカーは、くるりとわたしに向き直る。ぱしん、と手に持った鞭がしなった。彼が偉いことなど言われなくともわかる。ワンダーランドと同じく、顔のあるなしで立場は何よりも上になるのだ。 叩かれるのだろうか。考えたが、それでもいいような気がした。痛みに鈍くなっていたのかもしれない。 「偉いってことだよね」 「そうだ…………ここでは俺様がルール。いくら余所者が好かれるっつっても、関係ねぇ」 がんがんがん。どこまで蹴るつもりなのだろう。彼の周りがどんどん綺麗に片付いていく。それなのに追う様にしておもちゃを蹴っているわけではないジョーカーの足元には、常に人形があった。 「わたしも、蹴る?」 そのおもちゃのように。 ゆっくりと問えば、また不機嫌そうな声が返事をしてくれる。 「蹴ってほしいやつなんざ、蹴らねぇよ」 「なにそれ…………わたし、変態ぽい」 「変態じゃなくてマゾなんだろ。…………とっとと消えな」 ジョーカーの声がきっかけになったのは明白だった。わたしはとん、と後ろに倒れこむ。 ついで一瞬の時間の交錯があり、次に目を覚ましたのは森の中だった。鬱蒼とした森の中、わたしはアリスと別れていくらも歩かない場所に立ちすくんでいる。周囲をぐるりと見渡してみたが、他に誰かいるような気配はなかった。ここは塔に帰る道で、何の変哲もない。わたしは自分の手を見つめた。 ―――――――――なら離せよ。しがみつかれんのは嫌いだ。 仮面特有の、きっぱりとした声。拒絶されることになど慣れていたのに、ここではやけに新鮮だった。誰も彼も受け入れてくれる優しい世界では、彼のような人は貴重なのだ。 案外本当にわたしはマゾなのかもしれない。思って歩き出したわたしの足取りは軽くて、自分でも驚いてしまう。 |
私達は出逢ってしまった
(10.03.12)