確かに、わたしはもう一度迷えば出られないかもしれない。 藍色のドレス姿のまま、わたしはビバルディの部屋で立ち尽くす。この部屋は広すぎていけない。窓が天井まで高くとられているのも、上品なレースがところどころに配されているのも、上等な絨毯さえわたしの身を竦ませる。瞳を閉じるとどうしたって考えなくてはいけないものばかりがちらついた。 ジョーカーの言っている意味がわからないほど鈍いわけではない。アリスにとってのペーターが、わたしにはいるのかと問うていた。つまりは心の底から愛する人の存在がわたしをここに繋ぐ理由に他ならないということだ。確かにわたしやアリスのような余所者には、役持ちたちが為しうる奇術――――時間を自在に止めたり早めたり、手を叩くだけで服を変化させる魔法―――などできない。ボリスのように迷わず扉を繋ぐこともできなければ、他の世界の住人を無理やり連れてくるような理不尽な真似も、できやしない。だからわたしがこの世界に居続けるのならば、どうしたって誰かの手を借りなければいけなかった。迷いやすいから落ちてきたのに、落ちてきた世界にはまだ穴があるのだ。 アリスにはペーターがいる。何度間違っても迷っても、白ウサギは必ずアリスを見つけ出すだろう。それが彼の願いであり、真実の幸せなのだ。傍目から見てもどうしたって切り離せないものがあるとわかる二人だから、わたしはいつだって安心できた。 ―――――――――君にはそんな人がいる? ジョーカーの声は、わたしの柔らかな心を抉り出す。 「…………何をしておる? 」 このような暗い部屋で。声と同時にぱちんと音がして、部屋がいっきに明るくなる。 わたしはいつのまにか周囲が夜になったことを知って驚いた。瞳を閉じて数秒だと思っていたのだが、もう時間帯は変わったらしい。 突っ立ったままわたしはビバルディを見つめた。たぶん、とても心もとない表情をしていたと思う。ビバルディはいつもの赤い女王のドレスに身を包み、わたしに歩み寄る。 「…………お前の望む、ジョーカーには会えた?」 「ううん、会えなかった」 「そう…………でもお前は約束どおり戻ったね。わらわはそれが嬉しい」 静かに微笑んだビバルディに、エースがいなければ戻れなかったかもしれないとは伝えなかった。手を引いてくれながら、エースはずっと無言だった。わたしを連れて行くことだけに集中して、まるで怒っているみたいな顔をしていた。彼の酷薄な表情はあまり得意ではなかったので、わたしは少しだけ怯えた。騎士としてのエース、処刑人と呼ばれるエース、そしてユリウスの友人としてのエース。彼には数え切れないほど顔があり、わたしはたぶんそれら全てを把握してきれていない。 意地悪く笑うジョーカーに迷わせないと言ってくれた彼を、けれどわたしは完全に信用はできない。エースを信用できないわけではなく、彼がいくら手を貸したところでわたしは迷う気がしたのだ。それはたぶん、自分を信用できないことに他ならない。 ビバルディやアリスがどれだけ助けてくれたとしても、結局わたしはわたし自身だけでは立てないのかもしれない。 「…………ビバルディ」 背筋を伸ばし、わたしは女王を見つめる。視線を強く向けてくれるビバルディは、驚くほど穏やかだ。こんなにも穏やかなビバルディと共にいれば平和ではあるはずなのに、どうしてわたしはここに留まれないのだろう。 「なんじゃ、」 「…………わたし、戻るよ」 たった一言を口に出すのに、恐ろしく勇気がいった。わたしは目眩を起こしそうな極度の緊張の中で、必死にビバルディに伝えようとする。 「クローバーの塔に戻りたいの。ごめんなさい…………助けてくれたのに」 服のすそを握り、わたしはビバルディをしっかりと見据える。まるでもう会えないみたいだ。ビバルディは笑顔を引っ込めはしたけれど、激昂したりしなかった。ただふと、綺麗に口紅の塗られた唇がひどく楽しそうに歪む。 「お前は特別な余所者だ。だがわらわの逆鱗に触れれば、そんなものは関係がない」 「…………」 「アリスにも言うた。わらわの機嫌が悪いときに煽るのは自殺行為と。の首を刎ねてしまえと命令を下すことなど造作はない」 「…………」 「死ぬのは嫌だろう? …………わらわのものにおなり。そうしてこの城で生きていけば、なんだって与えてあげよう」 ビバルディの瞳は一瞬たりとも逸らされたりせず、綺麗な紫色の瞳にわたしがいる。わたしは彼女の瞳の中で、とても情けない顔をしていた。困ったような、笑っているような、それでいてまったく要領を得ていないような顔。わたしは一度まばたきをして、その間にすっかり表情を変えた。ビバルディほどでなくとも、穏やかな顔だったと思う。 「ごめんなさい、ビバルディ」 立っている感覚はなく、視線は定まっているかわからない。けれどわたしはそれでも、ビバルディに従ってあげられない。 「ここに留まれば、それはもうビバルディが望んでくれた『わたし』じゃないの」 まったく違う生き物になってしまうの、と付け加えたわたしは、ビバルディがすぐにでも兵士やメイドを呼びつけて斬首を命じるのを待った。考えてみれば女王の庭に泥だらけで転がりこんだだけでも死刑にされるべきだった。それを救われ、あまつさえサーカスにまで連れていってもらいながら、わたしは彼女の願いを聞き届けてあげられない。 けれど、兵士やメイドは呼ばれなかった。その代わりにくつくつと可愛らしい笑い声。 「ふっふふ。お前は本当に愚か。わらわに殺されてしまっては何にもならんだろう?」 「…………え」 「そこは嘘でも肯定しておくものじゃ。まぁ、わらわに嘘をつけばそのときは間違いなく首を刎ねておったがな」 それじゃ、肯定できないじゃない。わたしは目を真ん丸くさせて、ビバルディを見つめる。ビバルディは少女のようにころころと笑っている。 「そんな絶望的な顔をするのはおやめ。からかい甲斐のある子だね」 「え、あ、うん?」 「お前が戻ることなどわかっておった。遅かれ早かれ、お前の心が正しくある場所に向かわねばならぬ。…………それが今、このときというだけ」 ビバルディのたおやかな腕が伸びて、細く長い指がわたしの頬をすべる。一度ゆっくりと撫でた指は、あっけなく離れた。赤い爪がちらりと瞬いて、うっかり引き込まれそうになる。 ビバルディはそれ以上何も言わず、ただ「そのドレスは着ておいき」と付け加えただけだ。メイドを呼んで冬用のコートを用意させ、アリスには伝えておくと請け合ってくれる。わたしは溜まらずにビバルディに抱きついた。加減も知らない、友人に対する抱擁を受け入れてくれるビバルディは優しい。 「ありがとう、ビバルディ」 柔らかな肌、香る薔薇の香水、美しい女王は微笑んでわたしを送り出す。 足早に廊下に出て、徐々に速度を増したわたしはいつのまにか走り出していた。帰ろう、戻ろう、キチンと心のあるべき場所に。 ジョーカーの言うようにわたしを特別に思ってくれる人などこの世にはいないかもしれない。特別に思ってもらわなくては長く居られないのかもしれない。それでもわたしは嘘だけはつきたくなかった。元の世界では随分嘘ばかりの人生を送ってきたのだから、もう充分だ。望んだ世界で望んだ行動をした結果、自分を失うのだとしても何を躊躇う必要があるのだろう。 |
燃え尽きるだけでも構わない
(10.04.04)