あとになって覚えているのは走り出したわたしはどこをどう走ったのかまったく記憶にないことだ。塔を出たことも雪の中をがむしゃらに走ったことも、もちろん何度か転んだことも覚えているのにそれ以上の記憶はない。たくさん走ったし、疲れて歩けなくなればそうした。塔を離れることを第一に考え、もっと遠くへ行かなければと考えていた。
遠く。誰にも知られない場所に行きたかった。それなのにひとしきり走り通し、時間帯の変わり目にたどり着いたそこが自分でも信じられなかった。目の前には、大輪の薔薇が咲いている。


「…………そこに誰かおるのか」


呆然と薔薇を見つめ、へたり込んだわたしの耳に届いた声は優美だ。薔薇の生垣から現れたのは、苦もなく赤いドレスをさばくビバルディだった。わたしは夕闇を背負う女王を見つめる。
たぶん、わたしはひどい格好をしていただろう。転んだし随分道なき道を走った気がする。腕があがらないので怪我をしているかもしれない。それでも目の前に現れた女王が非難よりも先に駆け寄って、普段絶対にすることのない焦った表情で膝をおってくれただけでわたしの瞳にはまた涙が溢れた。


、わらわがわかるか?」


髪についた葉を一枚一枚丁寧にとってくれ、ビバルディは慎重に言葉を選ぶ。わたしは泣きながら頷いた。大輪の薔薇がいくつも咲き誇ったそこは、ビバルディの庭園だった。つまるところ、ここはハートの城ということになる。
アリスに迷惑をかけたいわけじゃない。わたしはしゃくりあげながら、切れ切れに訴える。


「いい、いい。何も喋るな。わらわが傍におる。アリスは今、留守じゃ」


優しげな声音は姉のようで、母のようだ。払った葉を落としながらビバルディが控えたメイドに何事か言っている。けれど彼女の腕が抱えるように後頭部に回され抱きしめられたので、わからなかった。ビバルディの強い香水がいっきにわたしを包む。


「…………、立てるか? あいにくわらわはお前を運べるほどの力がない」


兵士など呼びたくないだろう。諭す様に囁かれる声は斬首を望む女王のものとはかけ離れていた。わたしはのろのろと立ち上がり、しっかりとビバルディと手を繋いだ。顔をあげたわたしにビバルディが微笑んでくれ、いい子、と頬を撫でる。
裏門からそっと城に入り、メイドに促されるままに広すぎる風呂に通された。そこで頭や身体を洗われて、ついでに身体や髪の毛も乾かしてもらい、あれよあれよと言う間に辿り着いたのはビバルディの寝室だった。女王はすでにドレスを脱いで柔らかなネグリジェに着替え、ベッドの上に座っている。


「おぉ、綺麗になったものじゃ。やはりお前は可愛らしい」
「…………」
「泣くお前も可愛らしいが、そうだね…………とりあえず、おいで」


手まねきをされ、わたしは扉の前で突っ立ったままだった足を動かした。キングサイズよりも大きなベッドによじ登るとふかふかとしすぎて足を取られる。二度転んでは足をもつれさせ、やっとビバルディのもとに行き着くと彼女はそのまま体制を崩してわたしを抱きしめた。先ほどと同じ香水と柔らかな肌の感触、確かな安全に抱かれる。女王がわたしの存在を確かめるように足をなぞり、頬と頬をぴたりとつける。


「…………綺麗な足なのに傷だらけにしおって」
「…………」
「湯がさぞ染みたことだろう。他にも身体のあちこちに傷がある。いったいどこをどう走ればこうなるものか」
「…………」
「喉は渇いておるか? それとも眠い? 腹が減っているのなら何か作らせよう」


耳をくすぐる女王の声が、鼓膜に柔らかく残る。さっきまでうち捨てられた猫のような格好だったのに、上等なローブを着て温かなベッドにいるわたしはだれなんだろう。不思議に思い、自分の幸運というか不甲斐なさにまた涙が出た。結局誰かを頼ることでしか、わたしは生きられない。


「お前の望みを、わらわに教えておくれ」


再び泣き出したわたしをあやすように撫でながら、ビバルディが続ける。わたしは泣きながら尋ねられもしないのに素直に話し出した。顔のない両親の夢、サーカスが現れてから続く不調、心がからっぽのまま空虚さばかりが増していき、みんなに随分心配をかけた。秋に誘ってくれたアリスに詳しい話をしないまま泥酔してしまい迷惑をかけ、それなのに迷い込んだ監獄で仮面のジョーカーに出会ってあろうことか浮かれてしまったことをすっかり話し終えたとき、涙はすでに止まっていた。
もうわからない。なぜジョーカーに会いたかったことを隠しておきたかったのだろう。搭の面々がサーカスにいい感情を持っていないにせよ、そんなものはブラッドやエリオットにも当てはまるはずで、だからジョーカーに限って嘘をつく必要もなかったはずだ。でも、知られたくなかった。ジョーカーに出会ってあまつさえもう一度会いたいなどと思っていると、知られたくなかった。慈しんでくれたナイトメアやグレイ、それにユリウスに対して恩を仇で返す所業のようにさえ思えた。


「馬鹿な男どもじゃ」


随分時間がたったはずなのに、ビバルディは不平ひとつ漏らさずに優しく髪を撫でていてくれている。一緒に横になり視線を合わせていると、本当に家族みたいな安らぎが芽生えそうになった。形よく伸ばされた爪、長くて細い指、小さな指の腹部分が時折頭部に触れる。


「ほんに、愚かなヤツラ。お前がせっかく隠してやっているのにそれを暴こうなどと」
「…………」
「時計屋も夢魔もトカゲも…………うちの騎士はもちろん論外じゃが、お前が泣いてやる価値などないだろう」
「…………」
「ここに来たからには安心おし。わらわが守ってあげる」


ビバルディに任せていれば。わたしは腫れぼったい瞳を閉じながら考える。ビバルディに身を任せれば、彼女は宣言どおりにわたしを「守って」くれるだろう。この城の女王の部屋から一歩も出ず、窓の外を見ていれば時は過ぎていく。この世界の人たちの言うところの無意味な時間が、わたしの隣を滑り落ちる。窓の外では薔薇が枯れ新しいつぼみをつけるのに、わたしはここでいつしか枯れることだけをひたすら考えるに違いない。いくら平和であるところで、ではなぜ平和を望んだのかを理解しなければそんなものは無意味だ。


「違うの、ビバルディ」


熱を持ったまぶたが、重たくて不気味だった。わたしが確かにここにいるのだと感じる。痛みも苦しみも、ずっと傍にはないものだった。忘れかけていたのは精神的な苦痛だ。
先程よりよっぽどひどい顔をしているはずだが、ずっと清々しい。


「守られたいわけじゃない。ビバルディに、聞いてもらえてよかった」
、だがそれでは何の解決になる?」
「解決はしないよ。…………あぁ、なんだか可笑しい。わたしはずっと前にこの問題に直面しているはずなのに」


くすくす笑い出したわたしは、多分精神患者特有の極端な感情の上下を晒していることだろう。けれど泣いていたわたしと立場も状況もなんら変わっていない。ようやく気付いたのだ。いつのまにか摩り替わっていた目的の本質が、どこにあるのか。
立ち向かうことばかりに気を取られて、どうして忘れてしまえたのだろう。


「この世界に残ることは、わたし自身で決めたの」


少なくとも、守られるのが目的ではなかったはずだ。けれどいつの日か、守られていることが日常化していなかっただろうか。ユリウスの歯車に守られ、ナイトメアのおかげでひどい悪夢も見ずにすんでいた。グレイの隣にいれば難しい問題に直面してもすぐに解決できたのだし、アリスがいてくれたから寂しくなかった。笑いあえる友人は帽子屋屋敷にも森にもいてくれたのだし、誰も彼もが手放しでわたしを迎えてくれる。拒絶されたことなど無きに等しい。平和で美しい世界。わたしの大事な人は、欠けることなどない。


「でも、だから選んだわけじゃない」


誰もわたしを傷つけない世界を望んでいたのだとしても、確かにこの世界を選んだときは別の目的があった。わたしに優しい世界、突拍子もなく馬鹿馬鹿しい、時計に支配された住人の住まう場所。ユリウスの傍で、アリスよりずっとこの国の本質に近い場所にいたはずのわたしが夢想したのはなんだったのか。過去を思い出せないアリスとは違い、捨てるものをすべて知って残してきたわたしは罪の重さが違うだろう。
それでも背負っていくと決めたのだ。罪悪感を背負って、この世界を無意味だと決め付けないためにここにいる。
ビバルディはわたしの我侭を黙って聞いてくれる。紫色の瞳が、水晶みたいに綺麗だ。


「アリスみたいに望まれたわけでなくとも、わたしをここに招き入れてくれた偶然に感謝したの。心の底から大切にしたくて、そのために身を投げ出してしまってもよかった」


役持ち同士の打ち合いでどちらかが死ぬことはない。何度となくルールによって撃ち合う彼らを見てきたはずなのに、ブラッドとエースが対峙したあの場面でわたしはどちらかが死ぬと思った。確実に、どちらかが死ぬしかない。あの直感はもうはるか遠くのもののように思えるのに、恐ろしさだけははっきりと残っている。だからわたしは自分自身に銃口をあてがった。躊躇いなく引き金を引けたのは、それで助かる命があると知っていたからだ。


「この世界が大好きだよ、ビバルディ」
「…………」
「アリスやあなたがいてくれる、奇跡みたいな世界」


そうしてアリスのように、無意味だと主張する彼らを愛したかった。わたしにしか出来ないことだ。それこそが余所者に与えられた本当の特権だった。
寝転ぶビバルディに腕を伸ばし、艶やかな髪をひと房掬う。


「大好き、ビバルディ」


事故でも偶然でもよかった。わたしがここに居られることが大事だった。
ナイトメアやユリウスはわたしがこの世界に落ちてきた理由にある程度の検討をつけてくれたが、それがいくら正解に近くとも行く道すじは変えられない。もちろん元の世界に居たわたしが、必要とされたくて堪らなかった子どもであったことを忘れたわけではない。どれもこれも大事で、忘れてはいけないものが多すぎる。指の間からぼろぼろと取り落としてしまうのに、わたしの腕は2本しかない。
ビバルディはわたしの呟きにため息を零した。軽くて小さい、まるで子どものような。


「ふふ。もう少しだったのに、残念じゃ」


ちっとも残念ではなさそうな声。ビバルディはいつもの彼女のように瞳に強い光を湛えている。


「もう少しで、お前をわらわのものにできたものを」


伸ばしたままだった手を取られ、ビバルディの指が絡んでいく。細くて繊細な、彼女の確かな温かさが触れ合う場所から広がっていく。


「傷ついて、心をもし一部でも壊していたのならもっと容易く手に入っただろうに、ほんに融通のきかぬ子だね。わらわの傍にいれば、時計屋などに傷つけさせはしないのに」
「…………ビバルディ」


同じことを前にも言われた。風邪にかかってうなされながら、不吉な夢をみたときだ。ブラッドは確かにわたしの手を握って、ビバルディと同様の約束をくれた。なんて似ている人たちなのだろう。例え血の繋がりがあろうとも、こうまで優しさは遺伝するのだろうか。
ビバルディは、しっかりとわたしの手を握って少しだけ声を落とした。


「まぁ、お前の判断は懸命じゃ。ジョーカーに魅かれたなどと言えば、きっと夢魔やトカゲはお前を金輪際サーカスに連れて行かなかっただろう」
「…………やっぱり?」
「あやつらもほとほと呆れるほど過保護。うちの宰相もいい勝負だが、お前の場合は三人がかりだから余計にタチが悪いね」


ほほ、と楽しそうにビバルディが笑う。


「男を振り回すのはいい女の特権じゃ。あやつらにも、もう少し灸を据えてやらねば」
「え…………?」
「せっかく冬に閉じこもっていたお前が外に出てきたというのに、わらわがこのまま逃がすと思う?」


掴まれた手は女性の力とは思えないほど、強かった。びくともしない。
わたしはそこで始めてひやりとする。彼女もまた、この世界の厄介な住人に他ならない。
くっきりと赤い唇が綺麗な三日月を描いた。


「わらわの傍に居ておくれ。それに戻ったら、本当にもうサーカスには行けなくなってしまうよ」
「サーカスが、あるの?」
「あぁ。二度目のサーカス。…………会いたいのだろう、ジョーカーに」


ビバルディの妖艶な微笑み。わたしは二度目のサーカスを告げられる。ジョーカーには確かに会いたいけれど、それと同時にやっぱり何かひっかかりを感じた。見つけなくてはいけないものが、もっとあるような感覚。見つけたりないなんて、まるでゲームだ。


「でもね、。わらわに約束して」
「ん…………?」
「ジョーカーに会っても、必ず戻ってくると」


ビバルディの声は少しだけ切なげに聞こえる。当たり前だと思った。ジョーカーに会ったからと言って、わたしが戻らない理由にはならない。


「約束する」


きゅっと手を握り返して、わたしはまぶたを閉じながら微笑んだ。身体は疲れきっていたしベッドは温かくて柔らかなので、眠くて仕方がない。まどろみに落ちるとき、ビバルディが何事か――さぁ、どうやって夢魔を邪魔してやろうか―――囁いたけれど、もうすでに意識を手放していたわたしにはわからない。

























もう少し弱ければ誑かせたのに





(10.03.17)