ボリスが帰ってからほどなくして、広い部屋にまたノックの音が響く。今度はもちろん扉から発せられたそれは、の考えたとおりの人物が立っていた。思わず微笑んでしまった自分に相手は若干眉をひそめたが、わたしは彼女は招きいれた。ビバルディはまだ執務から戻っていないがおそらくもう一時間帯はもたないだろう。彼女が積極的にする仕事というのは、裁判以外にはあまりない。 「驚かせちゃったね、アリス」 広い寝室にふたりきりで立ちすくみながら、わたしは笑った。馬鹿馬鹿しく白々しい空気だ。アリスはわたしに対して怒っているかもしれない。呆れてもいるだろう。いつだって逃げてばかりいるわたしを、罵る権利が彼女にはある。 アリスは視線を逸らした。 「また、ユリウスと喧嘩したの?」 「喧嘩ってほどのことじゃないよ。それに今回はわたしが悪いんだし、彼の言い分ももっともだと思う。でも、たぶん、問題はそこじゃないの」 アリスに理解してもらうのは困難だとわかっていた。わたしたちの距離はたったの一歩しかないのだとしても、その理解は恐ろしく遠い場所にある。目の前にいるアリスを掴めないのと同じように、わたしの声だって届いているかは危うい。 サーカスの森ができてからこちら、わたしの心にはぴったりと恐怖が張り付いている。忘れていてもこうやって、時折顔を覗かせ頬を撫でて自分が傍にいることを主張してくる。サーカスや四季、そしてあまりにも満たされて欠けることのない現状が、わたしを追い詰めている。まったく的を得ない答えだった。引っ越しで弾かれたユリウスやゴーランドに会いたかったのに、どうして彼らを見ていちいち不安に駆られなければいけないのだろう。 何を話せば、わたしの気持ちを正確に伝えられるだろう。口に出したくない類の恐怖だったので――――言葉にすればたちまち、それは現実になり代わる気がした―――、わたしは結局アリスに伝えきれないものがたくさん出来てしまう。 わたしは瞳を閉じ、それでも精一杯の感情を口にする。 「ただ、ユリウスの言葉が怖い」 クローバーの塔で、エイプリルシーズンについて聞きにいったあのときからユリウスの言葉はするどい刃のようにわたしを切り刻んだ。いつだって鮮やかな切り口だったので、わたしは始めに驚き、次に悲鳴を飲み込むしかない。 聞きたくなかった。理解したくなかった。わたしの望むものが何一つない、それは絶望によく似たものだ。 アリスは首を捻る。 「怖い?」 「…………なんて言うのかな。上手く言えないけど、なんだか言って欲しくないことばかりで」 「…………」 「ユリウスに、そういう気はないってわかってる。でも、わたしが嫌なの」 「…………」 アリスを見ていられず視線を逸らしながら説明したが、彼女はつとめて表情をつくらずわたしの名前を呼んだ。こっちを見て、と言わなくても伝えるアリスの声。 顔を上げた先で、綺麗なスカイブルーの瞳がまっすぐにわたしを見つめている。あぁ、駄目だ。瞬時に理解して、考える前に口が動く。 「心配しないで」 わたしの迷いを背負わせてはいけない。アリスだってこの世界で迷っているのに、どうしてわたしの悩みまで背負わせなければいけないのだろう。人のことばかりでいつだって優しいアリスにこれ以上負担はかけられない。もちろんビバルディの言うように迷惑ではないにしろ、そんなものはわたしが嫌だ。 たった一歩の距離がもどかしくて、わたしはアリスの手を取った。少なくともそうしていれば体温だけは伝わる。 「心配ばかりさせてるって、わかってる。おかしな行動だよね。衝動的すぎて、わたしはいつだって考えが足りていないの」 思い返せば、走り出したわたしをいつだってアリスは待っていてくれた。逃げたくせにすごすごと戻ってくるわたしを責めもせず、腕を広げて優しく迎えてくれた。ビバルディだってそうだ。彼女たちは友人であり母であり姉であり、つまるところ家族のようなものだった。 お前はペーターを買いかぶりすぎじゃ。ビバルディの声が蘇る。けれどわたしはペーターのことをこの世界で一番信頼していることに変わりはない。もちろんアリスに対する思い、という意味で。 「もう少し、だと思うの」 塔から逃げて城に行き着き、傷ついた野良猫みたいなわたしをビバルディが拾ってくれた。あのときわたしには二つの選択肢があったのだ。彼女にすべてを預けて何も考えずにいることと、差し伸べられた手をきっぱり断ること。白くなめらかな手は、振りほどくことを考えさせないほど甘い誘惑に満ちていた。けれど、わたしはその手を遠ざけた。 お前の望みをわらわに教えておくれ。頷いていれば、わたしはすべての責任を放り出してしまえただろう。でも、わたしはそうしなかった。 「もう少しでわかる、と思う。立ち止まって考えるくらいなら当たって砕ける方がわたしらしいみたい」 苦笑に似た自嘲を向けると、アリスは眉を下げて困ったように笑ってくれた。わたしはそうやって微笑んでくれることに感謝する。話している相手の表情は、いつだって笑顔がいいに決まっていた。握っていた手が緊張で少しだけ汗ばむ。 アリスは苦笑のまま、つとめて穏やかにわたしを見つめる。 「ねぇ、。さっきね、グレイがお城に来たのよ」 「え」 アリスの髪は透けると綺麗な琥珀色だ。ふふ、と笑うアリスの小さな顔を長い髪が形作っている。わたしは家出同然に出てきてしまったことを思いだし、罰が悪くなる。塔の住人の中で家出娘を連れ戻す役割を仰せつかったのはグレイだったらしい。 アリスは静かに微笑んだ。 「と話をさせてほしいって言いに来たの。けど、出迎えたのが私だけじゃなくてペーターも一緒だったから…………」 アリスの隣に立つペーターがいかにも宰相風に眉を吊り上げ、グレイを追っ払う様など容易に想像ができた。アリスはその情景を思い出すようにため息をつく。汚らわしいトカゲを城にいれると思っているんですか、とペーターは言ったらしい。 「ペーターらしいね」 「まったく…………ビバルディの言うとおり、もうちょっと礼儀を覚えてくれればいいんだけど………。こればっかりは、無理ね」 どうやら自分以外をゴミ以下に扱うペーターについて、すでにアリスは諦めているらしかった。誰もペーターにそのように扱って欲しくなどないのだから、彼女の諦めももっともだけれど。 相変わらず部屋の中央で突っ立ったまま手を握り合うわたし達は、その可笑しさには気付けない。相手がここにいてくれることが大切だった。この世界を置いて帰ると決めていたとき、わたしは自分がアリスならば友達を絶対に帰しはしないのにと思った。だからここに残ると決めたとき、アリスだけは失わないでいようと決めたのだ。いくらアリスが幸せになろうと、その傍で共に彼女の幸せを喜べる位置にいたかった。 アリスは一度視線を落としてから、妙にきっぱりとした表情をつくる。 「グレイから伝言を預かってるの」 笑みを一切含まずに、唱えるようにアリスは口を開く。 「待っている」 「…………」 「が心配ごとを言ってくれるまで、いつまでも待っている。俺では役不足かもしれないが…………ですって」 いつまでも。グレイが言うとまるで永遠に聞こえた。彼の持つ誠実な優しさがまぶたに写る。彼は真実しか持っておらず、ナイトメアの部下らしく感情に素直だった。わたしは少しだけ塔が懐かしくなり、けれど戻るわけにはいかないと思う。 今、グレイやナイトメアに優しくされれば掴みかけていたものが指の間から零れていってしまう。 「グレイは、優しいわね」 アリスの声は少しだけ固く、真面目ぶっていた。わたしはきょとんとしてアリスを見つめる。こういう声をするアリスの次の行動は、何かの決断を告白するときだからだ。 アリスは強気な笑みを見せた。 「心配するなってあなたが言っても、私は心配するわ。もちろん勝手に。だからは気に病まないで」 「…………アリス」 「だってそんなの無理よ。あなたは大切な友達だし、悩んでいたら助けたい。素敵な人と一緒になってもらいたいし――――この世界で素敵って難しいけど―――――幸せになってほしいの」 だから勝手に心配するし、手助けするし、口だって挟むから。 軽やかにうふふ、と笑うアリスはわたしが記憶するより少しだけ強くなっているように見えた。大人びているし現実主義者のくせに、エプロンドレスを着ているアリス。いつだってちぐはぐで、それがこの世界にしっくり収まっている彼女はいつのまにこんなに強くなっていたのだろう。 幸せになってほしい。人にはそう願わずにはいられないのに、自分のことだと認識するとひどく遠い気がした。まるで関係ない、遠い物語に出てくるもの。 わたしがアリスとペーターに願うように、アリスはわたしと誰かにそれを願う。どちらも幸せの形など知らないくせに、それをいいものだと決め付ける。相手にはそれがいいと思うのも納得するのも実に勝手だ。ビバルディがわたしを嗜めたように、いくらアリスがペーターを好きだとしてもそれが混じりけのない幸せであると誰がわかるんだろう。 わたしとアリスが同時に忍び笑いを漏らしたとき、この部屋の主が戻ってきた。ビバルディは突っ立ったままのわたし達に呆れながら、わらわもまぜておくれと純粋な瞳で話に加わる。かしましくなったわたし達は、三人の共通の話題やサーカスを口々に話しながら別の物語を作り出していく。 三人にだけわかる、そのとき確かに幸せなものをわたし達は持っていた。 |
唇の余毒はあまりに苦く
(10.03.17)