「君はここにいろ、


クローバーの塔の一室で、こたつを四人で囲んでいるときだった。雪祭りに招いた女王様が帰ったあとナイトメアが風邪を引き、そのためにグレイが七草粥と称する紫の物体Xを食卓に並べていた。わたしはナイトメアの正面に座り、足を崩して座りながらこたつのあたたかさと目の前の食事をどう切り抜けようと考えていたところだったので返事が遅れてしまった。なによりナイトメアは主語をまったく挟まなかった。まるで命令のように下されたそれは、わたしを無意味に縛りつける。


「ここにいろって…………だいたい、どこに行くの」
「サーカス、だ」
「まだサーカスがあるの?」


回数にして三度目のサーカスだった。ナイトメアは面白くなさそうに瞳を細めている。両側でユリウスやグレイは沈黙して会話に聞き入っているようだった。


「あぁ、ある。…………私達が出なければならないのはルールだが、君の参加は自由だ」
「じゃあ」
「けれど、連れて行けない」


わたしの答えを遮ったナイトメアは随分真面目な顔をしていた。まるで夢の中にいるような、存在感がはっきりとする表情だ。
わたしは彼がそんな顔をするとき決して考えを曲げないことを知っていた。知っていたけれど悲しくなって―――もちろん、前回のサーカスを城のメンバーと訪れたことに引け目を感じていないわけではない―――呟く。


「どうして?」
「アリスはもとより、君だってジョーカーにちょっかいをかけられているだろう。絡め取られそうになっている。…………そんな場所には連れて行けない」
「でもそれはわたしのせいでしょう。ナイトメアが気に病むことじゃ」
「私は責任逃れをしたいわけじゃないんだよ、


声は覇気がなく、それなのに体勢だけは崩さない。自分で招いた結果であるのに、わたしはひどく不当な気がした。なにせナイトメアはもとよりグレイもユリウスも味方をしてくれる気配がない。例えばもしわたしが付いていくと駄々をこねたところで了承してくれる人がいないのだ。


「…………いくら行きたいって言っても駄目?」


最後の押しとばかりに小さく呟けば、今まで黙っていたグレイが眉間に皺を刻んだ。


「君がどうしても行くと言うのなら、俺たちはサーカスに行かない」
「え?」
「…………見失うくらいなら、ここに居た方がずっといい」


黄土色の瞳が険しく細められた。わたしは驚いて目を見開き、心臓がどくりと跳ねた。この塔の人々は理由は違えども出不精なのは変わりない。理由がなければ出向かないし、理由があっても価値がなければ参加しないだろう。それなのに、ずっとサーカスには参加していたのだ。
今更、どんな理由があるにせよ棄権が認められるわけがない。


「ちょっと待って。そんなの許されるの?」
「…………」
「だっておかしい。もしそんな理由で行かなくていいのなら、今までだってずっと――――――」


安全面をあれだけ気にしながらも向かったサーカスだ。仕事好きなユリウスや病弱なナイトメアが出かけていった理由を、わたしは今まで一度だって聞いただろうか。わたしは真剣な表情をする役持ち達に、ひどく情けなくなって視線を落とした。


「ルールを破れば、ペナルティを被るでしょう」


独り言に似た呟きは紫のお粥に溶けていく。彼らがもっとも大事にしているルールを破れば、きっと大なり小なりペナルティがつくはずだった。程度の差はあれ、無傷でいられるわけがない。わたしの我侭ひとつでどうしてそんな事態に陥るのだろう。
ナイトメアが小さく、困ったように息を吐く。


「ペナルティは様々だ。どんなものかは予想できない」
「それでも、かぶらなくてもいい火の粉でしょ」
「そうかもしれない。だが、君が何かをされるよりよっぽどいい」


あまりにも優しい声に顔をあげると、ナイトメアは穏やかに笑っている。わたしはふと前回のサーカスを思い出した。ビバルディにサーカスに連れて行ってもらったのは監獄のジョーカーに会いたかったからだ。彼の声はひとつひとつが目覚めるように新鮮だった。ピエロのジョーカーが恐ろしくても、わたしは会いにいったのだ。
この人たちを置いて、逃げるようにして。


「…………我侭は、わたしの方だね」


置いていくのはいったい誰だろうな。耳の奥で、仮面のジョーカーが囁く。
わたしはそのまま何も言えずにグレイ特製のおかゆを食べた。もう味などわからずに黙々とスプーンを動かして、驚く周囲が呆気にとられている間に「ごちそうさま」と言って立ち上がり、自室に引き上げた。
わたしの狡さは背を向けることに躊躇しない点だと思う。こたつを後にしたときは悲しみに満たされていたせいで気付かなかったけれど、こうやってひとりになると考えてしまうのだ。あのときナイトメアの優しさとグレイの頑なさにひどく窮屈な思いをしたことや、最後まで一言も話さなかったユリウスの目を見られなかったことをはっきりと自覚してしまう。
連れて行ってもらえないことなどわかっていた。アリスなら命綱があるけれど、わたしにはないのだ。大切なものを作れない、我侭で無知な余所者。


『もう冬には戻らないのか?』


ジョーカーの声が胸のうちでこだまする。わたしは強い気持ちで考えまいとした。
サーカスに連れて行けないと言われて自室に引き上げてからよくよく考え、わたしは透明な小瓶だけを持って部屋を整理して冬を出た。クローバーの塔を、ナイトメアとグレイとユリウスがいる、冬という季節を抜け出した。明確な意志とまったく要領を得ない理由を携えて、わたしは歩き続けている。
秋の小道はどこへ着くとも知れない。まったく見たことのない道だ。それなのに、どうしてかはわからないがきっとあの屋敷に繋がっているのだろうと思った。
イチョウの葉ばかりで覆われた小道は一面黄色で美しく、そのまま思考まで染まってくれればいいのにと思う。
冬には戻らないのか、と問われて答えなかったのは肯定したからじゃない。きっと最初からわたしの戻る場所などなかったのだ。


『アリス、僕が興味を持ちたいと思えるものは…………知りたい近づきたい触れたいと思うのはあなただけですよ』


ふと、聞きなれた声がしてわたしは立ち止まる。ペーターの声だとわかったけれど、そこは秋であったので一瞬耳を疑ってしまった。彼がイチョウ並木を散策している理由など思いつかなかった。けれど、すぐに返事をした女性の声で合点がゆく。


『意地悪ね、ペーターは』


すねたような、それでいて幸せに満ち足りた声。アリスだ、と思ったときにはそちらに足が向いていた。夢遊病者のようにふらふらと誘われるようにして捉えたのはペーターとアリスの後ろ姿だった。わたしは森の中から見ていたので、彼らはこちらに気付かない。わたしは声をかけようか迷い、けれどどうしても声をかけることができなかった。
途切れ途切れにしか聞こえないが、ふたりの会話はいつもどおりに破天荒で騒々しかった。主にペーターの思考がずれているので会話は斜めに進んでいくのだが、アリスの表情は嫌がるばかりではなくなっていた。ハートの国で、最初に出会った頃はうんざりしていたのに、いつのまにあんな顔をするようになったのだろう。


『…………』
『…………』
『…………』
『…………』


距離があるせいで会話の内容はわからない。それに徐々に歩いているので距離も出てくる。
わたしはバカみたいに突っ立って彼らを見送っているのだ。一歩も動けず、声も出せず、こうやって木偶の棒の様に固まってじっと彼らを見つめている。
けれど話しかけたりしたら一生後悔すると思った。考えるよりも直感で、そう思った。今話しかけたりすればふたりの前でみっともなく泣き出すか、取り乱すかしてしまうに違いない。わたしの持ち得ないものを、確かにあのふたりは持っているのだ。


「…………何をそんなに熱心に見ているんだ? 


アリスがペーターにアイスを差し出したところで、唐突に背後で声がした。けれどわたしは彼らに目を奪われていたので動くことが出来ない。ぎこちなく動き出そうとするわたしに、声の人物は何かを心得たように間をあけてから動いた。白い手袋がゆっくりと背後から両目の前に出てきて、そっと視界をふさぐように押さえられる。
真っ暗になった視界に戸惑ったけれど、それよりもずっと安堵の方が大きかった。ふたりの姿が消えたことで解放され、ようやく秋の風を吸い込むことが出来る。


「人の恋路は目に毒だ…………そんなに見つめるものじゃあないよ」
「…………ブラッド」
「いかにも」


馬鹿にするわけではなく、当然というようにブラッドは低く笑った。視界をふさがれるといっきに他の部分が敏感になる。秋風にのってくるブラッド特有の薔薇の匂いや、手袋越しのあたたかさが、解放されたわたしによく染みた。
アリスやペーターには申し訳ないが、ブラッドの言うとおり彼らの姿はわたしにとって毒だったのだろう。見てはいけないものだったのに、網膜に焼き付いてしまった映像は消えそうになかった。





行こう。ブラッドが目隠しをしたままのわたしをくるりと方向転換させる。
ブラッドの腕をとって歩き出したわたしは、それでも目を閉じて開けようとはしなかった。この腕をとって歩いていれば平気だと思えたし、事実ブラッドはエスコートが上手だった。目を開けていたときよりも快適な気さえする。わたしは自分が踏みしめてきた道をどれだけ余所見をしながら歩いてきたのかわかった。余所見をして躓きながら、それでもここまで歩いてこれた。


「…………たい」
「ん、なんだ」
「……………………ううん。なんでもない」


…………まるで幸せな夢みたい。
視界がふさがれたせいで心の奥から言葉が出た。いつも見えないものが―――もしくは見ようとしなかったものが――――――ぽろりと零れ出る。ふたりの幸福な背中が、けれどまったく現実味がなかったのだと言えばただの僻みだと笑われるだろうか。絵空事のように完璧で、作り物みたいに間違いがないあの情景にちっとも馴染めなかったのがわたしだけであればいい。
もしあのふたりを受け入れてしまったのなら、きっと今までのままではいられない。






















(10.07.25)

うれいばちのはおと