監獄は冷たく平らな空気に満ちている。は石壁に寄りかかりながら座り、ぼんやりと同じ天井を見上げている。そうしてこの監獄には窓がないことを唐突に発見した。あぁ、だから昼も夜も夕方もないのか、と妙に納得する。
は牢の中にいる。自身がそうであるべきだと望んだからだ。ピエロのジョーカーは自分で入るべきだと言ったけれど、結局彼が牢に入れてくれた。わたしが押しても引いてもてこでも開かなかったのに、目をつぶってと言われてから開けてもいいと言われるまでの間に牢の中にすっぽりと入ってしまっていた。囚人服も着るかと尋ねられたが、それは断った。あの子どもじみた人形の頭やしましまの囚人服は見ているだけで気が萎える。それにブラッドにもらった服を銃の変わりにしようと思っていた。丈の短いワンピースでは寒いかもしれないと思ったが、監獄は冷たくも温かくもない、しいて言えば石畳の固さだけが問題である場所だった。足を投げ出しながらぼんやりとするには、これ以上静かな場所はない。
ふと、以前エリオットが監獄に入っていたことを思い出した。ジョーカーの悪戯だろうが、その風景はなんとなくの脳裏に思い描くことが出来る。見たこともない風景なのに、まるで自分の目を通して見てきたように鮮明だった。エリオットはうな垂れたまま、牢につながれていた。悔いているように肩を落とし、けれど体から何らかのエネルギーを発散させているので妙に生々しく見える。


「おい」


目は開いていたはずなのに、突然そこにジョーカーが現れた。ひと目でブラックさん方だと理解して、わたしは形だけ微笑んで見せる。彼は腕を組んだまま、牢に入る前と一緒で険しい表情をしていた。彼は牢の中にいる。


「どうしたの」
「…………余裕ぶってんじゃねぇよ。てめぇ、何だってこんなことしやがった」


別に余裕ぶっているつもりはないのだが、ジョーカーは苛立たしげに言う。ジョーカーの言う『こんなこと』がわたしにはよく理解できなかった。自分から進んで監獄に来たことなのか、それともアリスの身代わりになると申し出たことなのか、はたまたパーティドレスのような漆黒のドレスに身を包んだままでいることを言っているのか、愚行が多すぎて見当がつかない。けれど目の前のジョーカーの瞳が、それ全部だと物語っている。


「さぁ、どうしてかな」
「…………わかってるだろ」
「わたしは何もわかってないよ」


笑ってみたが、弱々しく生気のないものみたいな形になった。ジョーカーは足を踏み鳴らす。だん、と静かな監獄に響く乱暴な音。


「てめぇはわかってるはずだ。こんなことしてもアリスの為になんかならねぇ」
「…………」
「むしろ迷いが深くなるだけだ。てめぇを犠牲にしたんだと、アリスはもっと悩む」


声は凶暴なのに言っていることはひどく優しい。心の奥、誰にも触れない場所に置き去りにしたものを救い上げてくれるような声。


「…………そうだとしても、これしか方法が思いつかなかったの」
「あ?」
「犠牲かどうか、も大丈夫。手紙を書いたし、アリスにはペーターがいるもの」


クローバーの塔を出るときに私物はあらかた片付けた。ナイトメアに貰った大量の服はそのままにしたが、それ以外はあっさりとしたものだった。すべてが小さなゴミ袋に収まってしまい、そのあっけなさは逆にわたしを悲しくさせた。たった一枚の便箋に丁寧かつ簡潔に言葉を選び、真っ白な封筒に入れて宛名は書かずにベッドの上に置いてきた。そうして部屋を出てから数人の役なしに城に行くことを告げたから、しばらくは気付かれないだろう。誰に会いに行くとも何をしに行くとも告げなくても、役なしの彼らは疑問に思わない。
気だるげに立ち上がり、わたしはジョーカーを見つめる。かつて会話をするだけで胸を浮き立たせた人だ。こうやって向き合って話をしたいと思っていた。


「それに、わたしにもここに入る資格はあるでしょう?」
「…………てめぇの場合は捻じ曲がってるがな」
「相変わらず、的確。…………でも、わたしはやっぱり捨てられない。アリスとは違ってるし、あなたの言うように捻じ曲がっているけど、わたしは」


そっと胸の前に手をあてて、気持ちの奥で軋む音を聞こうとする。


「ずっと抱えて生きていこうと思っていた。それを罪だと知っていたから」


見つめあった先でジョーカーはやっぱり仏頂面だった。そういえば、この人が楽しげに笑うのをしばらく見ていない。もう笑ってくれないかもしれないと思うと寂しいが、彼はわたしを責めているのだから仕方ないだろう。


「わたし、あなたのことが好き」


言葉にしてみると、重さの分だけ真実だという気がした。ジョーカーがぽかんとした顔になる。


「はぁ?」
「聞こえなかった? わたしはあなたが好き。嫌われても、馬鹿だって言われても」


あまりにも呆けた顔をするので、わたしのほうが首を傾げてしまう。


「最初に尋ねたのはジョーカーじゃない。わたしに『誰が好きで、誰が嫌いなんだよ』って訊いたでしょ」
「…………あぁ、あれか」
「そう。ずっと考えてた。でもいっぺんには考えられないから、ひとつずつ答えを出していこうと思って」


そしたら、とわたしはくすくす笑ってしまった。くすくす、くすくす。監獄には似つかわしくない、あまりにも楽しげな笑い声。


「そしたら、あなたが好きだって簡単に思えた。少なくとも嫌いなんかじゃない」


嫌いな相手に無理に会いたいとは思わないし、こうやって素直に話すこともできない。わたしはひとしきり笑ったあとで、ふと牢の外を見つめた。鉄格子の外側で、あの日アリスと一緒に見た彼女のお姉さんの姿を思い出そうとする。会ったこともないのにアリスの姉が見えたのは、きっとジョーカーのおかげだろう。声には出さずに感謝を込めてジョーカーを見つめると罰が悪そうな顔をされた。


「もうすぐ、だよ」
「なにが」
「アリスみたいに、きっとはっきり見えると思う。わたしが捨て切れなかったものが」


アリスのようにはっきりと形にならないでいるから一人で牢を開けられなかったのだ。この世界は考え込むのに適しているので、随分ゆっくりと物事を明確にしていくことが出来る。徐々にゆっくりと、形をあらわにしていく心。
はっきりさせることで何が変わるかはわからなかった。きっと絶望するかもしれないのに、わたしは愚かにもそれを覗き込もうとしている。
心細くなったわたしに、ばさりと何かが覆いかぶさった。ジョーカーの上着だ。見上げると、瞳を細めるジョーカー。


「いくらここが寒くねぇっつっても、んな格好してりゃぶっ倒れる。胸糞悪い薔薇なんぞ見せびらかしてねぇで、それでもかぶってろ」


言うなり、現れるのと同じくらい唐突にジョーカーは消えた。わたしは彼のぬくもりが確かに残る看守の上着を肩につっかけながら、笑い出してしまった。彼は本当に優しく、けれど誰よりも辛らつな人だ。
監獄に窓がなくてよかった。もしあれば、外を憧れて考えることをやめてしまっていただろう。瞳を閉じて心の奥に潜ると、彼の上着のせいか温かなものに包まれた。
























くちびる弾丸







(10・07・25)