ざくざくと落ち葉を踏みしめながら歩くと、まるで自分がからっぽになったような錯覚に陥るときがある。足元を見つめながら周囲があまりにも無防備に感じ、そうしていることで自分がひどく幼く思える。ざくざくと歩くことだけに集中すると、自分を失って遠くに意識が移行してしまう。 けれど意識を手放して落ち葉踏みに溺れてしまえるほどこのワンダーランドは平和ではない。アリスはふと顔をあげ、もうすでに目の前に迫っている素晴らしい門扉を見た。ここいらでは知らぬものがいない、帽子屋屋敷の門前。サボリ魔の双子はいないが、アリスは構わず中に入った。はじめのころはそれでも躊躇したけれどアリスがいくら恐縮したところで彼らはけろりとしているので、もうやめていた。 「あら〜アリス様じゃあないですか〜」 「あ〜〜ほんとうだ〜」 間延びした男女の声。アリスは庭の中央に据えられた噴水の前で帽子屋屋敷の構成員に出会った。目を凝らせばなんとか表情らしきものが窺える。何度か話をしたことがある二人だ。 アリスはにこりと笑って、ふたりに向き直る。 「こんにちは。今は仕事中?」 「仕事〜といえば、仕事ですかね〜」 「休憩中なんですけど〜、ほら〜、門番がいなかったでしょう〜?」 ふたりの間延びした声を要約すると双子たちは今日も仲良くエスケープに精を出しており、説教役のエリオットが飛び出してしまったのでとりあえず侵入者のチェックくらいはしなければと思って出てきたのだがダルくなったので噴水の前で止まってしまったということだった。聞きながらアリスはなんとなくこのお屋敷がなぜ無事なのか疑問に思う。こんなにもやる気のない使用人ばかりでどうして、この屋敷を潰そうというほかの勢力が現れないのだろう。 けれど考えて見たら使用人や雇用主の性格が破綻しているのは何もここばかりではない。どんぐりの背比べか、とアリスは心の中でため息をつく。 「それで〜今日はどなたにご用事なんですか〜?」 「あいにく〜誰もいらっしゃらないんですよ〜」 「あぁ、いいのいいの。今日はあなた達に用事なのよ」 アリスは人好きするように笑って、きょとんとしたふたりに質問をした。 「ねぇ、あなた達から見てはどうかしら?」 自分でも大雑把すぎる質問だとは思う。意味がわからないと返事をされても仕方がない問いだ。けれど聞きたいことはやはり、その一言なのでどうにも説明しようがない。 メイドと使用人のふたりは数秒じっとアリスを見つめたあと、今度はお互いの顔を見合ってから唸る。 「どう、と言うのは思ったままでいいんですかね〜」 「様のことを、私達がどう思ってるか〜」 「うん、そう。そんな感じでいいわ」 「…………う〜ん。そうですね〜。やっぱり特別だと思いますよ〜。俺たちはボスみたいに余所者ってすぐにわかるわけじゃないですけど〜、接してれば感じますから〜」 「そうよね〜。特別でちょっと不安定で〜、けどまっすぐで〜」 「俺たちにもちゃんと挨拶してくれて〜」 「抜けているところもあるけど、可愛らしい方で〜」 つらつらと上げられるの美点たち。アリスは聞いている内にだんだんと同意したくなる。そうよね、と話の腰を折って熱弁したくなるのをぐっと堪えた。 「あ〜そういえば〜、ちょっと前まで俺たちの間では誰がお相手かって話題になってたんですよ〜」 「相手?」 「ボスたちには内緒ですよ〜? 様が誰と結ばれるかって話です〜」 くすくす笑うメイドは、そのときだけ年相応に見えた気がした。三人は心持ち近寄りながら、庭のど真ん中だというのにひそひそ声になる。 「ボスもエリオット様も様を気に入ってましたし〜門番のお二方も大人の姿にまでなって本気って感じだったでしょう〜?」 「そうね。うん…………ディーとダムの様変わりには驚いたもの」 「でしょう〜? 子どもの姿が気に入ってらっしゃいますし〜。それを曲げてまでつりあうようになりたかったんじゃないですかね〜」 「ボスだって〜エリオット様の好物が並ぶお茶会に参加されていたわよね〜。様はオレンジ色のお菓子ばかり作られるから〜」 「だよな〜。俺たちはいつ爆発されるかびくびくしてたけど〜」 「エリオット様はわかりやすいくらい懐いていらっしゃるし〜」 これだけへの好意が筒抜けでいいのだろうか、とアリスは若干疑問に思う。だがこれもまた自分自身に置き換えるとペーターはすべてにおいてこんなものの比ではなかった事実に思い当たるので何も言えない。 「ですから〜、ボスと一緒になっていただけたら丸く収まりますよね〜」 「そうそう〜。双子とエリオット様だと決闘になっちゃうだろうし〜」 「ボスなら誰も文句ないですよ〜。それに様のドレスコード、かっこよかったですしね〜。姐さんて感じで〜」 言うと思い出したのか二人が顔を見合わせて頷く。アリスも覚えている、クローバーの塔で開催された会合では確かに美しかった。肩を大きく開けた漆黒のドレス、頭に飾られた大輪の薔薇、細く頼りないピンヒールで歩くはブラッドの隣でもさまになっていた。そうやって黙っていると冷たい印象さえ覚えたの瞳は、なるほどマフィアの女性だといわれても納得できただろう。 「そう。…………ありがとう。質問に答えてくれて」 「いえいえ〜、でもいきなりどうされたんですか〜?」 「まさかまた様の具合でも〜?」 やっぱりクローバーの塔なんかじゃなくて帽子屋屋敷に来ていただきましょうか〜と間延びした声のまま武器を取り出そうとするふたりを両手で制して、アリスは慌てて説明した。 「違うのよ。ただ聞いてみたかったの。はここでどんな風だったか」 「ここで〜ですか〜?」 「そう。私の視点じゃ見つからないこともあるかもしれないと思って」 「…………よくわかりませんけど〜、でもじゃあ〜他の領地にも行かれるってことですよね〜?」 首をかしげながらメイドが指摘し、アリスは正直に頷いた。これからクローバーの塔や遊園地に回るつもりだ。もちろん先ほどの「どう」を尋ねるためだけに。メイドはあまりにも簡単な問題の答えを口にするようにうっすら笑う。 「きっと同じですよ〜」 「え?」 「そうですね〜、同じだと思います〜」 使用人の男性まで微笑んでアリスにそう付け加える。 あまりにも自信に溢れた返答を尋ねるまでもなく、クローバーの塔に向かったアリスはそこでようやく「同じ」意味がわかった。 「様ですか?…………そうですね。できればナイトメア様と一緒になっていただければと思いますが」 寒さに震えそうになるクローバーの塔の、談話室で休憩中だった男性を捕まえて尋ねるとさほど考えもせずにそう答えられた。なぜ、と重ねて問うと今度は隣の同僚らしい男性が答える。 「いや、様はすごいですよ。あのナイトメア様を一時とは言え病院に連れて行ってくださったんですから」 「グレイ様がいくら宥めすかしても行かないの一点張りだったのに…………それにこの塔に滞在してからは付き添って通院してくださったしな」 「あれには驚きました! あのナイトメア様が注射を打たれたんですよ? 俺たちだってナイトメア様の病状が回復するのは嬉しいですし…………だからきっと奥方になっていただければ更にナイトメア様もやる気をだしてくださると…………」 「でも俺はグレイ様のお気持ちもないわけじゃあないと思うんだ」 「あぁ…………やっぱりナイトメア様に遠慮されてる部分もあるだろうしなぁ」 「その分、時計屋にはキツいだろ。それにグレイ様と一緒に仕事されてるのを見るとすごくお似合いなんですよね」 「うんうん…………惚れ惚れする」 男たちは互いに頷きあいながらまだ議論を白熱させている。アリスは相槌とお礼もそこそこにこっそりと談話室を抜け出した。この塔でのの役割は思ったより重大らしい。ナイトメアの看護とグレイの癒しなんて、普通の仕事より大変じゃなかろうか。 「さまっでっすかー?!」 音量を下げるかテンションを下げて欲しい。アリスは思ったが口には出さず、耐えるように笑顔をつくる。遊園地の従業員は男女ペアでチラシ配りの最中だった。仕事中呼び止めても悪いと思ったがなぜか向こうから駆け寄ってきて予定なり用事なりを問われてしまったので質問したのだ。 「楽しいかたでっすよねー! おしとやかでー、思慮深くてー!」 「そうそう! それと機転のきく方です! 様のおかげで何度オーナーの演奏から逃亡できたか!」 「オーナーが楽器を取り出す前に笑顔で違う話題にしちゃいますからね〜。私たちも見習いたいくらいです!」 「それにそれにっ追いかけっこも止めてくださいますし!」 「猫ちゃんやネズミちゃんの追いかけっこを止めるのは結構大変なんですよ〜。流れ弾にあたるし怯えたネズミちゃんに刺されそうになるしー!」 「力関係で言うとボリスさんとくっついてくださった方がいいかなぁと思うんでけどねぇ」 「でもネズミちゃんだって本気出せばそれなりに強いですしー、後ろ盾もありますしねー」 「まぁ、最良なのは遊園地に滞在してくださることなんですけど!」 ははははーっといい笑顔で言われてアリスは目眩を覚える。夏の暑さとあいまってこの威力はハンパではない。 頭痛までしそうになって立ち去ろうとしたアリスは、けれど前方から見知った人が現れたので取りやめた。夏の制服がよく似合う、アロハシャツを着たゴーランドだ。 「おぉ! アリスじゃないか! 久しぶりだな!」 「ゴーランド、そんなに久しぶりでもないと思うんだけど…………」 「いいじゃねぇか。実際白兎と来て以来だろ。そうだそうだ、新作のカキ氷味見してけ!」 暑いのによく動く人だ。ゴーランドはオーナーのくせに小間使いのように走り回り、アリスにはパラソルの下で休んでいるように指示を出した。日陰に入ると体中から力が抜けるような不思議な脱力感を覚える。日差しはじりじりと肌を焼き、世界は輝いて見えた。 「ほら! お待ちどう! トロピカルカキ氷だ!」 「わぁ、いい匂いね!」 「涼しげで見た目もいいだろ? 今度のは自信作だぜ」 目の前に差し出された鮮やかな黄色いカキ氷は魅惑的なパッションフルーツの匂いがした。両手で受け取ったアリスの指先から、ひんやりと冷たさが体に染み渡る。どっかりと隣に腰下ろしたゴーランドの手にも同じものが握られていた。しゃくしゃくしゃく、氷を崩す音も口に含んだときのひやりと震える感じもあまりに夏らしい。 「それでどうしたんだ? のことを聞いていたって話だが」 悩みなら聞くぞ、とゴーランドはカキ氷を崩しながら笑う。突然だけれどその突然さが不自然ではないのがゴーランドだ。アリスは笑って、カキ氷を見つめた。 「ちょっとわからなくなったのよ」 「…………がか?」 「そう。私はがこの世界に残ってくれて嬉しいわ。はちゃんと受け入れられて、さほど不自由もないはずでしょう? でもなんだか何かが足りないの。何かを見落としていそうなのに、私にはわからない」 「アリス…………」 「ジョーカーについてだってそう。私との感じ方はきっと違うわ」 二度目のサーカス。あの日、アリスもも迷子になった。テントを出てすぐにの姿が見えなくなり、そう思った自分も居場所を見失ってしまった。一度目のサーカスと同様にジョーカーが近くにいたからどうにかなったけれど、もうそれすらも意図的だと考えるべきだろう。サーカスの後ろに見える監獄で自分の姉を見つけてから、ジョーカーは畏怖の対象だった。 ゴーランドはしゃくしゃくとカキ氷を口に運びながら、驚くふうもなくアリスを見つめる。 「足りない何か、かぁ。だがどこのヤツラに聞いても同じだったろ? 役なしはみんなに好意的だ。アリス、あんたと同じように」 「それは…………私たちが余所者だからだわ」 「そう。余所者だから初めからきっかけは与えられてるようなもんだ。だけどアンタへの好意とへの好意は微妙に違うだろ。はアンタと違って、役なし共の顔が見えねぇからな」 「どういうこと? 私だってそんなにはっきり見えるわけじゃあ」 「見えにくいと見えない、は違うだろ」 びし、とスプーンで指し示されてアリスは言葉に詰まる。ゴーランドはいつものへらへらとした声ではなくて、まぶたに落ちた影が瞳をより一層冷たく見せている。 「は役なし共の顔が見えないくせに誰も傷つけたくないと思っちまう八方美人だ。偽善者っつー言い方もできるがしたくはねぇな。例えばアリスには酷な話だが…………白兎のやつアンタの為だったらいくらでも他のヤツラを殺すだろ」 「…………えぇ。やめてって、言ってはいるけど」 「だが奴には奴のルールがあって、それを破ったから罰を下しているに過ぎないんだ。…………そーゆうルールには敏感なんだよ。俺の部下に調べさせたがの目の前で役持ちのヤツラが誰かを殺したことはねぇはずだ」 「…………?」 「嫌だと言ったんだろ。銃を使ってもいいし危険な目にもあってほしくないが、どうかできるだけ殺さないでほしい…………つーことをそれとなくな」 俺も言われたんだ、とゴーランドは苦笑する。の育った世界は銃の規制が厳しく一般人は持ち歩くことなどできなかったという話はアリスだって聞いていた。銃声も怒号も斬り合いも、すべてにおいて不慣れだと笑った。 「怖い、なんて言われちゃあな。男は出来るだけ見せたくねぇだろ」 「そうね…………」 「だが見せていないだけだ。女王の斬首が減っても、ブラッディツインズが大人しくなっても、その反動はどっかしらに現れる。いいのかどうかはわからねぇな」 「…………でもどこの使用人の人たちも、皆が居てくれたらって言っていたわ」 「そりゃそうだろ。帽子屋の野郎はがいりゃ益々活気付くだろうし、夢魔のところはアイツ自身を包みこむ膜になりうる。役なし共にしてみりゃ、親玉が安定してるってのはやりやすい」 「そんな…………」 「もちろん利点なしにが好きだっていうのもあるだろう。だがなアリス、は時計屋と一緒にいたんだ…………知っていることは多いだろう。加えてあれだけ夢魔と一緒にいりゃあ、嫌でも自分の世界との違いも分かる」 日差しが強すぎるせいでゴーランドの表情に影が落ちる。悲しんでいるようにも見えたしつらそうにも見えた理由が、けれどアリスにはわからない。まるでペーターのようだ。知らないで居て、と強く願われたことを思い出す。 「知っていることはいけないこと?」 「いけないことじゃあねぇよ。ただなアリス、知っているから正しい道が選べるわけじゃねぇんだ。むしろ知っているから選べない道もある」 もう半分以上溶けてしまったカキ氷に視線を落とすと、ぽんと頭の上に手が置かれた。 「奥の奥、なんて知る必要のねぇことばかりだ。白兎のやつは正しい。間違っていたのはユリウスの方だと俺は思うぜ?」 「…………」 「でもこれも極論かもな…………アンタ達、余所者って括りは一緒だが状況も中身もまったく違う別人だ。いろんな答えがあってもいいんじゃねぇか」 わしゃわしゃと乱暴に撫ぜられるので髪がひどいことになってしまった。アリスは抗議の意味でゴーランドを睨む。悪い、と笑うゴーランドはもういつもの彼だった。 アリスはざわざわと感じていた胸騒ぎを押し込めるように口を開く。 「ねぇ、ゴーランド」 「ん?」 「ゴーランドは…………をどう思う?」 役持ちには聞かないつもりだった。そう括られている人には聞いてはいけない気がしたからだ。けれどゴーランドは今、アリスの聞きたいことを答えてくれたから、一縷の望みというよりは絶望を見つけるつもりでアリスは尋ねる。 「曲げられないくせに臆病な子ども」 「え?」 「固定してやらなきゃ飛んでいっちまう、そんな女に見えるんだよ」 女と言ってみたり子どもと言ってみたり、ゴーランドの答えはあやふやなくせに適格だ。 は確かに繋ぎとめていなければどこかに行ってしまいそうだった。本人の意思に関わらず、気付いたら遅かったという事態になりかねない。 すっかり水になってしまったカキ氷に写る自分の姿を見つめながら、アリスは自分との違う部分について考える。強制的ではなく偶発的に落ちてきたを羨ましく思った。は自由でなんだって選べる。ここに残ることを決めたとき、アリスのように共犯者になってくれる人は誰一人としていなかった。強いと思うと同時にアリスはその選択は自分には出来ないと思った。優しい姉を裏切る正当な理由がなければ、踏み出すことなど出来なかっただろう。 ―――――――誰かと結ばれて欲しい。 いつか、アリスだってにそう望んだ。自分たちの背負う業はひとりでは抱えきれない。もし抱えたとしても押しつぶされてしまう。何かを捨てるということは、捨てた分以上の荷物を背負い込むというほかにない。その荷物を半分、持っていてくれる他人が必要だった。 私にペーターが居てくれたように、と願うのは傲慢だろうか。 「…………アリス様?」 どうされました、と心配げに声をかけられてようやく自分が城に戻ってきていることに気付いた。ゴーランドに別れを告げて無意識のうちに戻ってきたらしい。監獄に迷い込まなくてよかった、と思う。赤と黒の衣装を着たメイドは心配そうにこちらを覗きこんでいる。 「ねぇ、突然だけどをどう思う?」 城のメイドには聞いてはいなかったので問うてみた。 メイドは決して問いの意味を聞いてこない。聞かれたものに従う思考しかない。 「様ですか? お優しいけれどきっぱりとした方、ですよね。女王陛下や皆様と仲がよろしくて…………できれば、エース様と」 「あ、ごめんそれはないわ」 急に遮って言えばメイドは頭を下げて「失礼しました」と謝罪する。アリスは自分でもあまりにも冷めた声が出たことを疑問に思いながら、けれどあの狂った騎士をと一緒にさせるのだけは駄目だと第六感が告げているのを感じていた。考えるだけでぞわりと背筋に寒気さえ走る。確かにエースはと一緒に居れば機嫌がいい。けれどそれはきっと、ユリウスもいなければいけない。 「正しくとも選べない、かぁ」 もし、とアリスは思う。もしが誰も選ばないことを正しいと考えているのなら間違いだと言おう。誰も選ばないことで均衡を保っている今を、けれど彼女だけが犠牲になるなんて間違っている。選ぶための選択肢も伸ばすための腕も持っているが、どうか幸せになれますようにとアリスは祈る。 |
しかし全ては無意味な仮定だ
(10.7.10)