驚いたのはジョーカーがふたり居たということよりも、気味の悪い監獄で出会ったジョーカーにまた会いたいと思っていることだった。クローバーの塔に戻って遊んだ分の仕事を手伝いながら、わたしは何度も思い出し笑いをしてしまう。寒々しい石畳の鉄格子が並ぶ中で、ジョーカーと交わした会話は決して面白いとは言えなかったのだが奇妙に心魅かれた。あのつっけんどんな物言いも、妙に突き放すくせに冷静に急所をついてくるところも、怯えるどころかもっと近づきたくなった。 ――――――――本当に、わたしはマゾなのかも。 会えば、聞くに堪えない暴言が連発するに決まっている。飄々としながら足元のおもちゃを蹴り飛ばして、どんどん壊していってしまう。あまりにも遠慮なく蹴るので彼は手加減などしていないのだろう。所長だと言っていたけれど、あんなふうに囚人を蹴ってしまってはひどい怪我を負わせるに違いなかった。 もちろんさすがに人を蹴れば止めに入るだろうし、それが知人となれば尚更だ。けれど自分が向かっていく分にはどうでもよかった。ただ仮面のジョーカーと面と向かって話すことが大事なのだ。ピエロのジョーカー抜きで、きちんと視線をあわせて。 「………なんだ、随分楽しそうだなぁ」 資料を運びながら鼻歌を口ずさんでいたらしい。わたしは突然かけられた声に思わず赤面した。大きな声ではなくとも、人に聞かれたいものではない。振り返った先にいたのはエースだった。その隣にはユリウスもいる。ナイトメアではないことに安堵した。 「どうしたの、ふたりとも。どこかにお出かけ?」 「ん、あぁ。ちょっと出かけてきたところ。聞いてくれよ、ユリウスのやつ仕事中ずっと機嫌が悪いんだぜ?」 わたしの機嫌のよさには触れずに駆け寄れば、エースはさも参りましたと言わんばかりにお手上げのポーズをとる。隣のユリウスと言えば、むっつりと押し黙ったままだ。機嫌が悪いというのは本当のことらしい。わたしは彼の機嫌が悪くなりそうな節があったかどうか、記憶をめぐらす。 「あ、もしかしてナイトメアに雪像を作れって言われたこと?」 雪祭りを行うことになった、とグレイから聞かされた。ナイトメアが自分の雪像をユリウスに作らせたがっていることも、もちろんユリウスが嫌がっていることも。グレイの想像力豊かな作品は確かに芸術であるかもしれないが、ナイトメアは精巧な像が欲しいのだろう。職人であるユリウスにかかれば彼の望む雪像が―――あまり考えたくはないが、ナイトメアそっくりな――――できるはずだ。 エースは違うと首を振る。 「全然違うよ。夢魔さんのことじゃなくて、君」 「は? わたし?」 「そうだよ。君ってば帽子屋さんのとこから帰ってきてから妙に機嫌がいいだろ? しかも無断外泊だし、ユリウスとしては気分がわる―――」 「いい加減にしろ、エース」 低い声がエースの空笑いを遮断する。ユリウスの瞳は座っていた。これはかなり、というか見たことのない類の怒りだった。無断外泊―――この世界の場合、どこをどう外泊と定義付けるのかは定かではないけれど―――と言われれば、わたしは否定できない。ブラッドに招かれたお茶会の席でワインに酔いつぶれて宿泊する羽目になったのはわたし自身に非がある。だが、帰ってきて機嫌がいいからと言って、どうしてユリウスの機嫌を損ねる原因になると言うのだろう。 ぴりぴりとした空気が嫌でも伝わり、ユリウスとの身長差のせいで見下ろされる形になったわたしは小さくなるしかない。 「随分楽しかったようだな。ワインを呑んで酔いつぶれたんだろう?」 「あー、うん。美味しいワインなんて初めてだから、つい呑みすぎちゃったみたいで」 「己の力量も知らずに酔いつぶれるか…………ふん、お前らしい。少しは周囲に気を配ったらどうだ? アリスを付き合わせたんだろう」 言葉に詰まると同時に、ユリウスの怒りがハンパなものではないことを知った。こんなにも空気で痛めつけられたことも、詰られたこともない。わたしは謝るべきかどうか迷い、だがどうしてユリウスに酔いつぶれたことに対して謝らなければいけないのかわからなくて無言になった。冷たい空気が足元からじわじわと熱を奪っていく。こういうときばかり大人しく様子を見守っているエースのせいで、結局口を開いたのはわたしのほうだった。 「アリスには悪いと思ってるし、ブラッドたちにもちゃんと謝罪したよ。無断外泊だって、ナイトメアに理由を説明したし」 嘘をつくことなどいくらだって出来たし、他の場所へ行っている時間帯より特別長かったわけではない。それでも正直に不覚にも酔っ払ったことを告げたのだから、それを汲み取ってくれてもいいのではないだろうか。眉根を寄せて、資料を胸の前で抱える。ユリウスは表情をぴくりとも変えなかった。冷え切っている目。 「あぁ、さぞ楽しかったんだろうな。他の季節ではどこでもお前を温かく迎えてくれる。この塔だって私以外ならお前になんだって許すだろう」 「…………」 「だがな、節度を考えろと言ってるんだ。アリスにしたってお前に振り回されているようにしか見えない。いい迷惑だろう」 「…………」 「いつもふらふらとして、だらしがない…………だいたいだな」 「…………」 「ユリウス」 おい、とエースが小突いてようやくユリウスが止まった。煩わしげに隣を見やるユリウスにエースが嘆息している。そうして顎でわたしを指し示した。 「…………」 ユリウスの視線の先、わたしは先ほどまで対峙していたはずのわたしではなかった。身体が硬直してまったく動かない。驚いたわけではなく、単純なショックで身が竦んでいた。出て行けと言われたときよりもはるかに大きな衝撃だ。わたしはユリウスとエースが自分を見ていることにやっと気付いて、なんとか笑おうと努力する。悪いのはわたしだ、と言い聞かせた。 「あ、はは。ホント、ユリウスの言うとおりだね」 自分でも驚くほど硬質な声が出た。心なしか震えている。けれどそれ以上に止まっていた心臓がどくどくと五月蝿く鳴り出していた。抱えた資料を落としてしまいかねないほど、わたしは自分の芯がぐらぐら揺れていることに気付く。それなのに渇いた笑い声ばかりが廊下に響いた。 「風邪にかかるし面倒はかけるし、いいとこなし。オマケに酔いつぶれるなんて、最低、だよね」 どうしよう、立っていられない。唇は動くのにどうしても身体が動き出してくれなかった。さっさとどこかに行きたい。ユリウスのいない場所に、エースの目の届かない場所に。 どちらにも何も言って欲しくなかった。何か言われれば、わたしは今度こそ崩れてしまう。 「お、なんだ。こんなところでどうしたんだ?」 状況をまったく読まない声があたりに響いたおかげで、わたしはそれ以上喋らずに済んだ。ナイトメアやグレイ、それに数人の部下を抱えて歩いてきた一団にわたしは安堵する。そうしてほとんど同時に身体が動き出した。 「ナイトメア、グレイ」 固まったままの声が出て、慌てて笑った。ナイトメアの行く先を尋ね、持っていた資料をどこに運べばいいか指示を仰ごう。心を真っ白にしなければ、と何度も念じた。ナイトメアやグレイに知られてはいけない。ユリウスのことも、もちろんジョーカーとのことも。 けれどすぐにナイトメアの表情が変わった。すっと細められた瞳に剣呑さが混じる。 「おい」 向けられたのはわたしではないのに、驚いてびくりと震えたのはわたしだった。 「時計屋…………お前、に何を言った?」 視界が揺らぎそうだった。こんなに近くに居て、これほど動揺しているのにナイトメアに届かないわけがない。幸い、何を言われたかまではわからないようだがそんなものは時間の問題だった。ただ、わたしはどくどくと心臓が鳴る中で考えまいとしていたことを考えてしまった。会いたいと、望んだことを。 しまったと思ってももう遅かった。ナイトメアとはっきり目が合う。 「君は…………」 ナイトメアの瞳に傷ついた色を見つけたのは、わたしの見間違いであって欲しい。 「ジョーカーに」 「ナイトメア!」 思わず叫んだ。体面など関係なく、そのときのわたしにはそれだけで精一杯だった。 すがるような思いでナイトメアを見つめ、もう笑うことすら出来ずに再び固まってしまいそうな足を動かす。 「大丈夫、だから。何にも言われていないし、何にもない」 言わないで。思ったのはそれだけだ。仮面のジョーカーと出会ったことも、今ユリウスに言われたことも、どうか知らないでいて。わたしは後ずさり、耐えられなくなって駆け出した。遠くで声がしたけれど、心臓が五月蝿すぎて何も聞こえなかった。 ただはっきりとわかる、わたしはユリウスに怯えたのだ。彼の声で紡がれる言葉がすべて呪詛に聞こえた。聞いていられなくて反論も出来なかった。足は凍りつき腕は震え、身体全体で彼を拒否していた。 怖い。走りながらいつのまにか泣き出していたわたしは、溢れる涙がどこから来るかもわからない。 |
透明度を保つためには
抗わなければならない
(10.03.17)