またたく間にときは過ぎ、いよいよハートの城からサーカスに向かう日がやってきた。日、というのも可笑しな話だがちょうど夜から昼に時間帯が変わったので間違いなくわたしの目には一日が始まったように見えた。身支度を整えながら前回とは違う、緊張めいた強張りが背筋に走る。鏡台に映る表情はどこか硬く、不安がっているようにも見えた。ジョーカーに会いたかったのだし、きっとクローバーの塔では連れていってもらえなかったのだが、その確信さえも時間帯を置くにつれて怪しくなってしまう。クローバーの面々を裏切っても会うべきなのか、と自問が湧いてしまう。 「………準備はできたかえ?」 声をかけられ、わたしは反射的に立ち上がった。うん、と振り返り様に言いにっこりと笑う。ビバルディは前回の会合時に来ていた喪服に似せたスーツに身を包んでいた。大人の女性らしい体つきの彼女にはよく似合っている。けれど賞賛を贈るよりも早く、ビバルディがわたしのことをほめてくれた。 「おぉ、似合うではないか。うんうん。やはりお前は何を着ても似合う」 「ありがとう。でも、ビバルディの見立てがいいからだと思う」 手放しで褒められるのは嬉しいけれど、それは女王の力量だ。彼女の選んだ藍色のワンピースはスカート部分にレースがあしらわれ、シンプルな分腰に深紅のリボンが巻かれている。左わき腹あたりでリボン結びにされたそれがあまりにも鮮やかで目を引く。また対になるように首にもチョーカー代わりに同じ色のリボンがかけられていた。ビバルディの好みはいつだって、わたしの色をいっぺんに変化させてしまう。 アリスが呼びにきてくれるまでひとしきり褒められ、アリスにも似合っていると太鼓判を押された。わたしはいつもより高いヒールに足を差し込み、背筋を伸ばす。ここまで準備をしたのだ。会いたいのだから会うほかない、とわたしは瞳を瞑る。 「今日も人が多いわね」 サーカスのテントに向かい、ようやく敷地内に入ると開口一番アリスが呟いた。クローバーのときもそうだったけれどサーカスにはたくさんの人が―――もちろん顔なしの住民だ―――いる。親子連れだったりカップルだったりするその人の群れがハートの城の面々に道を作る様はあまりにも自然だ。すっと人混みが割れ、吸い込まれるように女王が歩く。 「、わらわの傍を決して離れるな」 ぴったりと隣を歩きながらビバルディが語調を強めた。手まで握りそうな言い方にわたしは小声で返事をする。ビバルディは周囲というよりは主に背後のエースに気を張っているように見えた。 エースはサーカス直前に帰ってきた。ぎりぎり間に合ったと零した彼にビバルディが聞こえるように舌打ちをしたのは記憶に新しい。いつもの寒々しい上下関係だと思ったのだが、わたしのことも関連しているようだった。アリスとエースも何事か話していたようだし、ペーターのわたしに対する風当たりもいつもより強い気がする。 入り口に足を踏み入れるとテント内は薄暗く外との明暗の差にくらりと目眩がした。けれどすぐに慣れ、わたしは懐かしい舞台を見つける。広い円形の台を囲むようにして作られた客席の指定席に誘導されながら、わたしは前回のサーカスを思い出していた。純粋に楽しみ、隣にはナイトメアとユリウスがいたあのサーカスは幻のように遠い。 「レディス・エンド・ジェントルメン!ウエルカム・トウ・ザ・ワンダフル・ワンダーワールド!」 幻のように遠いはずなのに、前回と同じ口上を述べるジョーカーがいる。わたしの左にはビバルディがいて、右にはアリスがいるというのに、まったく同じサーカスだった。わたしはじっと彼を見つめ、これも前回同様、彼の背後に鉄色の世界を見つける。口の悪いもう一人のジョーカーが監獄と呼ぶ檻だ。わたしは無意識のうちに右手でアリスの手を握っていた。アリスは驚きもせずに握り返してくれる。もちろんわたし達はふたりとも、舞台から目を離せない。 「わぁ、可愛い!」 アリスの歓声に同意して、わたしは頷く。ジョーカーの降りた舞台上ではたくさんのウサギが飛び跳ねたり重なったりしながら芸を見せていた。わたし達は他の役持ちにウサギ好きと評されるだけあってこの舞台がとても気に入った。ビバルディも上機嫌に微笑んで、キングはほっとしているようだった。ただ一人エースだけが不満顔をつくっている。 「えぇ? どこがだよ。ウサギ、だぜ?」 よく見てくれよと言わんばかりだ。わたしは彼の言い出すであろう発言に頭を悩ませる。きっとまたペーターにつっかかる気だな、と思ったが背後にいるエースには振り向けなかった。サーカスに向かう間も城でも、わたしはまだ言葉を交わしていないのだ。 「いらぬことを言うな。こやつを連想しないようにしておったのに!」 「あ、そうでした? あはは! すみません〜」 白々しい謝罪をしながらエースはカラカラ笑う。なおもエースはアリスに可愛く見えるのか尋ねた。まるでわたしのことなど見えていないかのような会話。エースはぴったりと背後の席に座っているので、嫌でもそれが目立ってしまう。わたしのことをまったく無視して話し続けるエースを黙らせたのは、けれど不機嫌気味になってきたビバルディではなかった。 「…………ずるい、です」 「…………ペーター?」 何を言われても黙っていたペーターが突如口を開いた。わたしは視線だけをそちらにくれる。彼は本当に悔しそうに眉根を寄せながら、ぎゅっとアリスの手をとっている。 「アリス、あなたが楽しそうなのは嬉しいんです。けれどそうさせたのがあの弱々しい動物だと思うと!」 「おいおい、ペーターさん。同属だろ? 身内に妬くなよ」 「あんな脆弱な動物と一緒にしないでください!」 きっぱり言い切るペーター。わたしは彼と舞台上で懸命に跳ねるウサギを見つめる。そうしてから同じだ、と思う。あの必死さは彼に通じるものがある。案外あのウサギたちにも舞台にのぼる目的があるのかもしれない。ペーターがアリスを喜ばせたいように誰かのために懸命に芸をしているわけではないなんて、誰も言い切れないのだ。 ナイトメアなら、とわたしは考える。ナイトメアならきっと同意してくれる。そうだな、と言って、そうかもしれないと笑ってくれる。グレイは単に動物好きだから放っていても機嫌はいいはずだし、ユリウスは呆れながらもそうじゃないのかぐらいは言ってくれるだろう。 けれど現在のわたしにそんな発言をすることは許されない。口をつぐんだまま、エースにされるのと同じように存在を消して居る。いるのにいない、顔なしと同じようなものなのに特別だとされる余所者の仮面をかぶっている。 演目は滞りなく終了した。ウサギの舞台からは何を見たか覚えていない。ぼうとしたまま考えにふけっていたせいだ。ぞろぞろと出口に向かう人の群れに流されるように並び、わたしは光に吸い込まれる。けれど前回と違ったのは外の光に包まれる前に手を取られたことだった。 「…………」 呼ばれた声音にぞくりと背筋が震えた。振り返らずともわかる、ずっと聞いていた声。 「エース」 握られた左手は手袋の硬さまでしっかりと感じている。見上げたわたしはきっと怯えた顔をしているだろう。けれどエースは笑顔のままだった。 「よかった。見失ったら俺がどやされるところだったよ。というか、、迷うのが早すぎないか?」 「え…………?」 驚いて周囲を見回すが、エースの言うとおりそこは出口ではなかった。今まで一緒にいたはずのアリスもペーターもビバルディもキングもいない。こんなところまで前回と同じなの、とわたしは愕然とした。知らない屋台、沢山の顔なしたち、履きなれないヒールの痛みが嫌にリアルだ。 恐怖の方が先にたちエースの傍に寄るとしっかりと繋いだ手をもう一度握りなおされた。 「とにかくよかった。まったく、君もつくづく迷うよな。前回もユリウスに探させたんだろ?」 「う、うん」 「ユリウスの運動神経じゃ見失うに決まってるよ。トカゲさんがいたっていうのもあるかもしれないけど、それでもユリウスに留めておくのは無理だ」 意味ありげに笑ったエースは握った手を持ち上げて、声を落とした。 「俺くらい強引じゃないと、ね」 くすくす笑うエースは、先ほどテント内で無視をしたとは思えないほど饒舌だった。わたしは握られた手を振りほどきたい衝動に駆られたけれど、また迷うのも気が引けた。迷った先でしかジョーカーと出会えないとしても、エースの手を振りほどくほどの覚悟はない。 仮面のジョーカーには会いたかったけれど、付き合いの長いエースの方が大事だった。 「エース」 「んー? あ、さっきまで無視していたこと? あれは仕方ないんだよ。陛下が俺を目の敵にしててさ。人攫いか何かみたいに言うんだぜ?」 エースの機嫌はすこぶるいい。わたしの手を握りすいすいと人を避けていくのに、ずっとしゃべっている。わたしが返事をしてもしなくとも。 「まぁもちろん、隙があれば攫ってユリウスに届けようとは思ってるけどね」 「……ちょ、ま……」 「あの偏屈には俺ががつんと言ってやったからさ。安心して仲直り―――」 「ちょっと止まって!」 かつかつかつかつ。エースの歩幅はわたしより長く、速度も速い。すぐに息が切れてしまったわたしが声を張り上げるとようやく彼は止まった。びくともしない腕はすでに熱くなり、痛み出している。 くるりと振り返ったエースの瞳は、ビー玉みたいに澄んでいた。その目を遠慮なく睨みつける。 「はや、すぎ!」 「あはは! 悪い悪い。コンパスの違いを考えてなかった」 飄々と言ってのけ、エースはまた笑う。ビバルディに向けていたときとは違う、ユリウスに向けている笑みと同種のものだ。あがる息を整えながら、わたしはしきりに周囲を見渡した。エースが急げば急ぐ分だけ、わたしの中で仮定が確信に変わっていく。エースはわたしと誰かを、会わせまいとしているのだ。 「…………そんなに、ジョーカーさんに会いたい?」 笑った声音が低く固まり、エースのごく薄い表情が垣間見える。わたしは弱々しく微笑みながら頷いた。どんな言葉で飾ったところで、目的は一緒だ。ピエロの彼ではなく、とは言わなかった。 エースは面白くなさそうに、視線を外にくれる。 「いくら会いたくても今は無理だよ。ジョーカーさんはアリスを捕らえたみたいだ」 「…………え?」 「ほら。ペーターさんが探してる」 握られてはいない方の手が人垣の向こうを指し、その先にウサギ耳を見つけた。ペーターだ。彼は周囲に目を配りながら足早に人を掻き分けている。普段の彼なら肩でもぶつかろうものなら撃ち殺すはずなのに、その余裕もなく突き飛ばすだけだ。数秒もせずに視界から消えた白兎を見送って、エースは唇だけで微笑む。 「な? ペーターさんが慌ててるってことは、アリスが捕まってるってこと。前も迷って探してもらったっていうのに、君もアリスも迷いすぎだよ」 「アリスも…………?」 「そう。そしてジョーカーさんが迷った君たちを放っているわけがない。捕まって、何か吹き込まれているかもしれないな」 前の君みたいね。続けられた嫌味などどうでもよかった。わたしは握られた手をふりほどこうとする。けれど、やはりびくともしない。 「おいおい、どうしたんだよ」 「決まってるでしょ! わたしもアリスを探しに行くの!」 「えー? そんなに、ジョーカーさんに会いたいんだ」 心底気の抜けた返事に、わたしは気が高ぶる。 「アリスを助けたいって思っちゃいけない?!」 必死に見つめるとエースが少しだけ驚いた表情をさせた。まるでそんなこと考えもしなかったみたいに。 いいから離して、と続けるわたしにエースはいささか考えるように顎に手を当てていた。もどかしかった。アリスがなにかを吹き込まれ、とても不安な気持ちになっていると思うと居ても立ってもいられない。 「う〜ん。本当は会わせたくないんだけどなぁ」 「だからっ、わたしはアリスを」 「助けたい、か。君の助けなんていらないと思うけど」 仕方ないと肩を上下させて、エースは空いている方の手でわたしの両目をふさいだ。 驚いて動きを止めるわたしの耳元に、小さく息遣いだけの声がする。 「の足じゃきっと見つけられない。俺が探すよ。すぐだから、じっとしてて」 奪われた視界は安穏とした闇で満ちていた。喧騒が遠のき、エースの存在さえも遠くに思える。手は繋いでいるし手袋がまぶたに当たっているのに、なぜかエースの存在が希薄だった。けれど数秒ののち、ゆっくりはずされた手の先にエースはきちんと存在していた。 エースは戻した手をゆっくり口元に近づけ、人差し指をたてる。まるで静かに、というように。 『私、もう行かないと』 ちょうど真後ろから聞こえた。アリスだ、と思うが声は出さない。握る手に力が込められ、振り返ってもいけないといわれているのがわかった。 エースはただ無表情に私の背中越しになにかを見ている。 『どこに?』 尋ねる声は、ジョーカーのものだった。もちろんピエロ服のジョーカーだろう。わたしが会いたいと思った、看守姿のジョーカーではない。声音や空気でわかる、このジョーカーは得たいが知れない。 『決まっているでしょう。皆のところよ。…………探しているかもしれないもの』 不安そうな声だ。アリスの声は、きっとペーターを指している。人を掻き分けアリスを探すペーターの姿を思い出すと胸が痛んだ。 『そう、探している人のところか。君を待っている人のところだね』 ジョーカーの声が、心なしか変化した。まるでアリスではなく他の誰かに聞かせるように大きくなった気がしたのだ。わたしは心臓が一際大きく鳴る。君を待っている人のところ。 アリスは気付かず、そう、と肯定の返事をした。わたしは、けれど答えを持たない。 『それなら…………ほら、呼んでいる』 種明かしをするときみたいに、明瞭な声があたりの空気を換えていくのがわかった。きっとアリスの周囲には変化が生じていることだろう。わたしはじっとエースの赤い騎士服を見つめていたから、わからなかった。 助けに来たというのに、どうしてわたしの方が不安定になっているんだろう。ただ確実なのは、ジョーカーがわたしの存在に気付いているということだった。 くすくすくす。耳に届くジョーカーの笑い声が、それを物語っていた。 『待っている人がいれば、戻ることができる。呼んでもらえれば、帰る手がかりになる』 「…………」 『君にはそんな人が居る? 迷子の騎士じゃ、一緒に迷っちゃうのが関の山だと思うけど』 尚も笑い続けるジョーカーに、エースは眉一つ動かさない。ただ先ほどと同じようにわたしの視界を手で覆った。わたしはもうすでに抵抗などしなくなっていた。 ただ、低く怒気を含んだ声だけがわたしの頬をかすめて音になった。 「確かに俺と一緒だと迷うだろうけど…………なら、最初から迷わせなければいい」 繋いだ手は硬すぎて、もう血の気が引いている。 背後にいるはずのジョーカーが、また何事か言う前に先ほどと同じように世界が遠のいた。場所や時間の感覚が全くない場所に放り出されたというのに、今度はエースが近くにいてくれるのがわかる。つないだ手の感覚よりも、もっと濃厚な彼の空気が傍にあった。 少なくとも今、この手を離して迷子になるのはわたしの方だ。ジョーカーの笑い声が耳の奥でこだまし、鼓膜に張り付いてはなれない。 |
我が身を燃やす焔すら翳(かす)む
(10.04.04)