どれだけ眠っていたのだろう。久しぶりに何の夢も見ず、疲労感で目覚めるわけでもなくぼんやりと考える。上等なシーツや羽のように軽い掛け布団、驚くほどすべらかなローブを着たわたしはビバルディのベッドでまだ突っ伏していた。まぶたを半分あけたまま、見える限りの世界を眺める。こんなふうに豪華な部屋には泊まったことなどなく、現実とは思えなかった。時計塔ではベッドなど一つきりだったし、クローバーの塔も綺麗だけれどここほど豪華なつくりではない。
ビバルディの優しさは身に染みて嬉しいが、わたしにはどうしても分不相応だと思えてしまう。この場所も気持ちも、いつだって逃げ出してしまうわたし自身に対してもったいないものばかりだ。
どうしてわたしは逃げ出すときばかり見切りがいいのだろう。ブラッドの逆鱗に触れ、誰とも会うなと言われたのに禁を破ってアリスと会ったときもそうだ。怒るブラッドに組み敷かれ乱暴を働かれたのに、わたしはあろうことか彼を蹴り上げて逃げた。誰にも捕まらず、塔の中を走り回ってボリスに助け出されたのはつい最近のことのように思うけれどずっと昔のようにも思う。逃げるのはわたしの専売特許だ。逃げて逃げて逃げて、だからこの世界に落ちてこられたのかもしれない。


「…………?」


扉が開き、この部屋の主が現れる。わたしは起き上がって広いベッドの上に座ったまま、笑った。


「おはよう、ビバルディ」
「顔色がいいな…………よく眠れたようじゃ」


ベッドにはあがらず、ビバルディは楽しげに微笑んだ。まるで躾の出来たペットに向けるような満足げな表情だ。ビバルディが落ち着いているのは珍しい。何かに苛立っていないのも、わたしに対して不平を言わないことも。
ベッドから降りて彼女の前に立つと、おもむろにビバルディは手を叩く。まばたきの間に変わった服装に、わたしは驚かない。女王の力は何度となく見ていた。
薔薇のコサージュのついた薄紅のワンピースが、ひざあたりでひらひらと揺れている。冬の次が春だというのに、こんな服装でも寒くはない。


「ありがとう、ビバルディ。似合う?」
「わらわの見立てに間違いはない。よく似合っておる」
「ビバルディが言ってくれるなら間違いないね」


くるりと一回転して微笑むと、お揃いのヒールがしゃらんと鳴った。よく見ると小さな鈴がついている。これでは本当に飼い猫のようだ。


「アリスがお前に会いたがっておった」


服のすそを整えていると、ビバルディがぽつりと漏らした。わたしが城を訪れたとき、アリスは留守だった。ペーターと夏に行ったのだとビバルディは言い、人嫌いの潔癖症を遊園地に連れていってしまえるアリスに感心したものだ。わたしならナイトメアを連れていこうものなら風邪を引かせるだろうし、グレイを連れて行けば迷子になって探させ、ユリウスにいたっては連れて行けもしないだろう。想像した情景があまりにもリアルで笑ってしまう。ペーターの強引な愛情と、アリスの柔らかな愛情は見る限りとても満たされているようだ。


「また、心配かけたんだろうなぁ」


ユリウスとの一方的な言い合いの中には、アリスに対するわたしの無神経さも含まれていた。友達だからと甘えていたのは確かに事実だ。心配ばかりさせてしまっているのも、もちろん本当だろう。けれどどうしてそれを、まるでユリウスの方がアリスに近しいようにして語るのだろう。アリスの方が早くこの世界に落ちてきたのだし、ユリウスとの付き合いは長い。彼の無愛想なりの優しさをアリスは理解しているし、それに半ば感心だってするけれど、どうしても腑に落ちない。
ビバルディは唇の端だけで微笑む。


「アリスはお前が大切だからね」
「わたしだって、アリスを大切だと思ってるよ?」
「だが思いの差に隔たりがある…………お前はペーターを買いかぶりすぎじゃ」


差がある、と言われたことよりも続く言葉に目をむいた。ビバルディは寝室を出て隣の部屋に用意されたティーセットの前にわたしを導いてくれながら、歌うように告げる。


「あててやろうか。お前はペーターとアリスが上手くいくと思っておるだろう」
「…………そりゃあ、うん」
「思いあっていれば大抵の問題も乗り越えられると高をくくるのは勝手だが、それを押し付けるのはやめておあげ。アリスにはアリスの葛藤がある」
「…………悩んでるの?」
「そうではないよ…………ただアリスを留めておくのは難しい。ペーターやナイトメアが苦労しているように容易ではない」
「苦労?」


わたしは聞きたがりの子供のように、ビバルディに尋ねる。柔らかな紅茶の匂いが鼻を掠める。優雅な手つきで美しいカップに紅茶をついでくれたビバルディは、たぶんアリスとわたしに関する大方の事情を知っているのだろう。アリスがペーターに導かれたことも、ナイトメアが協力したことも知っていて当然なのだ。教えてもらえないことが、わたしにとって当然であるように。


「夢魔は忘れさせるのが得意じゃ。悩みを上手く誤魔化して、摩り替えてしまう。…………だが、お前にはそれが出来ない」
「…………」
「ナイトメアがうろたえる様は見ていて胸がすく…………。騙されてしまえば、どこにだって行けるのに」


ビバルディの言葉は繋がっているように聞こえるが、まるで的を得ていないようにも思えた。もしくは、あまりにも本質的な話しすぎて全体像が見えない。ただわたしのことはともかく、アリスの事実は形になりつつあった。元々ユリウスの傍で彼の仕事をずっと見てきたわたしにとって、ナイトメアやペーターのしたことに頭を痛める彼自体が謎を解く手がかりだったのだ。
自分の分の紅茶を飲みながら、ビバルディは満足したように笑った。


「つまり、お前もアリスもままならぬということじゃ」


締めくくられた声音はもう語る気がないと示していた。わたしは立ち上る湯気を見つめながら、眉を落とす。


「ビバルディにとって、わたしは迷惑?」
「いいや、迷惑などと思っていたらとうに放り出しておるよ」
「そう、だよね。…………そういえば、アリスは?」


打てば響くほど素早く返されてうろたえてしまう。いつだって好きなことしかしない人たちだ。心配をかけたとしても、したくない心配ならしないのだろう。


「説教をしに行った」
「え?」
「お前のことを話してやったら、すぐに冬に行きおった…………まったく面白い子」


くすくすと笑う姿はまさに貴婦人だが、やってることは悪女そのものだった。
わたしはアリスの怒りがまっすぐにユリウスに向けられるのを想像して青くなる。


「いやっそこは止めようよ、ビバルディ!」
「なぜ?」
「なぜって…………わたしアリスには迷惑かけたくないって言ったじゃない」


テーブルに突っ伏して腕の中に顔をうずめる。アリスはユリウスを責めるだろう。それでなくともわたしについてアリスはユリウスに厳しい。
ビバルディは、本当に楽しそうに笑う。


「迷惑などと思っておらぬよ。だからアリスは時計屋に説教をしに行ったのじゃ」
「それは…………そうだとしても」
「どちらにしても、わらわは楽しい。アリスやお前が傍にいるとなれば、尚更」


心の底から楽しいらしい女王様に、わたしは結局開いた口がふさがらない。逃げてしまった事実も、クローバーの塔に帰らないことも、だからサーカスに城のみんなと行くことも、総じてビバルディを喜ばす結果になった。
わたしは肩を竦めて紅茶を飲み干す。ぐいっとひといきで。


「あなたが楽しいなら、問題はないね」


薄い紅色のワンピースを着ながら、わたしは女王に笑いかけた。












* * * * * * * *










「アリス、ストップ」
「…………」


サーカスが出来たせいで多少の変化を遂げた森を歩きながら、アリスは後方からの声を無視する。先ほどから幾度となく放たれている声は間延びし、肩を怒らせ足を踏み出すアリスとは対象的に思えた。規則的に踏み出される足が、普段こもることのない力で大地を蹴る。


「ストーップ。止まってくれよ」
「…………エース」


痺れを切らしたエースが回りこんで仁王立ちになったので、アリスは仕方なく立ち止まった。静かに座った目が、しっかりとエースを責め立てる。もちろんエースにだって非がないわけではない。ユリウスとの会話を聞きながら、どうして止めてやることができなかったのだろう。
がハートの城にいる経緯をビバルディは語らなかった。彼女は至極楽しそうに瞳を細め、エースを見やりながら当人に聞いた方がいいと言ったのだ。
当人。
エースは笑わない顔のまま、アリスに聞かれるまま話してくれた。ユリウスの言ったこと、が答えたこと、その上で彼女が飛び出したこと。


「ユリウスに文句を言いに行くのよ。どいて」


睨みつけるとエースは肩を竦めた。まるで子どもの癇癪にうんざりする大人みたいに。


「…………君の気持ちもわからないことはないんだけど、今回は俺に任せてくれないかな」
「エースに?」
「そう、俺に。…………がつんと言ってやるからさ」


無理でしょう。アリスは瞬時に思ったが口には出さない。
が飛び出したあと、エースはきっと彼女を追ってくれたに違いなかった。突っ立ったまま役にたたない不甲斐ない上司の代わりに走るエースは容易に想像できる。エースはエースなりにを大切に思っている。引っ越し後の彼は確かに尋常ではなかったが、それでもあのときだってを守ろうとしたことに変わりはないのだろう。
エースの嫌味はきっとユリウスに「がつん」とは響かない。きっとネチネチと確信の周囲を意地悪く突くに決まっている。
アリスは瞳を伏せて、きっと次のサーカスまでにぎりぎり帰ってくることになる騎士を見上げる。


「じゃあ、伝えて。ユリウスに」
「伝言か。そっくりに言えるかは自信ないぜ」
「いいわよ。そっくりの方が気色悪いわ」


新緑の多い森は木漏れ日までもが新鮮で、吸うたびに肺が洗われるようだった。ざわざわと聞こえる葉の音、春と言う季節はエースには似合わないなと思う。明るい光を浴びて立つ人が、ひどくちぐはぐに見えた。


「私がいつ、を迷惑だなんて言った?」


ユリウスにしてみればの行動を嗜めただけかもしれない。過剰に反応しすぎなのだと言われればそれだけだ。けれど、どうしてアリスの心情まで彼に代弁されなければいけないのだろう。腹が立ったのはそのことだった。


「迷惑だなんて思ってない。…………あなたがずっと、そう思ってたように」


とユリウスが一緒に暮らしていた時間は確かにあった。もうすでに思い出になりつつあるそれらに目を凝らして、アリスは悲しくなる。どうしては自由なのに、周囲の人たちは不自由すぎるのだろう。手を出すのも口を出すのも、あまりにも不器用すぎる。
加えてきっと、アリスとには余裕がない。エースはアリスの顔をじっと見つめ、うんうん、とわざとらしく頷いたあと吐き気がするほど爽やかに笑った。


「わかった。必ずユリウスに伝えるよ」
「…………その前にちゃんと辿り着いてね」
「もちろん。…………サーカスにも間に合わせるから、心配しなくていい」


サーカス。もうアリスにとっては楽しい場所というだけではなくなってしまった場所。
監獄で会う、ジョーカーとは別のジョーカーの存在は幻ではない。鉄格子の向こうには誰も収監されてはおらず、どういうわけか胸騒ぎばかりがする場所だ。あそこに向かうのは確かに苦痛ではあるのだが、それでも行かないわけにはいかない。
もう誰にも置いていかれたくなかった。ペーターの手を離してしまったらいけないと、アリスはすでに知っている。迷う自分がいることを理解しているからこそ、離れたくなかった。
静かに歩き出したエースが見えなくなるまで、広い背中を見送った。森の緑に毒々しい赤は随分浮いてしまう。それでもこの男が着ると似合って見えるのだから不思議だった。
戻る場所を決めかねている迷子の騎士に背を向けて、アリスは城に戻る。ビバルディと一緒にいるであろうに会うためだ。
見上げた木々の間から、悠然とそびえる城が顔をだしている。






























揺れる空の下もう一度だけ



(10,03,17)