白兎が正しくて、ユリウスの方が間違っていた。
ゴーランドはそう言ったものの、アリス自身が迷っていることもまた事実だと考える。アリスの場合は白兎を好いているように見えたし実際に愛し合っていると言えなくもない雰囲気だ。それならば白兎を盲目的に愛したらいい。この世界で唯一信じられるものを見つければ、なによりの真実に他ならなくなる。
さまざまなアトラクションを通りぬけ、夏の季節で大変にぎわっている場所に向かう。設営は大変だったが好評を博しているそこは、今日も人で大賑わいだ。昼の時間帯ということもあり混雑を見せている巨大プールに顔を出せば、監視員兼従業員が気付いて頭を下げてくる。


「おーい、ピアス。はどこだ?」


手近な部下に居場所を聞き、プールサイドにひとりぽつんとしゃがみ込むピアスの姿を見つけた。視線は一点に注がれ、ゴーランドに気付くと人差し指で遠くを指差す。


「あそこだよ。まだ泳いでる」
「はぁ? さっきからずっとだろ。ちゃんと休憩はとってるのか?」
「うん。声をかけると止まってくれるし、お水も飲んでるよ」


少しだけつまらなさそうに呟くピアス。視線の先でひたすらに水を掻きだすはずっとこの調子だった。突然現れたと思えばプールに入りたいと言い、水着を買うと言うので見立ててやった。あいにくボリスは夏の暑さにやられてどこかに出かけているが、ピアスが居てくれたおかげでから目を離さずにいられる。もくもくと、クロールのみでは泳いでいる。息継ぎをしながら人の少ない端を選んで、ひたすらに水を蹴る姿はまるで取り付かれているようだった。


!」


近づいてきたのを見計らって声をかけるとピアスの言うようには泳ぐのをやめた。手招きすれば抗うことなく自力であがってくる。もう随分泳いでいるはずだから当然息も絶え絶えで、ふらふらとこちらに歩み寄るのは痛々しい。
ピアスがバスタオルをにかけて座らせてやると、弱々しく微笑んだ。ありがとう。聞いているこちらが悲しくなるような声。


「…………随分泳いだみてぇだな」
「うん。…………やっぱり冬は運動不足になるみたい。疲れたけど気持ちいい」
「そりゃよかった。俺もアンタの水着姿が見られて嬉しいぜ?」
「ゴーランドとピアスの見立てがいいからだよ。こんな可愛いの、わたしじゃ見つけられないもの」


パステルカラーに彩られた花が散るビキニは、ふたりで選んだものだ。は最初灰色の地味なものを選ぼうとしていた。まるで現在の心境を表すかのような色。
ピアスは隣で悲しそうな、それでもがなぜ苦しんでいるのかわかりかねる顔をして座っている。このネズミが空気を読むだなんて高尚なことができるとは思えないので、きっと本能で察知しているのだろう。はあきらかに空元気で、笑っているくせに声が沈んでいる。
水をとってくるようピアスに言いつけると一瞬迷ったあとに走り出した。ネズミらしく人ごみを掻き分け進んでいく後姿を見送って、に向き直る。


「それでどうした? アンタがヤケを起こすなんて珍しいじゃないか」
「…………ヤケ?」
「そうだろ。夏に来るのも自粛してたってのに突然来て、延々と泳いでいたりしたら誰にでもわかる」


信用させるように笑うと、はふと表情をなくしてこちらを見た。うっすらと空虚な、からっぽの瞳のなかに確信的な何かを秘めていた。ゴーランドは背筋が震えるのを自覚する。
は自分を包むバスタオルの温かさを確かめるように握った。


「ゴーランド、この世界は可笑しい」


そうしてぽつりと、まるで諦めたように呟いた。ゴーランドは肩を竦める。


「あぁ。この世界はあんたの世界と違って狂ってるからな」
「違うよ。そういうことじゃないの。心臓の代わりに時計で存在しているんだとしても、そんなことじゃないの。わたしが言いたいのは」


言いたいのは。は口を開きかけ、一度噤み、再度決心したように言葉にする。


「どうして、忘れさせようとするんだろう。それがいくら辛くとも、わたしの記憶であることに変わりはないのに」


あいまいにして欲しいわけじゃないのに。はそれきり黙ってしまった。けれどゴーランドはそんな彼女をただ可哀想だと思うしかない。
ホラ見ろ時計屋、お前のせいで賢いは気付いちまってる。誰よりも元の世界に戻したくて、けれど戻って欲しくなかったのはお前だったろうに。
がやがやとにぎやかな周囲は依然として人が多く、それなのに自分たちだけは別世界にいるようだ。はふいに顔をあげ、キラキラと光る水面を見つめる。


「アリスが監獄に居たの」


まったく要領を得ない、けれど今までになく真剣な声だった。


「監獄に?」
「そう、ジョーカーと一緒だった。アリスは牢屋の中にお姉さんを見ていたみたい。冤罪だって言ってた」
「…………姉さん、ねぇ」
「答えてくれなくていいの、ゴーランド。でもわたしはあそこが何なのか、少しだけわかった気がする」


正体を全部というわけではないけど。は付けたすとじっと水面を見つめる。まるで揺らめきの先に真実があるとでも言いそうなようすだ。
ゴーランドは眉間に皺を刻む。


「…………それ、時計屋のやろうは知ってんのか?」
「ユリウス? …………わたしのことに関して、いちいちユリウスが責任を持つ必要はないよ」
「違う。アイツは、あんたに関しちゃ責任を持つべきだ。あんたが望んだのかもしれねぇが、教えたのはやつだろ」
「確かに教えてくれたけど、ユリウスもずっとはぐらかしていたんだよ?」


言葉の響きにゴーランドはぞっとする。自分がはぐらかしていたことも、はすべてひっくるめてまとめた気がした。


「真実には近づかない方がいいって言うのが透けて見えてた。ユリウスの口癖はね、わたしの真実を変えるな、なんだよ。誰かに絆されたり許したり、自分を甘やかす理由を作るなっていうことだと思ってた。…………でもね、そのユリウスが一番最初にわたしを手放したのに」


くつくつと笑うは今まで見たどんな顔よりも淀んでいる。まるで海の底で笑っているような顔。


「一番最初に厳しさを教えてくれたのに…………」


くつくつ、くつくつ。可笑しい、と思ったときにはすでに遅かった。は笑い声のまま膝を抱えてつっぷしたまま、動かなくなっていた。震えているようにも見えるし、泣いているようにさえ見える。


…………?」
!」


遠くからでもはっきりわかる、ピアスの甲高い声。勢いよく戻ってきたピアスが膝をついてに覆いかぶさるようにして抱きついた。がばり、と音さえ出そうな抱き方だった。まわりの顔なしが立ち止まり、けれどすぐに見なかったことにして歩き出す。


「…………泣いているの、。オーナーに何か言われたの?」
「おいおい、ピアス。俺は何もしちゃいないぜ?」


ピアスの沸点はいつどこで達するのかわからない。今は水着姿だから武器は持っていないにしても、どこに隠し持っているかわからないのだ。声が徐々に低くなりつつあるので、きっともうキレかけている。
ゴーランドが構えて隙があれば取り押さえようとしたとき、丸くなったに覆いかぶさっていたピアスの頭に手が置かれた。白くて小さな、の手だ。


「大丈夫だからピアス。それに息ができなくて苦しい」
「あ、わ! ごめん!」
「ううん、ありがとう。心配してくれて」


でもゴーランドは無実だよ。先ほどまでの暗い笑顔など見せずには顔を上げた。ゴーランドのほうが面食らってしまう。ピアスはあわあわと落ち着かない様子で、の腕にひっついている。まるで離したらどこかに行ってしまいかねない、とでも思っているように見えた。


「だって、どっかに行っちゃいそうだよ」
「行かないよ。帰らないって決めたもの」
「そうじゃないよ。帰らなくても、捕らわれちゃったら手が届かない」


ゴーランドは瞳を細め、やめろと念じる。ピアスが何を言いたいのか、何に怯えているのかはわかっていた。ジョーカーはやアリスを惑わせ、捕らえてしまう。は掴まれていないほうの手でピアスの頭を柔らかく撫でている。まるで母親だな、とゴーランドはその情景を見つめながら思う。


「大丈夫。どこにも行かない。変わることはあっても、わたしは消えない」
「変わる? 変わっちゃうの、
「…………変化がない人生なんてつまらないでしょう?」
「いいよ変わらなくて。だって変わったら、こうやって俺とちゅうしてくれなくなる」


言うなりピアスはの耳の下あたりにキスをした。ちゅ、と軽やかな音と共にがびくりと震える。それからの手が、ぱちんとピアスの額を弾いた。


「前からしていないでしょうが! もう! びっくりした!」
「…………ふっふふ。元気元気。、元気になったね」
「驚いたの!…………もう、ピアスは」


腕に擦り寄りながらくすくす笑うピアスに、ゴーランドは呆れてしまう。この場に帽子屋屋敷やクローバーの塔の連中やエースがいなくてよかった。もし見ていたのならピアスはきっと殺されていたに違いない。は怒る気力もないのか頭を抱え、ため息を零す。ピアスだけが上機嫌だ。


「あのね、。…………俺、にとってのウサちゃんになりたかったんだ」
「…………?」
「アリスにとってのペタちゃんみたいな…………は今だって理由が必要でしょう?」


ゴーランドはかすかに息を呑み、ピアスに一種の苛立ちを覚える。アリスのように主犯格のいない事故でこの世界に落ちたには、アリスのように頼るべきものはない。けれどはピアスに対してまるで動揺を見せなかった。キスをされたときよりも余程落ち着いた様子で、息を吐く。


「ピアスはいつも、痛いところをつくね」
「いたい? え、、痛かったの?」
「うん、痛かった。でもそれは当たっていたからだよ。わたしはいつだって、誰かに責任を取って欲しかった。引っ越しをしてからずっと」


楽しげに笑ってはゴーランドを見た。穏やかな瞳で見つめるものだから、目を離せない。


「でも、無理につくっても悲しいだけなの」


微笑んだまま、は自分自身に言い聞かせる。取り繕っても悲しいだけ、とゴーランドには聞こえた気がした。
はバスタオルをはずすとピアスにぎゅっと抱きついてからお礼を言った。どちらも素肌同士なのでくすぐったいらしく、すぐに離れた。そうしてゴーランドには顔だけを向けて礼を述べる。


「さ、もうひと泳ぎしようかな!」
「えー? まだ泳ぐの?」
「もちろん!…………あ、ピアスはお仕事があるんだっけ」


立ち上がり、すんなりと気持ちのいいプロポーションを惜しげもなく晒すは振り返ってピアスを見る。学校に行きたくないとごねる子どもよろしく、ピアスが不承不承頷いた。


「うん。おっきな抗争があるんだ。春に行かなくちゃならない」
「ゴーランドは?」
「あぁ、俺もそれを見にいくんだ。参加はしねぇが」
「ふぅん。…………でも、わたしは帰らなくちゃ。ナイトメアたちの冬祭りが始まってるはずだから」


死なないでね、とはふたりに言う。怪我をするなんて思ってもいない顔で、信じきってる表情で。
だからゴーランドは眩しげにを見つめた。


「ユリウスのことはいいのか?」
「…………いい、なんて簡単に答えられない。でもねゴーランド。わたしはアリスに幸せになってほしいの」
「アリス?」
「そう。わたしのことを大切に思ってくれる大事な友人。案外、わたしはアリスのために落ちてきたのかもしれない」


笑い声だけを残してはプールに飛び込んでいく。ざばざばと人ごみをすり抜けながら泳ぐ姿を見送りながらゴーランドは頭を抱えた。不安定な余所者同士で支えあって、たぶんどちらも同じくらい幸せになることを望んでいる。それはなんて不毛な、美しい友情だろう。
それでいいのかよ。この場にいない偏屈な友人に、文句をつけたところで返答はない。





















不誠実なレプリカの決意





(10.07.10)