「どこへ行くんです?」


駆け下りるようにして階段を降り、長い廊下に向かって足を伸ばすと同時にその声は聞こえた。わたしは勢いのついた体を揺らして止まり、つい今しがた降りた階段を見上げる。間接照明のつけられた階段の中央、踊り場に白い生き物がいた。


「ペーター」


白く長い耳、綺麗な白銀の髪、闇に冴える赤い瞳が特徴的なこの城の宰相閣下は顔色一つ変えずにわたしを見下ろしていた。彼はこの世界で唯一、わたしを嫌ってくれている人物だった。誰からも好かれる余所者ではなく、取るに足らないものだと思われているのがその目を見ればわかる。何の感情も、彼の瞳には映らない。


「どこへ行くのか、と僕は聞いているんですよ。耳まで悪くなったんですか」
「…………あぁ、ごめん。戻ろうと思って」


ペーターやアリス、エースには言わずに戻ろうとしていたことに気付き恥じ入る。確かに短い時間だったし認めたくはないだろうが、わたしは彼らと共に行動していたのだ。何も言わずに行くべきではない。ビバルディが伝えてくれると約束したのは、アリスにだけだ。
ペーターは眉を寄せて、忌々しげにため息をつく。


「戻る? どこに戻るって言うんですか。遊園地、帽子屋屋敷、クローバーの塔。どこがあなたを受け入れてくれるって言うんです?」


優しさのカケラも感じられない、ペーターの声音はわたしを痛めつける。とっさに言葉がでなかった。塔だと答えられたはずなのに、どうしてもペーター以上に強く協調できない。
わたしはぼんやりと赤っぽいオレンジに照らされる彼を睨みつける。


「塔、だよ」
「そうですか。では、また弾かれに戻るんですね」


答えたわたしに、いきなりにっこりと笑ったペーター。そうしてわたしの心臓の裏側を思い切りぐさりと突き刺した。
弾かれる。わたしはアリスとは違い、引っ越しの際に時計塔から弾かれている。目が覚めたらすでに周囲はクローバーの塔だった。見慣れない家具、知らない階段、ひんやりと冷たくて硬い雰囲気。あのときの心細さをなんと言おう。わたしはまたどこか知らない場所に来てしまったのだと勘違いし、もう一度何もかも初めからやり直さなければいけないのかと落胆した。
クローバーの塔に戻るということは、わたしの不確定さを露呈させてしまうだろうか。
ペーターは腕を組み、全く笑っていない瞳を細くする。


「前にも言ったはずです。あなたが迷おうと野垂れ死のうと一向に構いませんが、僕のアリスを巻き込まないでください」
「…………」
「今回はジョーカーの季節が来ていてそれだけでも大変なのに…………前回のように、また面倒を起こすんですか」
「起こそうと思って起こしているわけじゃないけど……、でも結果的にそうなっているから謝る。でもペーター、わたしはクローバーの塔に」
「五月蝿い。物分りの悪い女は嫌いなんですよ」


ちゃ、と構えられた拳銃は二度目だ。ペーターは腕を、斜め下にいるわたしにまっすぐ向けている。銀色の彼専用の銃に、背筋が凍った。
けれどペーターが引き金を引く前に、わたしは誰かの影にすっぽりと入ってしまう。


「あれペーターさん、何してるんだ?」
「エース君…………あなたという人はときどき馬鹿みたいにタイミングがいいですよねぇ」
「はははっ。それは多分、俺が騎士だからだよ」


軽やかに始められたハートの城の幹部たちの嫌味のやりとり。わたしは自分がエースの背中に守られていることを知る。見上げれば短い茶色の髪が揺れていた。確かにエースのタイミングはよすぎだ。


「ハートの城の騎士だと言うならその娘をさっさと始末したらどうです。アリスを害するなんて、死刑にしてしまえばいい」
「おいおいペーターさん。裁判官は陛下じゃないか。それにアリスを害しているのはじゃなくて……………………ペーターさんだって、わかってるだろ?」


からからとペーターの怒りなど何一つ知らぬ声を出すエースの表情は見えない。わたしは彼の背中から一歩も出られなかった。それは安心とは違う、強い束縛だ。彼から発せられるプレッシャーが出るなと命令している。


「陛下はを気に入ってるし、ペーターさんの言うように害があるならすぐに首を刎ねられてる。それでも彼女を殺そうとするなら俺が相手になるよ。まぁ俺って騎士だから、陛下の守りたいものを守らなくちゃならないし」
「陛下のため…………? 笑わせないでください。どうせ時計屋のためでしょう」
「はははっ。俺って友情に厚い騎士なんだよなぁ」
「騎士騎士と…………連呼しなければ忘れてしまう役職なんていい加減返上するべきですよ。本来なら、あなたはその女を斬る事はあっても守ることなんて出来ないはずでしょう」
「…………」
「時間を歪ませて、ルールを破っている。取り締まるべきは何なのか、牢獄に入るべきなのは誰なのか、知らないはず――――――」
「ペーターさん」


すらり、とわたしの左手の方から音がする。目を見開いたのは、エースが剣を構えたからだ。
ペーターが押し黙ったのを感じる。エースの表情はやっぱりわからない。


「それ以上はルール違反だぜ?」


声は落ち着いていたけれど、笑い声は聞こえてこなかった。わたしは重苦しくなった空気に耐えられず、広い背中を見上げた。知っている背中なのに、どうしても知らない人に見える。闇は彼らの間の音をすべて吸い込み、重力だけを増しているようだった。
しばらく続いた沈黙は、けれど突然終わった。エースとペーターが同時に、肩を震わせたからだ。


「…………アリスっ!」


焦ったようなペーターの声。同時にばたばたと走り去る音が続き、エースが肩を落としてわたしに振り返ったときにはすでに、白兎の姿は影も形もなかった。


「やれやれ…………ペーターさんの愛情って激しいぜ」
「なに? ………なにかあったの?」


アリス、とペーターは叫んでいたはずだ。心配になって見上げれば、エースは先ほどまでの気迫など嘘のように困った顔をして頬をかく。


「なんでもないよ。多分、大丈夫。…………ペーターさん、アリスを見失いそうで怖いんだ」
「みうしなう?」
「そう。サーカスのときみたいにさ。君たちってすぐ迷うよな」


くすくす笑うエースに、少しだけ安堵する。ペーターの様子からアリスに何かしらあったのは間違いないだろうが、エースが落ち着いているのならば大事には至らないはずだ。ハートの城で暮らすアリスのことを、エースはエースなりに大切に思っている。


「それよりさ、はどうしたんだ? 戻る気になった?」


エースはにこやかに問うて来る。わたしは確かに戻る意識があるのに、エースの言い方に違和感を覚えた。戻る、というのは本当に正しいのだろうか。わたしの帰る場所がそこだと、誰も証明なんてしてくれないのに。
ペーターのせいだ。弾かれるだのと言われたせいで、わたしは混乱しているに違いない。わたしは、力なく笑う。


「うん、戻る」
「そっか…………じゃあ送るぜ」


いいとも悪いとも言わず、エースは先を歩こうとする。


「待って」


また背中だけを見続ける前に、わたしはエースの袖を握った。


「なに?」
「悪いけど…………わたし、ひとりで戻るから」


ひとりで出てきたのだから、戻るのも一人が良かった。エースの目に、わたしはひどく我侭な女に映っていることだろう。サーカスやペーターから守ってもらうばかりで、わたしは彼に何一つしてあげていない。
それでもエースはわたしを責めない。馬鹿だなと罵って、説教してくれたらやりやすいのに。


「ひとりで戻れるのか?」
「戻るよ…………帰り道、だもの」


笑わないエースはひどく真面目な印象を受ける。
正直に言えばあまり自信はなかった。ジョーカーに言われたように、わたしを必死で見つけてくれるような奇特な人種はあまりいない。愛し愛される、という意味でなら尚更だ。
ペーターのような人物がもしわたしにも居て、アリスのように受け入れられるなんて儚い夢だ。あまりにもありえない物語にさえ思える。
けれどわたしは戻りたかった。サーカスの間も、ハートの城に滞在している間も、考えていたのはクローバーの塔のことだ。


「戻るよ」


エースに、というよりは自分自身に対する戒めに似た気持ちになりながら言う。赤い騎士は信じているのかいないのか、そっかと言ったきりで付いてこようとはしなかった。わたしはハートの城の門をくぐり、薔薇の生垣を迷いなく進む。目的があれば迷うはずなどない、と言い聞かせて前だけを見据えた。
――――――――あんまり俺の視界からいなくならないでよ。
ボリスはなぜあんなことを言ったのだろう。わたしはもう帰る手段を失っているはずで、だから大方ボリスの視界に入らない場所になど行きようがない。それなのにボリスはあまりにも真剣にそう口にした。まるでもう、わたしが手の届かないところに行きかけているような口調で。
―――――――――ジョーカーさんに捕らわれないで。
捕らえるものも捕らわれるものも、すでにわたしの手の中に残っているのか危うい。




















戻るも逃げるもアナタ次第





(10.04.04)