説明するのは骨が折れることだろう。
わたしはブラッドの執務机を挟んで対峙しながら―――とはいっても、ブラッドは座っているのだが―――思う。この人を説得するのは大変な力が必要になるに違いない。例え理解してもらえても、受け入れてはもらえないように。
アリスとペーターのデート現場から帽子屋屋敷に招かれて、そのままブラッドの執務室に通された。彼は悠然と自分専用の椅子に座りわたしにもソファに掛けるよう促したが、首を振って彼に向き合っている。立っていなければ負けてしまいそうだと思った。ブラッドの瞳は相変わらず綺麗な宵闇の色をしている。


「それで、どうした? まさかアリス達を追っていたわけではないんだろう」


たっぷりと気だるげな声は、ブラッドそのものみたいだ。濃くて甘いワインのように、芳醇な香りがする。ブラッドはあの現場にいた理由として「城の宰相閣下をもてなすつもりだった」と正直に教えてくれた。
自分が今考えていることを、きっとこの人は気に入らないだろうとわたしは思う。もしかすると何も言わずにマシンガンで撃たれてしまうかもしれない。


「三度目のサーカスがあるって、ナイトメアに聞いたの」


それぞれ別個に呼ばれているのか、それとも同じサーカスだが出くわすことがないだけなのかはわからないが、確かにどこの領地も同じ回数分だけサーカスに向かっている。帽子屋屋敷であるとは言ってもルールには従っているだろう。ブラッドは、顎に指をかけ試すように微笑む。


「あぁ、ある。…………君は、行くのか?」
「行くつもり」


負けないようにわたしは微笑む。きっと透けてしまっているだろう、わたしの怯えを悟られたくなかった。けれどブラッドは試すように首を傾げる。


「ほぉ? だが、君は誰と行くんだ。夢魔たちは君を連れて行かないだろう」


何故知っているのだろう、とは思わなかった。ブラッドの言い方は振りだとしても知っていて当然のような気にさせた。だからわたしは騙されたままで、頷く。


「うん。連れてはいけない、って言われた」
「…………それで? 女王の次はわたしを頼ってきたのか」


面白くなさそうな、不機嫌な声は野生の動物みたいだ。わたしは彼が考えたことを否定する。ゆっくりと首を振り、違う、と声を出す。


「そんな図々しいお願いはしないよ。もう迷惑はかけられないから」
「…………では、どうしてここに来た?」
「お願いがあって、きたの。これも充分図々しいんだけど」


わたしは蜂の巣になる覚悟をして、口にする。


「銃を一丁、貸してほしいの」


言った途端にブラッドが眉根を寄せたのだがわかった。憤然とした、馬鹿にされたような表情だ。けれどわたしは真面目な顔のまま、ブラッドと瞳をあわせていた。怒られることも詰られることも、予想してきた。サーカスに連れて行ってというよりも、もっと酷い願いことだという自覚はある。
きっと役持ちの間では一種のトラウマになってしまっただろう、無謀な自殺シーンを連想させるようなことをわたしは極力してこなかった。
ブラッドは苦々しげに、わたしを睨む。


「君は私を、都合のいい武器商人だとでも思ってるのか」
「思ってない。本当はまたペーターに頼んでもよかったんだけど、話をする前に撃ち殺されちゃうだろうから」
「だから、私のところに来たのか? まさかまた―――――」
「しないよ。大丈夫、同じことをするほどわたしは愚かじゃない」


ブラッドがわたしの考えた通りのことを思っていてくれるので悲しくなった。この世界の脱出方法をそれしか知らないのだろうと言われているようで、そしてそれを出来るのもまた、余所者の特権であることが悲しかった。わたしの心臓は、ユリウスに直してもらうことができない。逝ってしまえばそれきりなのが、自然ではないことの不自然。
わたしは出来るだけ自信があるように、微笑む。


「立ち向かう為のお守りが欲しいの」


まるで少女がねだるようだと感じたので、慌てて付け足す。


「使うつもりのないものを持つのは分不相応だってわかってる。わかってるけど」


それでも、わたしは銃が欲しかった。そう思うなんて信じられないけれど、どうしたってそれしか思い浮かばなかった。あの、サーカスのテントの中で向かい合ったわたしはジョーカーが怖くて仕方なかった。彼は銃もナイフも持っていなかったけれど、わたしは今すぐにでも殺されてしまいそうだと思っていた。
銃を持てば殺される覚悟をしなくてはならないと、ブラッドは叱らない。そんな陳腐な言い訳をわたしに許さない。


「ジョーカーを殺すのか?」


マフィアのボスらしく、剣呑な瞳を向けられる。わたしはそれこそわからない、という顔をして見せた。


「立ち向かいたいのはジョーカーにだけど、使うかどうかはわからない」
「だが使いたくはないと思っているだろう。君のような子が銃を持てば、悩んでいるうちに撃ち殺されるのが関の山だ」
「そうだね、わたしは一人で行くから」


ひとりで、サーカスに招かれても居ない余所者が行けばどうなるかは誰にもわからない。
ブラッドはますます顔を歪める。


「君を連れて行きたくない、夢魔たちを振り切っても行くのか」


ブラッドはわたしを責めているつもりはないだろう。けれど、試してはいる。
わたしに彼らを裏切ってまでサーカスに行く意味を問うているのだ。情けなくてもきっぱりと連れて行けないと言ったナイトメアを、それでも行きたいのなら自分たちも行かないと言ったグレイを、そしてそれを了承するかのように黙っていたユリウスを、すべて否定して自分だけで向かう覚悟があるかどうか。
正直、とわたしは思う。正直に言うとそんなふうに思ってくれていたというだけで嬉しい。嬉しいし信じられない、わたしは自分のことがそれほど大切ではないから。


「行く」


銃を持ってわたしはサーカスに向かう。もしブラッドに銃を与えてもらえなかったとしても、身ひとつで行く覚悟は出来ていた。それでも彼に声をかけたのは、多分わたしにとってブラッドが信用に足る人物だったからだ。
可笑しな話かもしれない。引っ越し直後の会合で、この人には随分乱暴なこともされたのにただの思い出になりつつある。楽しいとはいえない思い出だけれど、少なくともわたしとブラッドの間にあった見えない壁は薄くなってしまった。
ブラッドは端正な顔を歪めたまま、ため息をつく。


「…………頑固なお嬢さんだ」


そのままゆっくりと微笑みの形に変わった唇が、ブラッドの了承を物語っていた。マフィアのボスなのに、内側に入れてくれればこんなにも優しい。優しくて優しくて、怒らせると怖いということを忘れてしまう。わたしは迂闊な動物だから、きっと人が隠している奥の方を覗けないのだ。


「だが、やはり銃は渡せない。私は君が怖いからな」
「マフィアのボスに怖がられるなんて、わたしもやるね」
「あぁ。誇っていい、君はこの国の誰より私を恐れさせている」


机から立ち上がり、回り込んでわたしの前にブラッドは立つ。彼はもう眉間に皺を寄せていなかった。わたしはこの人の宵闇の瞳に自分が映ることが嬉しいと思う。
ブラッドの手のひらがわたしの頬に伸ばされる。


「銃は渡せないが、私が連れて行こう。サーカスへ、君が望むように」


低く理想的に優しい声音でブラッドは言ってくれる。わたしは少しだけ困った顔をしたあとにお礼を言った。誰かに連れて行ってもらうことは本位ではない。


「ありがとう。でも、もしわたしを見失ってもどうか気にしないで」
「…………どういうことだ?」
「きっとわたしは離れてしまうから。クローバーの塔でもお城でも、誰と一緒に行っても迷ってしまったから、きっとブラッドと一緒でも迷うと思う。…………でも、今回は迷うために行くの」


左頬に当たるブラッドの右手を自分の左手で覆った。温かで大きな、ブラッドの手のひら。


「ジョーカーに会うために行くの。だから、わたしはあなたの前からいなくなる」


それだけはわかってほしかった。彼の前からいなくなったからといって、探して欲しいわけではないのだ。彼らにルールを破らせたいわけでもない。わたしを助けようとすればブラッドは平気な顔をしてルールを破るだろう。
ユリウスの声が、まだ鼓膜の奥のほうに残っている。


「だからルールを破らないで。…………ユリウスみたいなことは言わないで」


わたしがジョーカーに捕まれば、ルールを破っても連れ戻すと言ったユリウスを思い出すとまた腹が立つ。どうして彼ばかりがいちいち責任を負うのだろう。ブラッドがきょとんとした顔で、わたしを見つめた。


「お嬢さん…………それは時計屋が言ったのか?」
「そう。すごくムカついた。ルールを破るなんて、簡単に言っていいことじゃないのに」
「ふぅん…………あの時計屋が、ねぇ」


思わず喧嘩腰になったことまで話すとブラッドはくつくつと笑った。面白い冗談だ、と言ってくれたが、もちろん冗談などではなかった。わたしはあのときユリウスを詰ったのだし、そのことについてまだ謝ったり謝られたりしていない。
だからブラッドはそんなことしないで、と付け加えようとしたときわたしの体は逞しい腕に抱かれていた。ブラッドについた薔薇の芳香がすぐ近くにある。


「大丈夫だ。私はそんな愚かな真似はしないよ」


ぎゅう、ときつく抱きしめながらブラッドは言う。約束してもらっているというのに、約束させられているのはわたしのような気がした。いつかキスされたときのことを思い出し、わたしは知らず顔を赤くさせる。


「君を目の前で二度も失うのは耐えられそうにない、が…………他ならぬお嬢さんの頼みだ。叶えよう。…………だが私の願いも聞いてもらえるか?」


耳元で囁かれているのでくすぐったい。わたしはブラッドの背に力を込めずに腕を回しながら、何、と問う。


「簡単なことだ。一度だけでいい。私が頷いてほしいときに、頷いてくれ」
「…………それ、いつ?」
「賢い君のことだ、そのときになればわかるだろう。交渉は成立だな」


体を離しながらブラッドは笑う。この人の腕の中はひどく居心地がいい、と思ったことは言わなかった。ただこうやって誰かを抱きしめることに躊躇しなくなった自分を見つけて可笑しく思う。以前は触れられることも怖かった。
けれど今はブラッドが髪を撫でてくれることが嬉しい。


「ありがとう、お嬢さん。君に利用されるのはいい気分だ」


そう言ってわたしのこめかみ―――いつか、拳銃自殺をはかった場所だ――――にブラッドは優しい口づけを落とす。わたし達の共有するものは、多分感情や体を越えたところにあるのかもしれない。

























(10.07.25)