「…………寒い」 春から冬へ季節を移動しながら、アリスはいつも同じ言葉を呟く。がいる冬に向かうたびに思うのだが、冬は閉鎖的過ぎる。雪と凍える風に閉ざされて、ただでさえ出不精なクローバーの塔の住人を閉じ込めてしまっている。白く染まった町並みを眺めながら、この界隈はにぎわっているのに治めている人々がそれらを見ているかはわからないのだ。 アリスはビバルディが選んでくれたコートを着込んでいる。可愛らしいピンクのコートだ。彼女のセンスはいつも間違いがない。ここはハートの城の膝元ではないから、アリスに声をかけるものはいないので歩きやすかった。が歩けばいつだってそこかしこから声をかけられたが、アリス一人ならば問題はない。 ひとりで出歩くのは久しぶりのような気がした。三度目のサーカスは前回までとは違い、ひどく長く、そして億劫なものだったので時間間隔がまだ狂っている。そもそも、あれらは現実だったかもあやふやだ。サーカスと監獄が並行線上に存在し、あまつさえペーターに助けられ―――その際、彼は怪我を負った―――戻った城で、それなのにまた監獄に迷い込んだ。ジョーカーはいつだって笑っていた。看守服姿でも、ピエロ姿でも、まるでアリスのことならばなんでも知っている様子で口を開く。その彼が監獄に捕らわれている姉を撃ち殺し、呆然とするアリスの前に現れたペーターがジョーカーを殺してしまった。まるでおとぎ話か、演劇のような現実味のなさだ。大切な人に誰かを殺させてしまった。例えそれが気味の悪いジョーカーだったとしても―――撃たれたあとでも平気で夢の中に現れるような男だとしても―――後味の悪さを感じていた。 に、会いたい。 すべてが済んでようやく思えたのは、それだけだった。彼女はきっとまだ冬に居るだろう。アリスは考えながら、すでに自分が「きっとまだ」と観測的願望を持ってしまっていることに気づけていない。が留まっているという事実は、もう当たり前ではないのだ。 「…………お、アリス!」 「エース」 クローバーの門柱をくぐろうとしたとき、明るい声が聞こえた。エースはさすがに旅用のコートを着込んで、こちらに片腕をあげている。どうしたの、と問えばユリウスに用があったんだ、と笑顔で答えてくれた。やはりユリウスのいるときのエースは落ち着いていて話しやすい。 ちょうどユリウスにも用事があったのでアリスは一緒に行きましょうか、と笑顔で言う。もう家族の一部と化したエースと並んで歩くのは苦ではない。けれど門柱をくぐり塔の中に入った瞬間に、エースの顔つきが変わった。まるで空気を読むような、繊細な表情。 「エース?」 「…………アリス。、いないみたいだ」 「え? なんでそんなこと」 「わかるのかって? 空気でわかるよ。がいないクローバーの塔は、持ち主と一緒でひどくからっぽだから」 くつくつ笑い出したエースに、アリスは疑問符を浮かべる。あたりを見渡してみたけれど、忙しく立ち働く役なしの人々がいるくらいだ。わたし達のことなどお構いなしに働き続ける彼らには、いつもと違う場所など見当たらなかった。 行こう。エースが指差したのは珍しくユリウスの部屋の当たりだ。彼がそこまでの最短コースを知っているはずはないのだけれど、アリスは頷いた。 「…………何時間帯の遅刻だと思ってるんだ、貴様は」 アリスによって導かれた最短コースの先で待ち人はひどく呆れた口調で言い放った。いつもならば呆れるだけだが、今はそれに苛立ちも加わっているようだ。ユリウスが机からエースをじろりと睨む。アリスは隣の人がいったい何時間帯外で彷徨っていたかは想像できない。 「あはは! ごめんごめん。サーカスが終わってからすぐに向かったんだけどさ」 「お前は一体いつになったらまともに目的地に着くようになるんだ。まったく…………」 「いやぁ、俺もすぐに行きたいんだぜ? けどすぐに旅になっちゃうから不思議なんだよなぁ」 「…………」 額を押さえて頭痛を抱えるポーズをとるユリウスは、本当に頭が痛いに違いない。エースはいくらユリウスが叱りつけたところで悪びれる様子はないし、改善もされない。であれば言っても無駄なのだが、きっとユリウスはそれでも小言を言わずにはおれないのだろう。そしてエースにとってもユリウスの律儀さが嬉しいことなのかもしれない。 そんなふうに二人を観察していたアリスに、ふとユリウスの視線が移される。 「…………ここまでエース誘導してくれたんだろう。悪かったな、アリス」 「ううん。塔の前でばったりあったから、そこからしか案内してないわ」 「それで充分だ。塔の前からでもゆうに五時間帯は迷うからな、こいつは」 「あはは! ひどいなぁ、ユリウス」 「お前は猛省しろ」 はぁ、と幸せが底をつきそうなため息をこぼしてユリウスはアリスに訊く。 「…………あぁ、そうだ。はどうだ? まだ拗ねているのか」 「え?」 「我々がサーカスには連れて行かないと言ったからな。癇癪を起こして迷惑をかけているだろう」 ぞわり、とアリスの背筋に冷たいものが走った。ユリウスはいたって普通の会話を進めているらしくまったくアリスの様子になど気付かないが、それが妙に恐怖を煽った。とっさに声が出ずにいるアリスとは違い、首を捻ったのはエースだ。 「何言ってるんだよ、ユリウス。は城に来てないぜ?」 「…………なに?」 「いやだからさ、来てないよ。はずっと塔にいたんじゃないのか?」 次に気色ばんだのはユリウスだった。そんなはずはない、と独り言のように呟いたあと何事かを考えるように思案して勢いよく机から立ち上がる。いつもならそんなことはしないのに、荒々しく音を立てて机の工具が床に散らばった。急ぎ足でアリスたちを押しのけ出て行くユリウスを慌てて追いかけた。エースをちらりと仰ぎ見れば、彼も頬を掻きながらわけがわからないと言った顔をしている。 「…………っ!」 向かった先はの部屋だった。ノックもなしに勢いよく扉を開け、ユリウスは中にはいる。アリスはその様子に隠しきれない不安が競りあがるのを感じていた。の部屋は覗いてはいけない、と不安を確信に変えるまいと必死になる。けれど結局、アリスはそれを受け入れなければいけない。 の部屋を恐る恐る覗くと、呆然と立ち尽くすユリウスを中心に何の変哲もない客室があった。まるでこれからお客様を迎えるような、使われた痕跡などまったくない部屋。クローゼットだけがの服を収納していたけれど、それだけだ。きちんと整えられたベッドメイクも、ほこり一つない鏡台もここにがいたことを物語るものがない。 「ユリウス、これって…………」 「…………あの馬鹿!」 ユリウスが持っていたものをぐしゃりと手の中で握りつぶす。騒ぎを聞きつけたのか部屋の周囲が騒然とし始めた。エースが疲れたように目元を覆うユリウスの指からくしゃくしゃになった紙を抜き取った。アリスはその紙がの意思表示だということはわかったが、見てしまう勇気がない。エースはふむふむと読み進め、やがて納得したように瞳をつむる。 「…………これじゃあ、馬鹿だって言われても仕方ないよなぁ」 彼にしては呆れているような口調が珍しい。疲れているとは違った疲労に目を細め、エースはアリスを見つめる。ちょうどナイトメアやグレイが駆けつけたが、アリスにはエースを見つめ返すので精一杯だった。どうしたの、と声には出さずに尋ねる。 「さよなら、だってさ」 たぶん、言葉をすべて要約したのだろう。けれどアリスを絶望させるには充分だった。 さよなら。それはいったいが誰に対して、どんな気持ちで綴ったものなのだろう。こんなに部屋を綺麗にしてしまって、もとからものが少なかったけれど、この部屋にはもう人間味を感じられない。いつだっては日常生活のものを小瓶で買うようにしていた。まるで旅先へのちょっとした荷物のような、あの寂しさを思い出してしまう。 ナイトメアやグレイが背後で何事か問いただしているのが聞こえる。エースが呆れながら手紙を彼らに渡しているのも見えた。けれどアリスはユリウスの背中以外は見ていなかった。ユリウスは怒りを溜めているような、ふつふつと煮えたぎる感情を押し殺そうとしているように見えた。 さよなら。小さくけれどはっきりと、すぐ近くでの声が聞こえた気がした。 |
自己完結の終焉とひとりきりの涙
(10・07・25)