クローバーの塔は、わたしが出てきたときと何ら変わりはない。雪祭りの開催時期が差し迫っているためか人々が少しだけ忙しく行き来するだけで、ここは極力静かな職場だ。季節が冬であるせいかもしれなかったが、音という音がすべてどこかに押し込められてしまったようにも感じる。
グレイの隣で歩いていると、事情を知っているのかいないのかスーツ姿のグレイの部下が「おかえりなさい」と頭を下げてくれた。わたしは微笑んで会釈を返すが、なぜか「ただいま」とは答えられない。なぜならわたしは彼の上司でも同僚でもなく、どちらかと言えば居候に近い身分なので、いったいどんな目線で話せばいいのかわからないのだ。
それから何人かに同じように挨拶をされ、まったく同様の困惑を覚える。わたしはいつだってそうだ。チャンスを与えられているのに、それをものに出来ない。例えばアリスのように自己を確立して居場所を確保することが、どうして出来ないのだろう。


「ナイトメア様、起きていらっしゃいますか」


わたしの困惑など知らないグレイが、ナイトメアの部屋の前で声をあげた。ナイトメアは正規の休憩中だというので、わざわざ彼の部屋まで来たのだ。もちろん休憩が終わってからでいいとわたしは言ったし、その間にユリウスの方の問題をどうにかしなければいけないと考えたのだが頑としてグレイは譲らなかった。塔を飛び出す前からなかなかグレイとユリウスはそりが合わない様子ではあったのだが、もしかしなくとも悪化させてしまったかもしれない。


「…………どうした、グレイ」
「おやすみのところ失礼します。が、帰ってきたのでご報告を」


グレイの報告は、まるでわたしが猫や犬のようなペット感覚で語られている。わたしは微妙な面持ちで顔を歪めたけれど、グレイ以上の的確な表現方法がないこともまた事実だ。
わたしが帰ってきたことを、グレイはナイトメアに報告している。


「…………」
「?」


ナイトメアの返事はなかなか返ってこない。わたしは首を傾げ、グレイを仰ぐ。黄土色の瞳がかすかに疑問符を写していた。まさか、と思い、わたしは扉に駆け寄る。


「ナイトメア? ええと、ごめんなさい。なんていったらいいかわからないけれど、戻ってきたの。話を聞いて欲しいんだけど、まさかまた具合が悪くなってたりしないよね」


扉を挟んで吐血でもされていたら困る、とわたしは切迫した思いで言った。グレイはやっとその可能性に至ったようで、「大丈夫ですか? ナイトメア様!」と同じような声を出した。けれどわたしやグレイの心配などどこ吹く風、というように扉はあっさりと開いてナイトメアが顔を見せる。


「お前たちは…………私がいつでもどこでも吐血すると思ってるのか」
「どの口がそれを言うのかって突っ込みは今のわたしの立場上してはいけないんだけど、させてもらう。あなたはいつでもどこでも吐血しすぎ!」
「…………ふ、ふふ。随分、元気になって戻ってきたんだな」


青い顔のまま、ナイトメアが笑いかけてくれる。けれど、わたしは妙な違和感を覚えてしまった。確かに相変わらず具合が悪そうな顔で、ふらふらとした足取りをしているが、纏う空気が歪んでいる。
そしてこれは決定的なことなのだが、彼はわたしを部屋に入れる気がなさそうだった。紳士を気取る彼らしくない行動だ。扉の前で話す、というのは長話をするつもりがないということだった。
わたしが視線を鋭くさせたのを、ナイトメアは見逃さなかった。グレイに向き直り、話をつけようとする。


「とにかく、が帰ってきてくれたのは嬉しい。だが今は少し体調が悪くてな………」
「グレイ」


話はあとから、と付けたそうとしたナイトメアを遮ってわたしは叫び、同時にグレイににっこり笑った。


「ナイトメア、とっっっても具合が悪そうだから中でお話してくる。すぐ済むだろうからグレイは仕事に戻って? ここまで付き合わせちゃったでしょう」
「え? あ、あぁ」
「あまりにも具合が悪いようならすぐお医者様を呼ぶから、心配しないでね」


言いながら、わたしは閉じかけていた部屋の扉に足を挟みこみ強引にナイトメアを押し込めた。おい、と非難がましい声を上げられたが気にせずに、わたしは扉をきっちり閉めるまでグレイに微笑んでいた。
ぱたん。扉は軽い音をして閉まった。注意深くグレイが去ったのを確認したわたしは、くるりと振り返る。ナイトメアは確かに具合が悪そうではあったが、いつも以上ではなさそうだ。夜なので照明の関係上、顔色を窺えないのが難点ではあるけれど。
間接照明のためか部屋は淡い灯りだけだ。暗い、と瞳を細めるとナイトメアがすいと腕をあげた。途端に、ぱっと数段明るくなる。


「ありがと」
「…………あぁ」


ナイトメアはやはりそれ以上、わたしに言わなかった。帰ってきた理由や、それ以前に出て行った理由、ナイトメアには話す工程など無意味かもしれないがそれでも今までは無視されなかったものだ。わたしはこの部屋にナイトメアと二人きりという事実が、途端に少しだけ怖くなる。言葉を使わずともわかる能力のせいではなく、ナイトメアの瞳がいつもと様子を違えていたからだ。ぐ、と拳を握る。


「何か、あった?」
「…………すこし、な」
「話したくないならいい、なんて言わない。五月蝿いだろうと思うし、いきなり帰ってきてこんなことを言うなんて可笑しいと思うけど、でもどうして」


ナイトメアは突っ立ったまま、ふらつくこともなくぼんやりとわたしを見ている。わたしは必死に目を凝らした。彼が見えて、わたしには見えない、心の声を少しでも手に取りたくて。わたしは懸命にナイトメアの異変について、考えをめぐらす。


「どうして、そんなに傷ついてるの」


たくさんのパターンを考えていたというのに、わたしの口から出たのは直感だった。ナイトメアに外傷などなく、表情も声も常より強く感じるほどなのに、彼は全身で傷ついているような気がした。傷つけられた類のものではないとすぐにわかった。内側につく傷は、得てしておのれでつけるものだ。
ナイトメアは、眉を八の字にして弱々しく笑った。


「…………戻ってきて早々、君には驚かされるよ」
「それは、どうも」
「……………………やはり君たちは優しい」


力なく笑うナイトメアの口調が柔らかくなった。わたしはようやく合点がいく。
君たち、と口にしたナイトメアの哀愁。


「アリスと会ってたんだね」


一歩近寄り、逃げられないことを確認する。先ほどまでの彼なら、きっと突っぱねられていた。


「あぁ…………会っていた」
「わたしがお城を出るときに、ペーターが慌てていたの。アリスに何かあったみたいに見えた。…………でもそれはナイトメアじゃないでしょ?」
「…………」
「ナイトメアじゃなくて、ペーターが慌てる、アリスを害するかもしれないもの………………………………ジョーカーね」


ひとつひとつ、確認しながらわたしは問う。ナイトメアはくつくつと暗く響く笑い声を漏らして、そのまま前髪をかきあげるような仕草をした。いつもならしない、何かを振り払いたがっているような仕草だ。


「正解だよ。君は賢い。…………アリスの夢にジョーカーが現れた。だが心配する必要はないよ。あそこは私の領域で、誰にも侵食させやしない。アリスはきちんと眠っているはずだ…………今頃、白兎にでも起こされているかもしれないがね」


白ウサギに起こされるアリスを想像したのか、ナイトメアは苦笑した。
わたしはようやく常のナイトメアが戻ってきたことにほっとして、けれどその内容にぞっとした。アリスの夢に、ジョーカーが現れるだなんて予想していなかった。サーカスと重なる監獄だけではなく、彼の力の及ぶ範囲は広いのだ。怯えたわたしの頭にナイトメアの手が置かれた。


「君も、何かされたのか」
「わたしは…………ううん、わたしも守ってもらったから平気」
「騎士か…………名前に恥じない仕事はするわけだ」
「ちょっと強引だったけどね…………でも、ナイトメアだってアリスを守ってくれたんでしょう?」


見上げればすぐそこにナイトメアはいるのに、やはり瞳は知らない人のようだ。
わたしの気持ちなど知られているのだろうけど、それでも悲しくなる以外方法がなかった。アリスを守ってくれたはずのナイトメアが、なぜ傷ついているのか。


「ナイトメアは優しいよ」
…………私は君たちほど優しくは」
「あなたが何と言おうと、ナイトメアは優しい」


遮って、にらみつけた。まるで癇癪を起こして泣き出す子どものように必死な顔をしていたと思う。


「ナイトメアは優しくて、いつも情けなくて、ごく稀に上司らしい態度をとってくれる人だよ」
「いや、…………? 後半部分がまったくフォローになっていないんだが」
「当たり前でしょ。フォローしようなんて思ってない。わたしは、事実を述べてるの」


これらは事実だ。わたしがこの世界に落ちてきたとき、二人目の友人になってくれたナイトメアは少し不思議なところもあったけれど優しい人だった。すぐ吐血するし病弱なくせに医者嫌いな、毛布に包まっているのが一番好きという蓑虫だけれど、それでも。


…………もう落ち込みようがないところまで来てるんだが」


人の考えを勝手に読んでおきながら勝手に傷つくナイトメア。わたしは睨みつけたままの目を瞑って、深呼吸をしたあとに開いた。そうして目の前にあった彼の胴部分におもむろに抱きつく。


?!」
「それでもあなたは優しいよ、ナイトメア」
「………」
「ジョーカーをどんな方法で追い払ったとしても」


アリスの前でどんなふうにジョーカーを撃退したのかはわからない。わからないが多分、ナイトメアが傷ついているのはそこだ。以前にジョーカーが言ったようにこの世界の住人は大なり小なりわたしとアリスにいい部分だけを見せようとしてくれる。後ろ暗い部分を隠そうとしてくれる。それは好意があってこその行動だから、こうやって晒してしまったときに傷つくのだ。わたしとアリスがいくら言い募っても、そればかりは癒せない。
ナイトメアはいくらか体を固くして、それでもわたしが辛抱強く離れないでいるとゆっくり背中に手を回してくれた。グレイとは違う強さの、少しばかり細い指先の感触。


「ホントに、君は賢い」


そうして観念したように、わたしの右耳の上でつぶやく。いつもの情けないナイトメアだ。わたしは自然に笑顔になって、ナイトメアの胸でくすくす笑う。


「賢いの前に、ずる、をつけてよ」

「ん?」
「おかえり」


右耳の上で囁く声は、驚くほど低く心地いい。
わたしは充分間を開けてたっぷりナイトメアの「おかえり」を取り込んでから答えた。


「ただいま、ナイトメア」


わたしとアリスを守ってくれる優しい夢魔のもとに、わたしは帰ってきた。

















応しい言葉がないから他の言葉を尽くす



(10.04.04)