「…………がいない?」 ブラッドは気だるげに肘掛にのせた腕に顎を乗せている。まったく要領を得ない、と言った表情で先ほどユリウスが言った言葉を反芻させた。 現在、アリスとユリウス及びエースは帽子屋屋敷に来ている。の手紙を読んだあと、ユリウスはナイトメアに問われてもグレイに肩を掴まれてもすべて振りほどいてここに向かった。わたしとエースが走って追うのがやっとだった。ユリウスは常の彼ではなく、そして今はまさに非常事態だ。アリスは胸の上で拳を握る。 ブラッドは外でお茶会を開いていた。双子もエリオットも呼ばれていたのですんなりと屋敷内に入り込めたわたし達はこうやってブラッドと相対している。ユリウスを見た途端にエリオットが気色ばんだが、ブラッドが手のひらをあげて止めさせた。 「まったく、突然来て何を言うかと思えば…………お嬢さんがいなくなったことと、私と何か関係あるのか。時計屋」 「…………はぐらかすな、帽子屋。貴様をサーカスに連れて行ったな」 サーカスに。 アリスは驚いてブラッドを見つめる。はクローバーの塔の住人にサーカスには連れて行けないと言われていた。アリスにはそれが、他人事とは思えない。自分だって無理を言ってペーターに連れて行ってもらったのだ。 ブラッドは唇の端を持ち上げて、怪しく微笑む。 「だから? お前たちに見捨てられた憐れな彼女がここに来たと思ったのか」 「…………はハートの城に行くと言っていた。だが、エースもアリスも会っていない。加えてゴーランドはがどう頼んだとしてもサーカスになど連れていかんだろう」 「ほぉ。大した友情だ。遊園地のオーナーは信用できるが、私は信用できないと」 「愚問だな」 ユリウスの声音はいつもよりずっと低く、怖かった。エリオットが背後で苛々し、今にも飛び掛らんばかりの体制になる。ハラハラするわたしの隣でエースがかちん、と剣を鳴らして相手を牽制する。まさに、一触即発だ。 「待ってよ。ユリウス」 「…………アリス」 「どうしてがサーカスに行ったって思うの? だって手紙には――――」 ナイトメアに渡された手紙を思い出して、アリスは胸の奥がずきりと痛む。手紙はたった一枚の便箋に、半分ほどの文字で綴られていた。我侭ばかりでごめんなさい、と始められた文章はナイトメアやグレイやユリウスに感謝を述べて、あるべき場所に戻ります、と締めくくられている。あるべき場所。らしい言い回しだ。アリスにとって、それはとてつもなく果てしない言葉に思える。 「…………手紙?」 ブラッドが視線を細めて問う。アリスは頷いた。 「手紙があったの。クローバーの塔の、の寝室に」 「…………ほぉ。それにはなんと?」 「詳しいことは何も書かれていなかったわ。ただ、自分はあるべき場所に戻るから今までありがとうって」 エースのように「さよなら」と直訳的に訳すことは出来なかった。もちろん手紙の意味と意図はそうだろう。はやんわりとこの世界と決別した。実にらしいやり方で、最初から全部嘘のように化かしてしまった。 エリオットが「おい、ブラッド」と声をかける。ブラッドは答えない。双子たちは困ったような顔で斧を構えている。 「…………ふん。時計屋だけが来れば返り討ちにしてやったものを」 杖をぱしりと打ち鳴らし、ブラッドは足を組みなおす。ユリウスは眉間に皺を刻んだまま、唸るように低く応じた。 「やはり貴様か…………!」 「私は彼女の願いに応じただけだ。というか、貴様らはに何を言ったんだ。がここに来て最初になんと言ったと思う」 くるり、ぱしん。いつも魔法のように変身をとげるこの世界の武器。ブラッドの手の中で杖はマシンガンが早変わりし、不穏な音と共に標準がユリウスに向けられた。アリスはびくりと震える。 「ブラッド!」 「アリス。…………君は銃が怖いだろう。もそうだ。彼女は自分がそれを持てば、私達が傷つくことを一番知っていた」 銃身を逸らそうとはせずにブラッドは語る。エースは止めに入る様子もなく、ユリウスも避けようとはしない。アリスばかりが鼓動を早め、不安に駆り立てられる。 「その彼女が…………わたしに銃を一丁貸してほしいと言ってきた」 ブラッドの視線は射るように細められている。アリスは信じられなかった。は暴力的なことが苦手だ。エースの剣もビバルディの斬首刑も、もちろんエリオットの銃だって苦手だった彼女が自分から銃を願ったなんてどうして信じられるだろう。加えて、は前回の会合以来自分からそういうものに携わらないようにしていた。 ユリウスは黙っている。ただ口を引き結び、ブラッドをきつく睨みつけていた。 「当然、私は貸せないと答えた。その代わりにサーカスに連れて行こうと提案した」 「サーカスに、行ったの?」 「あぁ、アリス。はサーカスに行った。そうして、彼女の望みどおり迷った」 望みどおり、の部分に力が加わった気がした。ブラッドはマシンガンを下ろして杖に戻すと、すらりと立ち上がる。まるでユリウスなど見えていないみたいに。 アリスが一歩前に歩み、どうして、と問う。 「それが彼女の望みだったからだ。迷うために行くから、置いて帰ってくれとね」 「そんな…………」 「ふぅん。それで、帽子屋さんたちはとの約束を守って帰ってきたんだ」 今まで黙っていたエースが、あまりにも軽く相槌を打つ。まるで軽蔑とも取れるような軽さに、声を荒げたのはエリオットだ。 「てめぇ、まるでブラッドが何もしなかったみてぇな言い方すんじゃねぇよ」 「あれ? …………ごめんごめん。探したのに見つからなかったんだ」 「クソやろう…………!」 じゃき。声と同時にエリオットが銃を構えた。にっこりと笑ったままのエースの手の中にもいつのまにか剣が握られている。 「エリオット」 「エース」 やめて、とアリスが叫ぶ前にそれぞれの主人が名前を呼ぶ。それだけで勢いが制され、アリスは息の吸い方を思い出す。少なくともエースとエリオットは戦わせてはいけない。 「ブラッド! だけどよ、こいつら――――」 「やめておけ。銃弾が無駄になるだけだ」 「いいの? ユリウス。きっと帽子屋さんたちはジョーカーさんの所に行くぜ」 「だとしても、お前が先に手を出していいわけではないだろう」 エリオットが大きく舌打ちし、エースは肩に担いだ大剣をぶらぶらさせている。アリスはそこでやっと、エリオットを含め帽子屋屋敷の使用人たちが全員武器を装備していることに気付いた。普段なら携帯されることのないようなものも堂々と腕やら腰やらにつけて、まるで戦争でも始めるかというように物々しい。立ち上がったブラッドの、見えない怒りが伝わってくるようだった。彼は戦いに行くのだ。 「ブラッド…………」 「そんな顔をするな、お嬢さん。私は彼女と約束を守った。…………だが、探すなと言われたが助け出すなとは請われていない」 それからユリウスに向き直り、今まで見たどんな瞳よりも冷たくひたりとこちらを見据える。マフィアのボスと、ブラッドが恐れられる由縁が理解できる視線。 「ルールを破るなとも言われた気がするが…………私はそのことについて頷いてはいない。愚かな真似はしないと誓ったが、を手放す以上の愚かな真似はないからな」 くつりと笑ったブラッドが、ユリウスを笑ったのは誰の目から見ても明白だった。動けないユリウスを、今更になって慌てている彼を馬鹿にしている。 ユリウスは黙っていた。黙って、まるでそれらが正当な罵倒であるかのように頷いた。 「…………あぁ、本当に愚かだ」 低く冷静なユリウスの声。先ほどまでの高ぶりのままに走ったユリウスではない。アリスは彼の瞳を見ようとしたが、うまく見れなかった。ただ空気が先ほどとは違って澄んでいることはわかった。 「だが帽子屋、お前たちは行くな。ジョーカーの思う壺だろう」 「………百も承知だ。理由にならんな」 「代わりに、私が行く」 ざわり。空気が揺れた。役無しだけではなく、エリオットや双子さえ息を呑んだ。まるでユリウスが言ったことはそれだけで禁忌だとでも言うように、動揺が脈打つ。 ブラッドが値踏みするように、ユリウスを見ている。一言でも彼の気に入らない言動をすれば、すぐにでも銃弾が放たれるのだろう。 ユリウスは静かに、その場を制している。 「ルールを破るのはひとりで充分だ」 言い捨て、踵を返したユリウスはいつ撃たれたって可笑しくはない。それなのにブラッドは嘆息しただけで追おうとしたエリオットに許可すら出さない。アリスはわけが分からずにユリウスの背中を追いかけたが、やんわりとエースに止められた。 「駄目だよ、アリス。君まで行ったら俺がペーターさんに殺されちゃうよ」 「でも…………!」 「大丈夫だ。ユリウスはうまくやるよ。…………それに、俺も居るからね」 にっこりと笑ったエースが、小走りにユリウスを追いかける。 アリスは小さくなっていく二人の後姿に手を握って瞳を閉じ、どうか、と願う。が無事であってもユリウスやエースがきちんと帰ってこなければ、もうこの世界はちゃんと機能しない気がした。まるで上手くいかない世界が広がっている絶望にアリスは恐怖する。それは自分がジョーカーに狙われ、姉の悪夢を見せられたとき以上の恐怖だった。 どうか、無事でいて。 縋れるものがあるのならばすべてに縋りたい。アリスはこの世界に来て始めて、そう願う。 |
絡まる筈のない糸を結び付ける為に
(10・07・25)