「ようこそ、。待ってたよ」 まるで当然のように迎えられた監獄で、ジョーカーは満面の笑みを浮かべている。やはりサーカス終了直後、テントを出て数歩でわたしははぐれてしまった。けれどもうそんなことには驚かなくなっていたし、踏み出した足の感触が地面から固い石畳に変化したのはヒールの音ですぐにわかった。ひやりと背筋に走る、直感に似た悪寒すら慣れてしまった。 わたしはジョーカーに答えない。ただまっすぐに彼を見ている。 「君はすごいなぁ。三度のサーカスを、ぜんぶ違うやつらと来るなんて前代未聞だよ」 「…………」 彼は機嫌がいいらしい。先ほどと同じようにピエロの格好をして、にこやかに腰に手を当てている。彼はいつだってこの監獄に不似合いなようで馴染みすぎている。明るい笑顔も穏やかな表情も、どれも底が知れない。わたしはそんな彼をじっと見つめる。この人が怖いと感じたのはもちろんその底なし沼の不可解さもあったけれど、実際はずっと前から心の中に住み着いていた何かだった。 くすくすと、ジョーカーは笑っている。 「やっぱり余所者は違うなぁ。人気者だ。俺たちは恨まれ役ばかりなのに」 「…………」 「さしずめ俺たちは浮気の共犯者ってことになるのかな。なぁ、ジョーカー」 ジョーカー。投げ出された声がわたしを通り過ぎて背後に届く。わたしはゆっくりと振り返った。石畳の灰色と様々な檻を背景にして、もうひとりのジョーカーが腕を組んでいる。いつから居たんだろう、と疑問に思う。看守服を着たジョーカー―――通称、ブラックさん―――は、眉間に皺を寄せてわたしを睨みつけていた。 「…………あれ。何か怒ってる? ジョーカー」 「うっせぇよ」 「おやおやご機嫌ナナメだね。どうしたんだよ、せっかくが会いに来てくれたのに」 自分の意志でね、とピエロのジョーカーが笑っている。わかっていたのだろうとは思っていたが、わたしはやはり肩を竦めるしかない。 「わたしが来ることを知ってたの」 「わからないよ。そこまで俺たちは万能じゃない。だけど、来るかなとは思っていた。ナイトメアが連れてこなくても、君にはたくさんお友達がいる」 また嫌味たらしくにっこりと笑うジョーカーに、わたしは眉をつりあげる。 「そうだね。あなたよりは好かれているかも」 「厳しいなぁ。俺は楽しませようとしているだけなのに」 「…………あなたのそれは、救いじゃない」 きっぱりと、声に出して音にする。わたしがそう言った途端に監獄がざわりと揺れた気がした。誰も居ないはずなのに、空気だけがどよめく。ジョーカーは「へぇ」と口にしたが、否定しなかった。いつだって感じていたけれど、ジョーカーの笑顔は顔全体に笑っているくせにちっとも感情の上下を晒さない。 「俺はもちろん救世主じゃないけど、充分優しいよ。こうやって恩赦も与えてる」 「サーカスが恩赦だって言うんなら、どうして苦しめるようなことをするの」 「苦しめる? 一体誰が苦しんでるのかわからないな」 「…………アリス」 静かに言うと、弾かれるようにジョーカーが笑った。 「アリス! 君も白ウサギも、どうしたって過保護すぎるね」 「…………」 「けれどペーター・ホワイトが恐れるのは仕方がない。なんてったってアリスは忘れてくれないから…………何度だって、ここにくる」 一歩、ジョーカーがわたしに近づく。逃げ出してしまいたかったが、わたしは彼の空虚な瞳を見続けた。ここで引けばわたしが来た意味がなくなってしまう。監獄にいることになど恐怖を覚えないけれど、ジョーカーの瞳に閉じ込められるのは怖い。 「滑稽だとは思わない?」 いつのまにか彼の手に握られた鞭がわたしの胸の前に突きつけられている。驚いたけれど身動きがとれず、わたしは目を見開く。 「不安定な余所者同士で支えあって、どんどん深みに落ちていく。どれだけ役持ちが心配してもお構いなしだ。…………それに、もっと滑稽なのは君だよ、」 「…………」 「ユリウスの近くにいたせいで、自分でもアリスを助けられると思ってる。多くのことを知っているのは決して賢いことじゃない」 「………………」 「アリスのほうがよっぽど賢い。白ウサギは、死んでも彼女を助けようとするだろうね。…………その力が、彼にはあるから」 お前にはないだろう、と暗に言われて突きつけられた鞭が食い込んできそうだと思った。当たり前だ。わたしに力はないし、アリスをすっかり助けられるなんて思っていない。なにせ監獄に来ているのは自分だって迷っているからだ。迷ってずれ込んで、いつのまにか入り込んできた場所で勝ち目なんてない。 けれどやっぱりユリウスの傍にいたせいで、わたしはアリスよりもこの世界のことを知っていた。 「力がないことは認める。助けようなんて思ってない。………ただ抗議しに来たの」 「抗議?」 「アリスが迷う込むのは仕方がないのかもしれない。けれど、あなたからの干渉はルール違反でしょう」 一歩も引かずに見据えると、ジョーカーは笑顔を引っ込めた。わたしは自分のポケットの中に拳銃が入っていないことが残念でならない。彼が鞭でわたしの胸を突いているように、拳銃を突きつけたかった。使うのではなくこうやって、わたしは彼を追い詰めたかった。 「…………やっぱり、やりにくいなぁ」 やがて笑い出したジョーカーは間が抜けていた。貼り付けていたメッキが一枚はがれたような、奇妙な不自然さ。笑っているくせにわたしを見ていないジョーカー。ぐい、と鞭が押し付けられる。思わず倒れそうになったわたしは、けれど後ろから突然肩をつかまれたのでなんとか踏みとどまった。 「べらべら五月蝿ぇんだよ」 さきほどよりずっと不機嫌な声と、看守服が視界に入った。視線を上げれば、ブラックさんはわたしと目を合わさずにすぐに突き放す。 「それで? てめぇ、何しにきやがった。何にもできねぇくせに」 彼の手には何も握られてはいなかったけれど、きっとすぐに銃なりナイフなり出せるんだろう。わたしが会った中で一番機嫌の悪い今なら、殺されてしまうかもしれない。 けれど、わたしはほがらかに笑った。 「取引をしに来たの」 ふたりのジョーカーがいぶかしむように――――ホワイトさんは顎に手を当て、ブラックさんは瞳を細めるやり方で――――わたしを見据える。 武器を持たないわたしの、これが精一杯の抵抗だった。 「わたしが、ここに残る。だからもうアリスには構わないで」 銃があればよかった。ポケットに入れたまま握れば、それはどんなに心強かっただろう。わたしの言葉に真実味が出る唯一の方法であったのに、ないものは仕方ない。 「は? てめぇ、なに言って」 「そうか。歓迎するよ、」 ふたり一緒に喋ったせいで、そのあと同時に止まってしまった。ブラックさんは大仰に隣に向き合う。 「ジョーカー?! お前何言ってやがる!」 「…………君の方こそ、可笑しいよ。ここは誰も拒まない。そして彼女は、その資格を持っている」 いいじゃないか、と夕飯の献立を決めるみたいな口調でピエロが告げる。彼の底の知れない、何が住むかもわからない深海めいた笑い声が耳に響いた。 「取引は成立。…………改めてようこそ、」 ポケットにない銃を握りしめながら、わたしは頷いた。 |
首を落とす太陽の花
(10,07,25)