もう随分遠いことに思える、あれはこの世界に落ちてからそう時間のたっていないときだった。ユリウスの部屋で散々泣き腫らしたあと、彼はココアを淹れてくれた。火傷するなよと言い置いて、とつとつと静かに質問を重ねた。落ちた瞬間のことを入念に聞かれたが、今思えばそれはアリスの状況と照らし合わせるためだったのだろう。けれどわたしが落ちた瞬間は白兎に無理やり連れて来られたようなメルヘンなものでは決してなかった。いきなり床が抜け、わたしは真っ逆さまに落下した。怖くなって瞳をぎゅっと瞑り、痛みのまったく伴わない着地を終えたときすでにこの世界に居た。
――――違う。
冷たい石畳の上に大の字で横たわり、静かに上を見つめながらわたしは思った。ここはわたしの世界ではない。見るものや空気、五感すべてが否定していた。夢でないことなど後頭部に感じる石の冷たさと硬さで嫌でも分かった。
ユリウスの質問に答え、彼の説明を腫れぼったい瞳のまま聞いた。頷いたり、わからないことはおずおずと聞き返し、ようやく全体像が見え始めたときにユリウスはため息をひとつ吐いて提案した。彼曰く、夢魔に会おう、と。


「それじゃあお前の仕業じゃないと言うんだな? ナイトメア」
「いきり立つなよ時計屋…………その子の存在は私だって驚いているんだ。確かに時間の歪みを感じたが、まさか余所者が落ちてきたとは思わなかった」


夢魔に会おう。言われたときは理解できず、まぶたの上に手を置かれ呪文のようなものをかけられた瞬間もわけがわからなかった。けれどぱちりと開いた瞳が移した世界は上も下もない、まさしく夢の世界だった。その世界でふわふわと浮いている男を夢魔と紹介され、わたしをこの世界に誘導したのはお前だろうとユリウスが詰め寄っている間中、わたしはナイトメアの視線をまっすぐに受けていた。
あまりにまっすぐ視線をぶつけられるものだからしり込みしてユリウスの背中に隠れたほどだ。ナイトメアは詰問に知らぬ存ぜぬを繰り返し、青筋を浮かべ苦虫を噛み潰したような顔をするユリウス越しにわたしに微笑んだ。


「はじめまして。私はナイトメア。お嬢さんのお名前は?」
「あ、はじめまして…………、です」
「そんなに怯えなくていい。私は君をとって食いやしないし、きっと好きになる」


好きになる? 
元の世界ではそうそう聞かない台詞に驚くと、ナイトメアはゆったりと笑った。


「余所者はこの世界の住人に好かれやすい。そうそう嫌いになれないさ」


だから、好かれる。ナイトメアは同じことを言っているようなのに、わたしの脳には違って聞こえた。嫌いになれないのと好かれるのは別問題だ。元の世界ではなるべくなら嫌われたくなかったが、好きになるのも億劫だった。誰かに好意を寄せることは、つまり裏切られたとき何十倍も傷つく結果になる。
それからちょくちょくナイトメアとは話をした。なにしろこの世界に落ちてきたわたしにはユリウスとナイトメアしか知り合いがおらず、エースやアリスに紹介されるまでずっと塔の中で過ごしていたので、随分たくさん話をした。窓から外を見つめ、まるで捕らわれのラプンツェルを気取っていた日々。


「アリスのことを聞きたい?」


あるとき、アリスについて尋ねた。ユリウスが紹介してくれると言う少女はわたしの前に白ウサギとナイトメアによって落とされたらしい。賢く行動力があり、何事にも物怖じしない勇敢さを持ち合わせているとユリウスは説明してくれた。
ナイトメアは相変わらずゆったりと夢の世界で浮きながら、わたしを見つめる。


「いい子だよ。ユリウスから聞いているだろう」
「うん…………でも、わたしは友達になれるかどうか」


この世界の住人には好かれると言われているが、余所者同士では話が違うだろう。わたしは彼女に好かれる自信がなかった。こと女同士というのはこじれてしまえば修復不可能だ。
正直に心配になっていることを尋ねると、ナイトメアは実に可笑しそうに笑った。綺麗な顔で笑うものだから、わたしは自然に見惚れる。


「女性は難しいな」


言ったあと、大丈夫だと請合ってくれたナイトメアの宣言どおりアリスとの関係は現在まで良好だ。ユリウスはアリスに、コイツにこの世界を案内してやってくれと頼んだ。アリスは驚きつつもわたしを理解し、てきぱきと予定を組んで手を引いてくれた。実際のところわたしが女王に首を刎ねられずに済んだのも、双子に切り刻まれずエリオットに撃たれなかったのも、遊園地でうっかり抗争に巻き込まれなかったことだって、アリスが居てくれたからに他ならない。
アリスが居たおかげだ。クローバーの塔への帰路で、わたしは足を止める。この世界の住人が余所者におおむね好意的だとしても、ペーターだけは論外だったはずだ。彼はわたしを忌み嫌っていたし、いつだって嫌味と銃口を向けられている。それなのに今日まで生きてこれたのは、アリスがわたしを気に入ってくれたからだった。


「ホントに…………アリスには頭が上がらない」


暗い夜道は、けれど不思議な明かりがぽつぽつと灯っているので危ないほどではない。むしろ幻想的とも言える道の真ん中で、わたしは天を仰ぐ。もし自分ひとりで城や帽子屋屋敷や遊園地に行ったとすれば、こんなふうに夜空を見上げるわたしは居ないだろうと思った。いちいち悩んで滞在先から飛び出すようなこともなく、ビバルディの選んでくれたドレスも着ていない。
暗い考えを振り払うように再び歩き出す。見上げればクローバーの塔が目視できるほど近づいていた。どうやら今回は監獄に捕らわれずに済んだらしい。
随分滞在先は変えてきたけれど、クローバーの塔は時計塔より大きくていかついな、と思う。城のように華やかではないし、遊園地のように楽しげでもない。帽子屋屋敷ほど敬われてもいないだろう。けれどこの塔に戻ってきて初めて、わたしは「帰った」と感じた。家ならばここで間違いはない。それが例え、ただ長く居すぎたゆえの愛着だとしてもそう思えることが大事だった。
帰った、帰ってこれた、もう帰れないかもしれないと思った。  


「…………?」


冬の寒空の下でクローバーの塔を見上げていると、ふいに声をかけられた。塔の周辺で声をかけられるなんてのはままある話だ。塔周辺の住民たちはわたしのことを幹部だと思っている節があり、特段否定もしていない。
けれどわたしが視線をめぐらせた先にいたのは、見知った人だった。


「グレイ!」


知らず微笑んで、表情が固まった。笑うべきではなく神妙な顔をするべきだと思ったが、もう遅い。わたしは戻ってこられたのだ。自分の足できちんと、例え迷っていたとしても。
グレイはわたしに駆け寄って、驚いたように声を詰まらせた。


「いつ帰ってきたんだ? いったい、いつからここに…………あぁ、こんなに冷えているじゃないか」


ナイトメアの世話焼き女房であるグレイの、献身的な言葉がすべて嬉しい。帰ってきたんだ、と問われているのもよかった。わたしはビバルディにもらったコートのおかげで寒くはないと言い、ついさきほど戻ったことを伝えた。突然出て行ってしまった行動を詫びて、もちろん城に来てくれたのに追い返す形になってしまったことも謝る。グレイはまったく嫌な顔をしなかった。


「いいんだ…………白兎が俺にどんな反応を示すかくらい、わかっていたことだった」
「わたしも………連絡もしないでごめんなさい」
「いい。それに連絡ならもらっていた。女王からナイトメア様宛にすぐにメッセージカードが届いたからな」


メッセージカード。わたしは目を丸くする。


「なに、それ?」
「知らなかったのか? あぁ、たぶん、知らせなかったんだろう。女王は…………傷ついた鳥を拾ったが、その鳥が自分で戻る気がない場合は帰さない、と我々に通達してきたんだ」
「…………とり」
「君のことだろう。確かに君は鳥に似ている。自由で軽やかな、けれど脆弱な鳥」


わたしとグレイの吐く息は白く、顔は凍えそうなほど冷たい。けれど話すことはやめなかった。わたしもグレイもあまりにも久しぶりすぎて、うまく距離感が掴めなかったのかもしれない。


「鳥なんて…………あー、飛べないアヒルがお似合いかもしれないけど」
「君がアヒル…………? それも可愛らしいが、俺には…………そうだな、白鳥に見える」
「は、はく?」
「物語で語られる姫君がいるだろう? それに、そこに定住してくれない」


笑って誤魔化そうとしたけれど、グレイはそのまま痛々しい顔をした。その顔を隠そうとするかのように、グレイの長い腕がすっぽりとわたしを覆う。硬いコートの感触が頬に伝わり、しっかりと大きな手が背中にぴったりとつけられて初めて抱きしめられていると理解した。途端に呼吸が難しくなり、体は指先まで萎縮してしまう。


「すまない」


わたしが怯えたと思ったのだろう。グレイが実に申し訳なさそうな声で呟く。わたしは視線だけを忙しなく動かしながら、ここは塔の目の前だということと周囲にはもちろん人が居ることをなんとなく再確認して赤くなる。


「本当に君がここにいると、実感できないんだ」


搾り出すような、グレイの声はいつだって真摯だ。それ以上でもないし、過不足のない誠実さがある。わたしは火照る頬を押さえることも出来ずに、けれどありったけの信頼をかけて寄り添う。出来ればグレイに伝わればいい、と思いながら。
わたしは戻りたかったから戻ってきたのだと、言葉にしなくとも伝わればいい。ようやく固まった頬が緩み、笑えたときには随分大きな間が空いてしまっていた。


「わたしはここにいるし…………ねぇ、グレイ?」
「……なんだ?」
「白鳥の湖のヒロインは、確認しなくとも悲恋だったはずなんですけど」


にっこり微笑んで、うっと詰まったグレイの腕の中で彼を見上げる。グレイは頬を掻きながら笑って、もう一度謝った。出来れば幸せな鳥に例えてくださいと言えば、真面目な彼は宿題にさせてほしいと申し出てくれた。
なんやかやと集まりかけていた野次馬をグレイが散らし、わたしは彼とクローバーの門をくぐった。帰ってきたと感じることのできる、けれど逃げ出したいほど混沌を秘めた場所をわたしは愛おしいと思う。それがなぜかなど、今は知らなくていい。



















抱き潰してしまえば良かった





(10.04.04)