自分のありようを見つめなおそう。
ユリウスに苛立ってひどい言葉をぶつけたわたしは、とにかく冬にいられなくなって夏に逃げ込んだ。もう悩んでいるのもただ考えているのもうんざりだった。考えはひとりでに違う答えを持ち出してくるし、悩めば悩む分だけジョーカーが力を増していくようにも感じる。事実、牢獄でアリスを見つけブラックさん―――アリスの命名だ――に助けられてから、わたしはサーカスすら恐ろしいと感じている。
けれど季節を変えてくれるのはジョーカーの仕事だ。彼にしか出来ないし、わたしはそのための手段をもらっている。夏に行くためにカードゲームをしながら、ひどく楽しそうにジョーカーは笑っていた。会話は少なかったし何を言われたわけでもないのに、だからこそ怯えているのがよくわかった。もちろんわたしが、という意味で。
笑うピエロのジョーカーとは裏腹に、仮面は一言も喋らなかった。期待はしていなかったがやはり残念だと思う。
夏に行ってプールに入ろうと決めたのは、少しでも他のことに没頭したかったからだ。水着など持っていなかったので買おうとすればゴーランドとピアスが見立ててくれた。そんな地味な色じゃ運が逃げちまう、と灰色のビキニを取り上げられ、自分では選ばないパステルカラーを握らされたとき少しだけ幸福だった。


『…………俺、にとってのウサちゃんになりたかった』


正直なピアス、とは歩きながら思う。夏から冬に戻るための道をひたすらに進みながら、この世界でわたしを追い詰めるのはピアスだと確信する。彼は真っ直ぐな瞳で同じくらい間違いのない真実を突きつけてきた。それがわたしにとって良くても悪くても、ピアスの瞳には嘘がない。
なりたかった、というのはなれないことを知っているのだ。わたしにはもうペーター役をしてくれる人などいらなかった。もうすでにいつからか、一人で歩き出してしまっていたのだ。誰かに縛られず依存せずに、強く生きることに慣れてしまっていた。上手に嘘をついて仮面をかぶり、この世界に馴染んだふりをしたのだ。
正当な手続きもせずに参加したゲーム内で、わたしはいわゆるバグなのだろう。これ以上影響を出してはいけないプログラムミス。考えたくはないけれどそんなもののせいで、アリスが辿り着くはずだった未来を失ってはいけない。
冬は相変わらず冷たく静かで、厳かな雰囲気を纏っていた。どこか賑々しく見えるのは雪像が通りに並べられているからだろう。特段祭りをしているわけではないけれど、飾られた雪像は色彩に乏しい冬の町並みを彩っていた。
人ごみを縫うように進んでいく作業は流れるようで楽しい。クローバーの塔は大きいので迷うわけがないし、なによりわたしは意識をもって戻るのだ。
わたしに今出来ることは、悩むことではなく動き出すことだった。


「ビバルディ!!」


クローバーの塔へは入らずに直接庭に行くと待ち人はすでに会場についていた。ビバルディはエースを護衛につけてきたらしく、相変わらず彼女に似合いの薔薇を飾りつけた服を着ている。急いで駆け寄り、そばにユリウスとグレイがいることを確認する。なにやら押し問答をしていたらしい。


! まったく、わらわを待たせるとはどういう了見じゃ」
「ごめんなさい。とにかく急いできたんだけど」


笑うと不貞腐れたビバルディがため息をついて、頬を膨らます。美しい女王様はわたしにとても甘いので、少なくとも首をはねられることはない。グレイに目配せをして所定の場所にビバルディを誘導する。庭の一角に大きなかまくらがあり、そこで女王様をもてなす手はずだったのだ。
女王はかまくらをいたく気に入ってくれた。雪で出来ているのに温かいところも、コタツの中には猫がいることも、もちろんわたしがくっついていることも含めて大層ご機嫌な女王様はまるで子どものように無邪気に見える。


「…………おや?」


みかんを持ち出して手渡したとき、ビバルディがわたしの首筋に鼻先を近づけた。


「え? な、なに?」
「お前、塩素の匂いがするね。プールにでも行っていたの」
「あ、うん。ちょっと体を動かしたくなって」


顔を離してビバルディは意外そうな顔をする。わたしはあまり外を出歩かないし、ましてや自分から運動するような人間じゃない。
けれどその単語に反応したのは他の面々だった。


「えー?! にゃににゃに! 俺がいないのに夏に行ってたの?!」
「ボ、ボリス。落ち着いて」
「落ち着いてなんていられないよっ。もしかしなくともネズミやおっさんと一緒だった?!」
「…………う、うん」


どうどう、と両手で押さえる仕草をするがボリスはするどい剣幕で捲くし立てる。そういえばボリスは所要で出ているとゴーランドが言っていた。まさかコタツの中にいるとは思わなかったけれど。
クローバーの塔の面々の顔はなるべく見ないように心がけた。なにせ夏に行くのは止められていたし、体の調子が良くなったといえども変わらないだろう。出来るだけ笑顔で別の話題にしようと口を開いたとき、エースが首をかしげた。


「プールかぁ。…………あれ? でも、水着なんて持ってたか?」


その何気なさとまったく邪気のない様子にわたしはうっかり答えてしまった。


「あ、それは…………ゴーランドがプレゼントしてくれたの。ピアスとふたりで見立ててくれて」
「…………へぇ。オーナーさんが?」
「え、あ、うん」
「ほぅ。それで? どんな柄や色なんじゃ。あの馬鹿のセンスはいいただけぬものが多いぞ」
「ビバルディってば…………可愛いやつだよ。あいにく薔薇じゃないけど、パステルカラーのビキニで、可愛らしすぎるくらい」
「へぇ、、ビキニ着たんだー」


空々しすぎるくらい渇いた声が響いて、エースの声なのにまったく別の人のもののようだった。わたしはそこでようやく場の雰囲気がいっきに重さを増していることを知る。なぜかはわからないがボリスは苛立ちを隠せないようだし、ナイトメアやグレイも無表情に近い。助け舟など出してくれそうにないエースは笑っているくせに威圧感がある。ビバルディだけがわたしの隣で、呆れたようにため息をついた。


「何だお前ら。男の嫉妬は醜いもの。わらわの見えないところでやれ」
「………あっはっは。そりゃ陛下の水着なら笑って流せるんですけどね。ほら、ここのみんなってに関しちゃ過保護ですから」
「貴様は一度本気でぶちのめされんとわからんのか? その口、縫いつけて二度と開くことのないようにしてやろう」
「あっはっはー。嫌ですよ、陛下。冗談ですって」


ハートの城では日常の寒すぎるやりとりもわたしは笑えなかった。なぜなら他の面々が誰一人として笑わないし、喋らない。どうしようと頭で考えるが、すっと立ち上がった人影に息を呑んだ。


「ボ、ボリス?」
「…………ごめん、。俺戻んなきゃ。ちょーっと用ができちゃってさ」


貼り付けた笑顔が逆に怖い。右手がくるりと銃を操っている。
まずい、ピアスが本気で危ない。
思ったが猫の反射神経にかなうわけもなく、止めるより早くボリスはかまくらを出て行った。先ほどまで外は寒いと言っていたのにあっさりと。


「あぁぁ! ボリス! ピアスは食べちゃ駄目!」
、問題はそこかえ?」
「だ、だって目が本気だったし」
「もちろん本気だったんだろうよ。お前と遊べなくて、猫も寂しかったということじゃ」


のう、とビバルディが甘えるようにわたしを抱きしめた。塩素くさいのはこの際我慢してくれるらしい。わたしはぎゅうと抱きしめられながらビバルディの温かで薔薇の匂いのする肌をじっと見つめる。ビバルディくらいのプロポーションがあれば話は別だが、わたしの水着姿など見たって楽しくないのに、と思う。


「それは違うぞ、
「ナイトメア?」
「水着を見られなくて残念というのももちろんだが、それをゴーランドが選んだというのが気に食わないんだろう。はっきり言えば、ずるい」
「ずるいって…………いや、わたしよりはセンスがあるし」
「だからそういう問題ではなく…………ぶえっくしょん!」


真顔で語りだそうとしたナイトメアが大きなくしゃみをした。そういえばなんだか熱っぽいし、顔色も悪い。体をぶるりと奮わせる様子に風邪を引いたのだと確信した。


「ナイトメア、風邪――――」
「ですからもっと厚着をしてくださいと申し上げたでしょう、ナイトメア様」


わたしよりも早くナイトメアの腕をがっちりと掴んだのはグレイだった。ひ、と情けない声があがる。グレイは表情こそ変わらないが確実に怒っているようだった。


「もう部屋に戻りましょう。きっと熱がありますから薬も飲まないと」
「う…………あの薬は苦い!」
「我侭を言わないでください。あぁ、。すまないがホスト役を任せても構わないか?」
「あ、うん。いいかな、ビバルディ」
「元からに会いにきたのじゃから、お前らなどいなくとも構わん」
「それはどうも。…………それじゃあ、、頼む」


ぐっと握った腕を持ち上げてナイトメアを立たせながら、グレイはかまくらを出る前に一度だけ振り返った。


、冬だっていくらでも体を動かす手段はあるんだ。…………今度からどこかへ行く前に相談してくれ」
「は、はい」


まさに有無を言わせない声音に、わたしは背筋を伸ばして首を縦に振るしかない。
残されたユリウスも「馬鹿馬鹿しい」と小さく呟くと自分の仕事場に戻ってしまった。わたしはビバルディとエースと一緒に取り残されてしまう。ホスト役がこれだけ綺麗にいなくなっていいものかと不思議な脱力感に襲われた。


「まったく馬鹿な男たちじゃな」
「ビバルディ…………本当に可愛い水着だったんだけどなぁ………」
「問題はそこではなく…………あぁ、もうそれはいい。わらわはお前とふたりで話ができれば十分…………そこの騎士がいなければもっといいんじゃが」
「えー? こんなか弱い女性二人を置いてどこかに行くなんてできませんよ。仮にも俺は陛下の護衛ですから」
「そこを仮にするな。愚か者め」


大幅に人が居なくなったので空いた場所にエースが入り込んでくる。むっとした女王様を宥めながらお茶を用意し、冷たい雪の中で熱い紅茶を三人ですすった。
ここは冬で、春の陣地ではないのに随分平和だ。女王様が雪の冷たさと静けさに飲み込まれて、騎士は従順に付き従っている。あるべき姿があるのならこれがそうなのだろう。わたしやアリスにはなく、この世界の役持ちにはそれぞれ本当に役割がある。わかりやすく馬鹿馬鹿しい、貼り付けられた名札を彼らは大切にしている。


「…………なぁ、


エースの、コタツの暖かさにぼんやりとふやけた声。
お茶請けにジンジャークッキーを出していた手を止めて、わたしは微笑む。


「なに?」
「ユリウスをさ、本当に嫌いになった?」


一瞬何を言われているか理解できず、けれどすぐにエースと目をあわせた。彼の瞳は真実を尋ねるとき、恐ろしく澄んだ瞳になる。


「…………本当にって?」
「さっきから見てるけど、なんか雰囲気が変わったからさ。もう目をあわせても動揺しなくなったろ」


動揺。確かに以前はユリウスの瞳をまっすぐに見つめるのは困難だった。


「…………エース、貴様の言い方はまるでがあやつに悪事を働いたように聞こえるぞ」
「ビバルディ」
「そうですよ。はずっとどこかでユリウスに引け目を感じていた。…………だから遠く離れず居てくれたってのに」


籠からクッキーを取り出し口にいれながら、エースは面白くなさそうに肩を竦める。噛み砕かれるクッキーの、ざくざくと心地いい音。


「ユリウスは馬鹿みたいに真面目だから、それじゃ嫌だったんだろうけど」
「ふん。時計屋の考えることが一番下らぬ。…………この子に道を選ばせようとして、どんどん迷わせているのはアイツじゃろう」
「優しいんですよ。…………でもそれじゃ、やっぱり横から攫われる」


ビバルディも籠からクッキーを取り出し、わたしは話されている内容がちっとも自分のことだと思えずに固まった。ビバルディやエースは別な女の子の話をしているのだと思う。
ジンジャークッキーは人型をしており、クリスマス仕様で目も口もついて笑っている。わたしはそのクッキーになってしまいたかった。いつまでも笑っていられるように。
テーブルに乗せていた手がエースの真っ白な手袋に掴まれた。視線をあげたさきで彼は微笑んでいる。


「やっぱり俺はさ、見守るって言うのは無理みたいだ。この塔の住人みたいに、君を自由にさせながら守れるほど器用じゃない。だから、ユリウスを選ばないんなら俺を選ばなきゃ駄目だぜ? 
「は…………?」
「待てエース。なぜがお前ごときを選ばねばならんのだ」
「俺が騎士だからですよ。ユリウスと一緒にいれば、俺はずっと迷っていられたのに……………………」
「エース」


握られた手は熱く、まったく冬にそぐわない。ビバルディが瞳を細めたので、これ以上会話を重ねれば口論以上の喧嘩になるだろう。じっとわたしの手を見つめながら手を離そうとしないエースは、まだぼんやりとしているようだった。


「エース、その手を離さんか」
「…………」
「おい、わらわの話を……」
「ビバルディ、大丈夫」


エースは目を開けてはいるけれど、まったく動かなくなりつつある。ビバルディが首を傾げ、ようやくある可能性に思い当たって眉を潜めた。


「こやつ、会話の途中に居眠りをしておるな」
「まどろんでるだけ、じゃない?」
「当たり前だろう。わらわが傍にいるのに、ぐっすりと眠れるわけがない」


刺し殺してやろうかとビバルディが不敵に微笑んだので、わたしはなんとかその衝動をおさえてもらう。


「疲れているのかもしれない。サーカスが来てからエースには守ってもらってばかりだから」
「…………安心しているだけだろう。握っていればお前は逃げられん」
「そんな、風船じゃないんだから」
「風船ならば諦めもつく。…………だがエースはやめておおき。お前が苦労するだけじゃ」


忌々しげに部下を見つめるビバルディに苦笑する。エースに守ってもらえば、ジョーカーからは逃れられるのかもしれない。ユリウスのことを仕事仲間のように話していたジョーカーを思い出し、ならばエースとの繋がれも浅からぬのだろうと結論付けた。
深い闇を纏う監獄できっとエースは常のエースではなく、そこで出会えばわたしは斬り付けられてしまうのかもしれない。


「この世界で苦労しない人なんていないと思うけど」
「…………ふふ、それもそうじゃな」
「うん。それにエースはわたしのことをそんな風に好きなわけじゃない。なんとなく、そんな気がするの」


好きだから愛しているから守りたいのではなく、彼は居場所を確保したいのだ。
握られた手に自分のものを重ねて微笑むとビバルディは瞳をそっと伏せてから息を吐く。そのあとにゆっくりと立ち上がった。


「ビバルディ?」
「その男はわらわがいればずっとその状態じゃろう。ナイフでもちらつかせれば起きるが、あいにく寝ぼけながら殺されるのは性にあわん」


だから出て行く。ビバルディはさっさとマフラーをかけなおして、わたしの額の上を撫でた。


「お前は賢い子だね。けれど使えるものは使ってこその価値…………そんな騎士でも力だけはあるのだから骨までしゃぶっておやり」
「…………その表現はちょっと」
「では盾にでも使うといい。………守って欲しいと望むのも、女の幸せなんだから」


にっこりと笑ったビバルディがかまくらを出て行く。優雅で物怖じしない、護衛などなくても背筋を伸ばして歩く彼女は綺麗だ。
凛とした背中が消えてしまうと同時に隣の巨体がぐらりと傾いた。わ、と驚く間もなく太ももの上にエースの頭が転がり寝息が聞こえてきた。あまりにもわかりやすい変化に笑い声を漏らしながら、わたしは大きな犬を抱きしめている気分になる。ユリウスがいれば安定しているエースの、その不安定さが彼らしい。
俺を選ばないと駄目、なんて冗談みたいな口調で警告するエース。
けれどこんなふうに眠るエースの方がよほど彼らしく思えた。それはきっと、それはわたしの願望に他ならない。こうやって優しく甘い、歪みなど見せないエースをずっと見続けていきたいだけ。


「守って…………」


欲しいと望むことは出来ない。エースに守られながら言えることではないけれど、わたしが自ら望んでいいことには思えなかった。
すうすうと眠るエースの頭を撫でながら、守るものが明白である彼を羨ましく思う。





















この手を離して、そして





(10.07.10)