夜がきた。ビバルディが去り、取り残された豪華な部屋の中心で天井まで広々と取られた壁一面のガラス越しの空を見上げながらは思う。つい先ほどまで昼だったというのに、空の色はすっかり闇に満ちていた。静かに時間が過ぎ、それと同じくらい自分の心には物音一つたたない。静寂ばかりでちっとも安らかではない、わたしの心は凪だ。
じきにアリスがくるだろう。わたしがここにいることを驚き、憤慨し、かつ心配してくれる優しい友人だ。薄桃色のワンピース姿で春色に染まったわたしを、彼女はきっと卑怯だとは思わないだろう。けれどわたしは冬から逃げてきたのだ。苦しみから逃れるために、謗りから耳をふさぐために、走ったにすぎない。アリスに同情してもらうにはあまりにもお粗末だ。
―――――――――…………トントン。
不意に窓ガラスを叩く音を聞き、見上げていた視線を下ろす。わたしは視線の先にいた人に目を見開いた。星を背負い、闇を纏う人影はうっすらと笑っている。


(あけて)


人影は指先をかぎに向かわせ、開ける動作をする。わたしは彼と鍵とを見比べ、力なく首を振った。自室なら開けたかもしれないが、ここはわたしの部屋ではない。仮にもハートの城の女王の寝室だ。この窓を開ければ、彼は罪を受けるかもしれない。
わかってもらえるように首を振り続け、唇の動きで謝罪した。ハートの城の最上部に位置するこの部屋に外から来ることは容易ではない。それをしてくれた彼に、心が痛むけれど。


「…………」


窓の外に立つ人物はバルコニーでいくらか考えるそぶりをした後に、おもむろに両手を窓にあてた。腕をぴんと立て、まるで押し開けるような格好だ。きっと鍵などかかっていなければすぐにでも開いてしまうだろう、と思わせる瞬間。


「…………っ! 待って!ボリス!」


彼が勢いをつけて開くよりも早く、わたしは立ち上がり鍵を開けていた。
ふわりと優しく濃密な夜の空気の中に飛び出すと、星と月に照らされたマゼンタ色の髪色がすぐ近くなる。綺麗な金色の猫目を細めて、ボリスは笑った。弧を描く唇が獣めいていて、背筋があわ立つ。扉を開けたままだった手を取られてすっかりバルコニーに立ったわたしは、あらためてボリスを見上げた。


「どうしたの、ボリス」


質問は先にした方の勝ちだ。女王の部屋にいた自分をさしおいて、わたしは聞いた。ボリスはいつものピンクのファーを肩にかけ、見たこともないほど妖艶に笑う。


がいなくなったって聞いてさ。驚いてとりあえず走り出したら、アンタの匂いがしたんだ」


どこまで本気なのだろう。わたしの匂いなんてするわけがない。この部屋にずっといたわたしは、誰にも痕跡など残さなかったはずだ。ボリスはわたしの両手をしっかりと握った。自分の手で覆いながら、あわせるようにして。そうしていかにも自身ありげに頷いた。


「開けてくれると思った」
「…………開けるつもり、なかったよ」
「だろうな。でも俺が開けようとすればきっと開けてくれると思った。アンタ、優しいから」


静かに瞳を細めて笑うボリスは、覆う影の奥で笑っているようだった。もちろん彼が開けるくらいならわたしが開けるつもりだった。ビバルディの怒りがボリスに向かうより、わたしに向かった方がずっと軽い。ボリスを招き入れたのは自分だと、わたしは彼女に申し訳なさそうに笑うだろう。
ボリスはいつものように笑ってくれない。笑っていてもどこか神妙で、焦っているようにも見えた。


「…………ボリス?」


猫のように気ままなくせに、どうしてそんな痛々しい顔をするんだろう。彼はわたしの手を握っているのを確かめようとするように、力を込める。


「正直さ、少し怖かったんだ」
「…………?」
「アンタが走ってる姿を見て、あのときのことが頭を掠めた。誰も彼もから逃げようとしてる、必死な姿がさ」


あのとき、と言ったボリスは言ってしまってから瞳を伏せる。わたしの過去を責めるつもりはないのだろうとわかっているのに、わたしの無言はきっとボリスを責め立てていることだろう。わたしはいつだって、ボリスにとって足かせになっているのだ。
『あのとき』わたしはブラッドから逃げていた。胸のうちにはちきれんばかりに湧いた怒りに動揺してクローバーの塔を無茶苦茶に走りまわったあの日、助けてくれたのはボリスだ。けれど逃がしてもらったというのに、わたしは自分で戻って挙句ひどいことをした。
グレイもそうだ、とわたしは思い返す。彼もわたしを怖いと言った。なにをしでかすかわからないと言わんばかりの表情で。


「ごめんなさい」


謝ったのに、わたしはボリスを傷つけたのを知る。彼は謝られることなど望んでいない。だってそれはなにより、わたしが肯定したことになるのだ。
それでもわたしは謝るしかない。許してもらうのではなく、認めてしまうためだった。
もっと前を向かなくてはいけない。話すことも確かめあうものもきっと恐ろしく足りないのに、ここまで来てしまった。


「ボリス。わたしね、もう『大丈夫』って言うのやめようと思うの」
「大丈夫?…………まぁ、アンタの大丈夫ほど胡散臭いものはないよな」
「失礼な。でも、まぁ、そのとおりなんだけどね。わたしはそうやって曖昧に誤魔化して嘘付いて、なぁなぁで生きてきたから」


優しいのではなく軟弱で、頭がいいふりをしていたけれどずるいだけだった。本当はボリスにこんなふうに心配してもらえる価値などない。でも、やめるときがきた。わたしは随分そうやって嘘を突き通してきたから、今更遅いかもしれないけれどこれ以上言い続けるよりマシだ。わたしはいつだって「大丈夫」とは程遠い場所にいたのだから。
ボリスは力なく笑って、こてんと頭をわたしの肩に落とした。


「行くんだろ、サーカス」
「うん。…………ボリスは、見た?」
「見たよ、ルールだからね。でもには見せたくない。あれはが思ってるほどいいものじゃない、楽しいものなんかじゃないんだ」
「…………」
「アリスにも見せたくない。…………アリスとは似ているようで違うのに、同じくらい危なっかしい。あんまり俺の視界からいなくならないでよ」


人の体温の心地よさに酔いながら、重くはない頭を肩に乗せて瞳を閉じる。わたしやアリスは迷ってばかりだ。アリスの迷いもわたしの迷いも、同じようでまったく違う。例えば彼女の知らないことをわたしが山ほど知っているように、彼女はもっと尊いものを必死で守ろうとしている。わたしの持ち得ないものを、理解なんてできないけれど。
ばさり。ボリスに巻きついていたファーが、わたしを覆う。


「…………ジョーカーさんに捕らわれないでくれよ。あんたは多分、すっげー考えちまうかもしれないけどそんなに深く考えなくていいんだ。俺の傍に戻りたいって思ってくれるだけでいい」
「都合がよすぎるでしょ」
「いいんだよ。俺はアンタにそう思われたい。都合がいいってことは、不都合よりずっといい」


ようやく調子を取り戻したボリスが弾んだ声を出してくれたので、やっと春の夜から抜け出せた。闇の中で濃くて華やいだ空気ばかりに囲まれていると、ナイトメアではないけれど中毒性から逃れられなくなってしまう。けれどボリスがいればどんなところだって抜け出せるだろう。わたしが彼の言うとおりに捕らわれず、戻ろうという意識を持てるのなら、いつだって正しい扉を開けてくれるに違いなかった。
両腕を包むファーからはボリスの匂いとお日様と、少しだけ夏の匂いがした。
























移り気にさえやがて朽ちてゆく



(10.03.17)