クローバーの塔の廊下は広く冷たい。冬だからかもしれないけれど、人の往来もまばらだ。ナイトメアの部下はほとんどが男性で、たまに女性も見かけるがほとんど雑務に追われているようだった。ここの男性は家事全般も器用にこなすのでメイドなど必要ない。だからメイドがいるのは本当に、細々とした女性にしかわからない類の気遣いのためだ。例えばわたしの部屋の掃除担当は、もちろん自身でもやるがメイドが担当になっている。かつかつと廊下を歩きながら、先ほど部屋を掃除させてくださいと訪れたメイドを思い出した。クローバーの塔に住みだしてからずっと顔をあわせているメイドだ。よく気がつくし、働き者の素晴らしい女性。しかしいくらたっても、どんなに言葉をあわせても、わたしには彼女の個性らしい個性を見つけることは出来ない。 いつだってそうだ。わたしは思い、足取りをゆるめる。 時計塔はもとより、この世界を点々としたわたしはどこへ行っても顔なしと呼ばれる人々への可能性を見出せない。アリスの言うように個性を見つけ出せず、総じて彼女たちとの会話はすべて鼓膜の薄い膜をすべっていく。脳が勝手に必要ない、と遮断してしまっている。 それは多分悲しいことだ。わたしが元の世界にいたとき、無関心は恐怖だった。価値のないものとして扱われることが、どれだけ人を傷つけるか。 「…………でも、今はわたしがそれをしてる」 アリスのように優しくはなれない。彼女にとって、彼らはすべて同じ価値なのだ。わたしにとっては比重が違うように、アリスにとって顔なしの彼らにも意味がある。アリスにとってはどんな時間も大切であったけれど、わたしにとっては等しく無意味だった。意味が欲しくてたまらずに、叫ぶように暮らしていたあの頃をよく覚えている。 廊下を歩き、塔の中央階段を降りる。そのまま外に出るための門をくぐれば、まぶしい日差しが目に飛び込んできた。同時に首元にひやりとした冷気を感じる。コートの襟をあわせながら、小さく身震いした。部屋の掃除の邪魔になるつもりはなかったのでコートを着て出て正解だった。にぎやかな町の中に繰り出せば、あのころと何ら変わらない無価値な自分を見つけられそうだ。同じ方向に歩く人々の中で、わたしを見つけられる人などいないと信じていた。 クローバーの塔のお膝元では、今日も市場や店が活気づいている。 戻ってきてからユリウスとは一度も会話らしい会話をしていない。もちろん会って話さなければと思うのだが、どうしてもグレイが許してくれなかった。わたしが出ていったのはすべてユリウスの責任だと思っているらしい彼は、けれどわたしがいくら誤解を解こうとしたところで受け入れてはくれない。一度など廊下でユリウスと出くわし、チャンスとばかりに声をかけようとしたわたしは、次の瞬間がっちりとグレイに腕を掴まれていた。そのときすでにユリウスはこちらに気付いていたし、グレイに戸惑うわたしの姿も捉えていたはずだった。 『奇遇だな、時計屋』 『…………トカゲ』 『前にも言ったが、いくらがお前を許そうと俺は許さない。彼女を傷つけることしかできないお前を』 『…………』 ユリウスは何も返答しなかった。わたしもただ黙ってグレイの顔を見つめていた。 結局のところ、グレイはわたしに対して過保護すぎるのかもしれない。確かにわたしが出て行った理由の発端はユリウスだ。けれどそれがすべてではない。すべてと言うのなら、エイプリルシーズンがその元凶と言っていい。寒さに身震いして起きた朝、すべてがわたしの中で色を変えた。 雑踏を抜け、森に向かって歩き出したのはそのときだった。決めていたわけではない。塔に戻った日、ひどく心配そうにナイトメアは森にだけは気をつけろと言った。特にジョーカーの森だけは。あのときのナイトメアは確かに何かを隠していたのだが、どうしても彼の心配はわたしへではなく主にアリスに注がれているように思えた。だからこうやって森に出向いても、不思議に罪悪感はない。 「…………変わる」 森を歩き続け、周囲にサーカス特有の遊戯の数々を見始めたときそれは起きた。もう怖がることすらない、それは変化だ。まるでエレベーターで新たな階に着いたときのような感覚。まばたきの間に、違う世界が広がっている。鉄色の薄暗い監獄に行きたいと望んだ覚えが今回も全くないはずなのだが、それでもそこは監獄で錠がじゃらじゃらと付けられた肌寒い世界だった。 一歩踏み出しうんざりしたが、それでも今日は勝手が違った。人の声がしたのだ。 『姉さんを解放して。姉さんは悪いことなんかしてないわ』 アリス? 監獄で、聞いてはいけない人の声を聞いた。わたしは声がした方に急いで体を向ける。慎重に歩を進め、覗いた先にいたのはひとつの牢屋の前で話す影がふたつ。看守服と水色のエプロンドレスの後姿だ。アリスとジョーカー。 『そうだね、君のお姉さんは悪いことをしていないのかもしれない』 笑みを含んだ、けれどぞっとするほど感情の篭らない声。わたしは身震いして、ジョーカーを見る。あれはピエロのジョーカーだ。口ぶりはもとより、あのいけすかない感じがすべてを物語っている。 アリスが心持ち顔を傾けてジョーカーを睨んだ。背の低いアリスはそれでも威圧感などない。二人の影が邪魔なせいで牢屋の中身は中々見えないが、先ほどの話しからしてアリスのお姉さんがいるのだろう。 『そうよ。冤罪だわ』 『でもここに入ってる。悪いことをした、悪い時間だ』 『違うって言ってるでしょう。冤罪なのよ』 『うーん。そうだね。悪いことをした時間の中にはいいものが混じってることもある』 『姉さんは悪いことなんてしてないわ。わかったら、さっさと出して』 『それは俺の権限じゃないよ。鍵もない』 『あなたここの所長なんでしょう?』 『そうだよ、この監獄の所長だ。だけどねアリス、俺が裁くわけじゃないんだよ。罪を罪たらしめるのはいつだって――――――』 ジョーカーの歌うような台詞の合間に、牢獄にちらりと影を見つけた。その姿に一瞬悲鳴を上げそうになる。アリスやジョーカーがそれについて話していることなどわかっていたというのに、そこにいたのは違うものに見えたのだ。 「―――――……!!」 「喋るな」 悲鳴をあげそうになった口を突然後ろから伸びてきた手に塞がれた。わたしは驚いて体を硬直させる。びくりと跳ねた体を支えるようにしてもう一本の腕が胴に巻きつき、耳元に吐息がかかる。男性だ、と体格差でわかった。 「驚くな、落ち着け…………よぉく見ろ」 わたしを羽交い絞めにしている男はまっすぐに体制を立て直す。わたしは直立したままアリスたちの奥にある牢屋を見つめた。口を塞がれているせいで息がしづらい。目を凝らすとそこに、紫のドレスがちらりと見えた。そうして、見たこともない優しそうな風貌の女性の姿も。わたしは見たものの違いに余計に混乱しそうになったけれど、今度は悲鳴をあげなかった。がっちりと掴まれた腕から、ゆるゆると力が抜ける。 「あれはアリスの姉なんだと。…………わかったら絶対喋るな。お前が来てるってわかったら、奴がうるせぇ」 「…………」 「んな目で見るなよ。場所、移動するぞ」 首を捻って見上げた先、いたのはやはりジョーカーだった。いつもの看守服に身を包んだ、口の悪い彼だ。ピエロの方ではなくて安心したが、アリスの隣にいるジョーカーは身じろぎさえしない。アリスにしか興味がないのか、それとも本当にわたしに気付かないのか真意はわからない。 わたしは羽交い絞めにされたまま、まばたきの間にまた移動させられた。視線の先にはもう誰も居ない。おもちゃの転がる広い監獄だ。 口を塞いでいた手が離れ、胴に回った腕から解放されるとようやく自由になった。 「ジョーカー」 振り返れば彼はそれ以上離れておらず、だからとても近い場所にいる。看守姿のジョーカーは答えない。わたしの会いたかったジョーカーだった。けれどあれだけ会いたくて堪らなかったはずなのに、わたしは笑顔になどなれない。見たものも聞いたものも、もうすでになかったことにはできなかった。 ジョーカーは眉間に皺をよせ、大仰にため息をついたあと、頭を掻く。 「めんどくせぇ奴だな」 「…………でも」 「見たことを忘れろとは言わねぇよ。だがな、それを知ってどうする? でめぇの真実はあの嬢ちゃんとは違うだろ」 「わたしとアリスの…………真実」 「そうだ。自分の目で見て、理解して、考え出したもんを真実だとするなら、お前が何か言ってやるのはお節介だ」 「…………」 「時計屋のせいで、てめぇは知らなくてもいいことばかりわかってやがる」 知らなくてもいいことを、知っているとは違う「わかっている」と形容するジョーカーは言葉を正しく使う。知っているのとわかっているのとでは天と地ほども違うのだ。わたしはアリスが気付いているかもしれないものを理解していた。なにしろ随分時間があったのだ。ビバルディが主催のハートの国で、わたしはユリウスに何でも教えてもらえた。もちろん彼は口下手で、そう簡単に説明してくれなかったけれどいつか帰る余所者に教えていけないものなどない、と言った口調で語ってくれた。それから引っ越しがあり、エイプリルシーズンが始まるまでたくさんの時間があった。知りえたものを理解に昇華させるに足る時間。 「ピエロのジョーカーより、あなたはずっと優しいんだね」 きっと嫌な顔をされるだろうと思ったが、ジョーカーは鼻を鳴らしただけだった。 「てめぇも大概狂ってるな…………。あぁ、そうだ。アリスのやつ俺たちに名前をつけやがったんだぜ?」 「へぇ、なんて」 「アイツがホワイトで、俺様はブラック…………。同じ顔で同じ名前じゃ、まぎらわしいってよ」 「あなたがブラック?」 らしすぎて笑ってしまう。くすくす笑うわたしは、けれど心に張り付いたままの映像をしっかりと焼き付けていた。アリスの肩越しに見つけた牢屋の中に、確かにいたもの。ジョーカーがよく見ろと言ってからそれはアリスの姉になったけれど、わたしは信じなかった。 けれどジョーカーが言ってやるなというのもまた、そのとおりだ。 「ブラックさん、て呼ぶべき?」 「色分けすんなよ。呼ばれたって返事なんてしねぇぞ」 「そうだね。ジョーカーはジョーカーだもの」 くすくす笑いながら、ジョーカーに尋ねるべきかどうか悩む。ピエロのジョーカーが語っていたもの、アリスの尋ねた監獄の意味、そしてわたしの「知っていること」。いつかサーカスは恩赦だとジョーカーは言っていたけれど、アリスのお姉さんがここに居ることと、関係はあるのだろうか。 「…………、か?」 かつん。石畳を蹴る音と共に、ジョーカーではない声がわたしを呼ぶ。振り返ればそこに居たのはユリウスだった。監獄の鉄格子が沢山並ぶ中に、不似合いな藍色の髪が良く映えている。わたしの頭上でジョーカーが舌打ちした。 「チッ…………まぁだ居やがったのか。仕事の要件は済んだろ、時計屋」 さっさと出て行けと言わんばかりの調子で、ジョーカーは吐き捨てる。不機嫌になったことは明白だった。対するユリウスは困惑気味に眉を潜めていた。 「言われなくともすぐに戻る。…………それよりも、お前はなぜここにいるんだ」 「えぇと………な、なんとなく?」 「しょっちゅう来るよなぁ? アリスよりは少ないが、なんとなく来ちまう程度には」 意地悪な声と同時に、親しげに肩に腕が回された。わたしはジョーカーを睨みつけるが、にやにやと笑われるだけだ。 「そんなに頻繁にやってきているのか……!」 「あぁ? だったらなんだよ。コイツがここに来るのは間違いなんかじゃねぇだろ。迷って迷って、最後にはぶち込まれる。お優しい人間の末路なんてそんなもんだ」 「…………ジョーカー」 「それに迷った挙句に入らねぇ方が問題だろ。極悪人は処刑人の手にかかるのが定石――――――」 「ジョーカー!」 台詞を遮ったユリウスの顔は、いつになく真剣みを帯びている。わたしは肩に回された腕から解放されようともがくが、どうにもはずすことができない。 「を解放しろ。…………今は、私が戻す」 「戻す? いったいどこにだよ。お優しい夢魔やトカゲの元へか」 「そうだ」 「…………はっ。笑わせやがる。騎士の方がよっぽど潔いぜ」 突然力が加えられ、肩にあった腕を腰に回され抱き寄せられた。わたしはされるままにジョーカーに向き合うような形になる。顎を捕まえられ、喉がのけぞり、目の前にはジョーカーの顔。 「言ってみろよ。お前はどこに帰るんだ? 誰が好きで、誰が嫌いなんだよ」 楽しげな口調は、まるで玩具を蹴っているときのようにリズミカルに鼓膜に響いた。わたしはジョーカーの瞳に自分が映っているのを見る。 「!」 「動くな」 顎を支えていた手が一瞬離れ、信じられないスピードでナイフが投げつけられた。ユリウスの足元に何本ものナイフが突き刺さる。牽制のつもりかもしれないが、あきらかに強いのはジョーカーだった。 「黙って見てろよ。俺は弱ぇやつが嫌いだ」 「…………くっ」 手品のようにナイフを出したりしまったりして見せてから、ゆっくりとジョーカーがわたしに向き直る。ひどく酷薄な瞳だった。遊んでいるのではなく、乱暴に向き合っているのだ。彼なりに。 それでもわたしは、その瞳に見合う言葉が見つからない。 「わたしは…………嫌いな人なんていない」 わたしの語れる精一杯の真実だった。どこに戻るのかエースには言えたはずだし、戻るべき場所ならそれしかないのに、口から出たのは曖昧で不確かすぎる軟弱なものだ。ジョーカーが求める答えではないことなどわかっていた。 けれどナイフが飛んでくることすら覚悟したのに、ジョーカーは何もしなかった。ただ白々しく笑っただけだ。嗤われた、とわたしは反射的に恥ずかしくなる。 「いいことを教えてやるよ」 歪めた唇から吐息が漏れる。抱かれた腕に力が込められ、わたしはジョーカーと重なった。ぴたりとくっついたせいでわたしはジョーカーの肩に顔をうずめる形になる。耳元にひそやかで不穏な声が響く。 「嫌いなやつがいねぇっていうのはな…………誰も好きじゃねぇってことだ」 くつりと喉を震わして笑った音を最後に、ジョーカーはわたしから離れる。そのまま監獄の闇に溶けるように彼は消えた。わたしは力が抜けていき、その場に膝をつく。冷たい石畳は太陽を知らない温度だった。 まばたきすらせずにジョーカーの居た場所を見つめるわたしの腕にも腰にも彼の温度はしっかりと残っている。それなのに、すべてが遠い気がした。どうして誰も彼もがひとりを選べとばかりに尋ねかけるのだろう。わたしは選べやしないのに、どうして問いかけるのだろう。 「」 ユリウスが傍まで来てくれたのはわかったけれど、わたしは視線を逸らせない。ジョーカーの消えてしまった監獄を見つめ、どうしても動き出せない。体が意識を外れたように動かせず、かといって反論の声も出ない。反論できないのはもちろん彼の言うことが正しいからだ。 嫌いな人などいなかった。でも特別な人がいるわけではない。そして多分、皆を一律に好きだと言い切れるものもわたしにはないのだ。顔なしの人々に個性を見出せないのは、だからそれが理由だった。 誰か一人を選ばないのではなく、選べないだなんて知りたくなかった。 |
罰と報いを呑んで絶望に咲く
(10.04.04)