知っていたと言えば嘘になるけれど、わたしはそれについて薄々感づいていた。 この世界に落ちてきたとき、わたしはただのひとりきりだった。あまりにも孤独で心細かったし、周囲のすべてが敵のように見えた。もちろんユリウスだってそうだ。彼はわたしに憤慨していたし、表情にはありありと不快感をあらわしていた。わたしはその顔にいつものように怯えた。元の世界でそうされることがあれば、わたしはいつだって子羊のように口を噤み必死に相手が去るのを待つ。苦しみには耐えることがすべてだった。 それなのに、時計塔の屋上でひとり取り残されてユリウスに言われたように「帰りたい」と望んでいたあのとき、わたしは全く別のものに心を奪われていた。 ―――――――――自由。 元の世界の人間関係や社会的な地位、その他もろもろの雑多なしがらみから解放されたわたしはあまりにも自由だった。自由を持て余し、頭のてっぺんからつま先まで正しく自由に浸かっていた。五感のすべてがここはわたしのいるべき世界ではないと告げるのが心地よかった。だとすればもう、わたしには思い悩むものがないのだ。 元の世界で、確かにわたしは普通の生活を送っていた。アリスのように母は亡くなっておらず、父は程々に家庭を思いやる常識人で、友人も気のいい人たちばかりだ。特段の不自由を感じたことはなかった。苛められたことなどなく、ましてや苛めた経験などありはしなかった。仕事を持っていたのでお金は充分もらっていたのだし、だから社会的に適合できなかったわけでもない。 ―――――――――じゃあ、何が不満だった? 不満。わたしは会社に向かう人の群れの中でいつだって不満ばかりを抱いていた。学校では教室にいる間中苛々していた時期さえある。時折情緒不安定になり泣き崩れたが、それも自室でだけだ。わたしの苛立ちは外に向かっていかなかった。なぜならば、わたしの苛立ちは外そのものだったから。 『嫌いなやつがいねぇっていうのはな…………誰も好きじゃねぇってことだ』 どれもこれも適当にこなしていたのは、わたしの中に愛着がわかなかったからだ。割り切っていられたのはその為だった。わたしはいつだって八方美人で誰にだって言い顔をして、それを上手にやりくりしていた。自分でも気づかないほど巧妙に隠し、誰にも興味がないことを隠し通していた。 顔なしと呼ばれる人々の顔がいつまでたっても見えないわけだ。わたしは彼らに対して、まったく興味がない。 「…………ほら」 焦点の合わない瞳の前に、突然白いものが差し出された。湯気のたつマグカップだ、と認識するのと同時にわたしはそれを受け取っていた。指先に熱が集中する。わたしは自分がユリウスの作業場にある暖炉の前で座り込んでいるのをぼんやりと他人事のように考えた。絨毯の毛はふかふかと温かく、ここは安全であるとわかるのにどうしても心が帰ってこない。せっかくユリウスが監獄から連れ出してくれたというのに、わたしはお礼の一言も言っていやしない。 マグカップはぽってりと厚く、覗くと珈琲ではないとろりとした液体が入っていた。チョコレート色に近いそれはふわりと甘く香る。 「ココアだ。温まるぞ」 自分は作業場の机に座りながらユリウスが説明してくれる。テジャヴュだ。帰れなかったわたしを作業場まで抱えてくれたユリウスが最初に与えてくれたものもココアだった。泣き腫らした赤い目のまま、わたしはココアを啜っていた。あのときどうして時計塔に住まわしてくれる気になったのかはわからなかったけれど、ユリウスはそれ以上わたしを拒絶しなかった。不機嫌だった男の元でココアを啜りながら、その不可思議さに意識を奪われた。ユリウスは今のように珈琲を飲みながら、奇妙な動物を観察するかのようにわたしを見つめていた。 「…………ジョーカーのことは、気にするな」 ココアに口をつけないわたしに、静かにユリウスが言う。優しいのに助言をし慣れていないユリウスの、こういう不器用さは好きだ。わたしが悩んでいることも沈んでいることもわかっているのに、ではどうすれば改善されるかを考えたことのない彼はいつも斜め上の回答をしてくれる。もちろん慰めが的を射ていることもあるのだが、確率的にとても低い。 気にしないわけにはいかない。なにしろジョーカーは、わたしに語りかけていた。力なく首を振ると、ユリウスは舌打ちせんばかりに苦々しい顔つきになる。 「あまり知りすぎるな…………捕らわれるぞ」 「ジョーカーは、捕らわれる方がいいことのように言ってた」 「それはアイツラの見解だ」 「監獄の所長の?」 「そうだ…………アイツラが収監しているのはお前の考えている犯罪者なんかじゃない。もっと不気味で生々しい………見なくていいものだ」 「でも、わたしを捕らえなくともアリスは捕らわれる」 マグカップを握ったまま、わたしは椅子に座るユリウスを見上げる。 「ユリウスに会う前に、アリスを見たの。ピエロのジョーカーと一緒だった」 「…………アリスが?」 「そう。捕らわれるならアリスの方。…………わたしは、おまけにもならないんじゃないかな」 眉を落として苦笑したのに、ひどく卑屈だと感じる。それでも笑ってしまったものは取り返せない。視線を落としたままのわたしから、すいとマグカップが抜き取られた。奪われたカップを追うように視線を上げれば、ユリウスがとても近い。カップをテーブルの上に避難させ、ユリウスは険しい表情でわたしに向き直る。 「なぜお前はそうなんだ。問題になるのは他の人間だと思い込んでいる」 「だって…………わたしは、特別じゃないし」 「特別だ。現にジョーカーはお前にちょっかいを出してきているだろう」 「…………」 特別。ユリウスに言い切られて居心地が悪くなる。わたしには不似合いな言葉だ。 「特別じゃないからサーカスに近づいても大丈夫だと思ったのか? 狙われているのはアリスだから心配ないと? …………馬鹿を言うんじゃない」 肩肘をついたまま話すユリウスの視線は少しだけ高い。わたしは子供みたいにじっとして、彼を見上げていた。聞き分けのいい顔をして、その実ひとつも耳には入ってきていないように感じた。ユリウスはいつだって、間違いのない解答をくれる。彼は真実を所有しているから、どうしたって人の間違いに目が行くのだろう。 蒼くて冷たい瞳は、いつのまにか熱がこもっていた。 「お前は特別だ。でなければとっくに死んでる」 「………なにそれ」 「首を刎ねるのが趣味の女王や紅茶狂いのマフィアのボスと付き合っているのに命があるのはお前やアリスだけだろう。猫やネズミだってこの世界じゃあ大人しくなんてない。お前がここにいること自体、奇跡みたいなものだ」 生きている、こと。熱弁をふるうユリウスとは対照的にわたしの気分は落ち込む一方だ。生きていることのどこに意味があるのだろう。わたしはここにいて、確かに自由かもしれないけれど誰にも価値を見出せないなんて、嘆きようがない。 それにもうわかっていた。わたしがどうしてこんなにも落ち込んでいるのか。 「ねぇ、ユリウス。わたし、ジョーカーに言われたことが図星すぎて言葉にならなかった」 「ジョーカー?」 「うん。………ナイトメアの部下の人たちだって、ずいぶん一緒にいるのにわたしには顔が見えない。それで差し障りはないの」 「………」 「でも悔しいのはそこじゃなくて、わたしは………」 言ってしまえばもう後戻りはできないだろう。頭の隅で考えながら、それでも苦しげに言葉にするわたしは愚かだ。救いようがない。ユリウスは優しくていつだってわたしを許すけれど、彼がまたひとりの人間であることにも変わりはないのだ。自分をあらん限りの優しさで包んでくれる、まるで神様みたいな存在に憧れていたとしてもそれは彼ではない。そんな存在がどこかに居るかもしれないと、夢想していた自分が嫌いだった。 見上げればユリウスが、わたしをじっと見つめている。こんなふうに誰かと目を見つめあったことがあるだろうか。元の世界で、こんなふうに正面から向き合ったことなどない。両親以外で自分のことをこれほどまでに考えてくれる人に出会ったのも初めてだ。 でもきっと、この人にも嫌われるのだろう。わたしは絶望的に笑った。 「わたしは、誰にも興味がないくせに自分ばかり特別だと思ってほしかったの」 見出して欲しかった。何億人もいる人間の中で迷わずに捕らえてくれる腕を渇望していた。自由であることが鎖になり、捕まえられることに喜びを求めていたなんて可笑しな話だ。でもそれですべてつじつまは合う。あってしまう。 特別だと思われたいと願うことに引け目なんてない。けれどわたしの場合、他人に興味がなかったのだ。それに気付かされたことが悲しかった。アリスやビバルディは大切だと思うし、役持ちのみんなも大事な友人だと感じるけれど、それは手を伸ばしてくれたからで、彼らがはじめから他とは違う特別だという目印をつけていてくれたからに他ならない。 「馬鹿みたい………からっぽなのはわたしの方なのに」 同属嫌悪だったのだろうか。顔なしのひとりひとりに自分を重ねて、だから相容れなかった。上っ面では笑えていたし会話だって弾むのに、いつもわたしは視線を彷徨わせていた。だって彼らのどこを見て話をしたらいいのかわからなかった。瞳を見て、話すことができない。 ユリウスは眉を潜め、耐えるように眉間に皺を刻んだ。 「…………なぜ、お前がそこまで迷う必要があるんだ。お前はこの塔でなにより大切にされていたはずだろう」 「……………………ユリウス?」 「どこで間違ったんだ。お前の真実を、どうしてそこまで捻じ曲げられた」 わたしの真実。ユリウスはいつだって念じるように言い聞かせていた。この世界を捨てるつもりなら絆されるな、決して染まるな、長く留まれば帰られなくなる。それらを真実だとするのなら、今のわたしはひどく歪んでいるだろう。この世界に留まることを決意した時点で、わたしは曲がってしまった。 大切なものは確かにあるのに、本当は心に大きな穴を抱えていましたなんて笑えない真実だ。 けれどどうしてユリウスがそんなに辛そうな顔をするのだろう。まるで裏切られたかのかのような顔をして、わたしのことを見るのだろう。わたしの心をずっと持っていてくれたのなら少しはわたしのことを知っていてくれてもいいのに。 ユリウスはもどかしげに、わたしの手を取った。 「惑わされるな。ジョーカーに捕まるなら、元の世界に戻った方がよほどマシだ」 「マシって………」 「元の世界なら諦められた。だがジョーカーに捕まれば…………私はお前を」 憎々しげに低く声を落とし、険しくさせた瞳のまま、ユリウスはわたしを見た。 「ルールを破っても、連れ戻す」 連れ戻す? わたしはただ目を見開き一度もまばたきすらさせずにユリウスを見上げた。手を取られているから、彼の体温もわたしの体温もきっちりとわかるのにそこにはどうしようもない隔たりがあった。それは例えるのなら一段ずれて立っている階段のようで、薄いガラスを挟んでいるような、近いくせに途方もなくずれてしまった何かだった。ユリウスには見えていない、わたしとの間に横たわる思い沈殿物。 「元の世界なら諦められた?」 わたしはずれてしまった一つ一つに片をつけようと試みる。ユリウスの手は機械をいじっているせいで硬く、ふしくれだっていた。ざらりとした感触の手はいつも見ていたくせにひどく懐かしい。 時間と記憶と感覚が麻痺している。わたしは唐突に笑いたくなり、喉の奥でひきつけみたいに笑った。 「何を諦めるっていうの。………わたしを最初にひとりにしたのは、あなたなのに」 ひとりにして放り出して、生きて行けと無言で命令したのはあなたなのに。 何も言わずにいなくなったのはどちらだ。引越しのことだって知っていたはずで、もちろんこちらの住人には日常茶飯事のことかもしれないけれどわたしが混乱することくらい予想していたはずだ。ユリウスは思慮深く、余所者に優しかった。それなのに放り出しておいて、今更なにを言っているのだろう。諦められたのはわたしだし、だからわたしだって捨てていかなくてはならなかった。この世界を捨てる覚悟を、引越しと一緒に選択させられたのはわたしの方だった。 ユリウスはわたしを見ている。困った顔も苦しげな顔もしていなかった。わたしはもはや体中から力が抜け、同時に心の裏側にべったりと張り付いた負の感情に押しつぶされそうになっていた。もう笑い声はでず、喉はカラカラに渇いており、それなのに視界がいっきに歪んでいくのがわかった。 「最初に………」 言ってはいけないと誰かが叫んだ。たぶん、わたしの最後の良心だったと思う。でもすでに心の一部は死んでいて、使い物にならなかった。わたしとユリウスは今、手をつなぎあっているのに斬りつけあっている様なものだ。お互いがお互いを、傷つけることしか出来ない。 「最初に捨てられたのは、わたしだった」 自分の声とは思えないほど低く漏れた音は、監獄で聞いたジョーカーのものとそっくりだった。 |
憐れな遺物
(10.04.04)