まぶたの裏の闇は暖かな、こぢんまりとした牢獄のように思える。
きっちりとまぶたの熱と肩にかかるジョーカーの看守服のずしりとした重さを感じながら、けれど意識はずっと暗闇にいたように思う。この世界で冬を迎えてからずっと、見えない牢獄にすっぽりと覆われているようだった。それは孤独によく似ていて、だからいつだっていつのまにか一人になってしまった。サーカスでもクローバーの塔でも、ひとりで歩いていけると勘違いしてずっと暗闇を歩いていた。なにせこの闇は冷たくないし、特段の恐怖もない。怖いのは闇の奥を知ることだった。それに触れればどうしても、隠していた部分を認めざるを得ない。


「…………ここは、牢獄の中じゃない」


牢の中に入るべきだと言ったのはわたしだ。好きにすればいいと言ってくれたピエロのジョーカーは、牢を開けられないわたしをここに入れてくれた。だからこの牢には自分から入ったのではない。自分から開けたのではなければ、きっとこれもまやかしなのだろう。
ゆっくりとまぶたを開け、そこにある現実にわたしは笑う。そこは牢の外だった。先ほどまで自分がいた場所には何もない。アリスのように姉がいるわけでも、エリオットの残像が見えるわけでもない。


「…………出やがったのか」


小さな声はすぐ隣から聞こえた。視線だけ向ければ、看守服のジョーカーがいる。
わたしに上着を貸しているせいで、彼は暗いねずみ色のシャツと黒地に連なるダイヤの模様がついたネクタイ姿だ。


「はじめから、入ってなかったじゃない」
「…………ケッ。これだから女はタチがわりぃ。入れろと言ったのはてめぇだろ」
「うん。だって、入らなければわからないと思ったから」


ジョーカーの上着を肩口で支えながら、わたしは笑う。随分重たい上着だ。


「わたしは最初から牢獄にいるようなものだし、だからアリスみたいに純粋に惑わされることもできない。ジョーカーの言った通りタチが悪いね」


鉄格子の内側と外側を決めるのはいつだって自分自身だ。そう感じたのはアリスを監獄で見かけたあの瞬間だった。わたしは鉄格子越しにアリスを見ていた。そしてアリスは、お姉さんを『鉄格子』越しに見ていた。つまり、わたしはあのときすでに違う牢獄に入っていたことになる。


「見て」


すい、とわたしは牢獄の中を指差す。じっと見つめればそこにはうっすらと黒い靄が集まり始めていた。やがてそれらが人の形を成し、ゆっくりと知っている人物になるまでに時間はかからない。


「…………あぁ」


声と言うよりため息に近い音が漏れた。あぁ、やっぱり。
わたしが牢獄に閉じ込めていなければいけなかったのは、これだった。諦めよりずっと素直に納得できてしまい、わたしはわたし自身がとても馬鹿な生き物に思える。馬鹿で向こう見ずな、考えるよりも走り出してしまう単細胞。
隣でジョーカーが瞳を見開き、わたしよりもずっと驚いてくれている。


「…………ここは嫌なところだね、ジョーカー」


わざと明るく響くように、わたしは言う。


「知りたくないことをどんどん思い出させる。わたしの罪ばかり晒して、追い詰めて」
「…………それが、監獄だろ」
「自己満足の監獄ね。…………わたしの罪はたくさんあって、ひとつに収まるものでもないのに」


結局、そうなってしまうのだろう。罪を裁くのも認めるのも、自分の仕事ではないとジョーカーは言った。では、罪を罪たらしめるのは誰なのか。
悲しいのか悔しいのか、判別のつかない感情が心をふさいでいく。退路を絶ってまで見に来たものに打ちのめされてしまった。
不意に腕がとられ、信じられない強さに視線が牢からジョーカーに変わる。驚いてまばたきを繰り返すわたしに、けれどジョーカーは腕を掴んだまま探るように壁を睨む。


「…………ジョーカー?」
「黙ってろ。…………ちっ! おいっジョーカー!」


妙に不機嫌になったジョーカーが叫ぶと、どこからともなくピエロのジョーカーが姿を現した。そうしてやれやれと言ったように肩をすくめる。


「やるだけのことはやったよ。そう睨まないで、ジョーカー」
「てめぇがちゃんと仕事しねぇからだろ。まんまと侵入させやがって」
「だって仕方ないだろ? ここは彼らの仕事場でもあるんだし、特別な規制はないんだ。邪魔することは出来ても締め出しは出来ない」


彼ら。わたしはジョーカーに腕をとられながら、もつれる足で彼に寄り添う。眉を潜めて彼らの言動を見守れば、「侵入者」が誰だかすぐにわかった。ジョーカーの上着よりも重い何かが背後にのしかかる。


「…………君が自分から来たって言っても、彼らきっとお構いなしだよね」


ピエロのジョーカーがにんまりと笑いながら、わたしを覗き込む。わたしは否定できない。いつだって頼みもしないのに過保護だったのは事実だし、随分それに甘えてきたからだ。あんな手紙ひとつで彼らが納得しないことも、だからと言って懇切丁寧に説明したところで許可されないこともわかりきっていた。なにしろ、そんなものは構わないともう宣言されていたではないか。


「…………どうしようか。ジョーカー。を隠して、監獄に入っちゃったことにする?」
「まやかしがヤツラにきくかよ。すぐに見破られる」
「でもさ、彼女が自分で俺たちに加担してるってわかったらショックだろ」


いやらしい笑みを浮かべて同意を求めるように向けられた視線を、わたしは睨みつける。そんなことに誰が協力するか。けれどこんな場所で彼らとジョーカーたちを会わせるわけにはいかないと思ったのも事実だった。何を置いてもここは監獄で、彼らは招かれざる客なのだ。
握られた腕が熱くて、ジョーカーらしくもないくらい加減がない。妙に思って振り仰げば、今までに見たどんな彼よりも無表情なジョーカーがいた。


「…………来るなら迎えてやりゃあいい。こういう機会でもなきゃ、やりあうことなんざないんだからな」
「それはそうだけどさ…………俺、君と違って戦いに向いていないのに」


ピエロのジョーカーの声は確かに聞こえたのだが、両隣にいる彼らが今本当に「ホワイト」と「ブラック」なのか、わたしにはわからない。どちらも同じように底なしに冷たく、彼らの手には鞭やナイフがめいめいに握られている。深海に住む、獰猛な鮫に出会ったとしたらこんな気分だろうか。
わたしはもう一度牢の中を見る。先ほどまで、わたしにとって重要なものがそこにいた。静寂が消えるのと同時に姿を消したそれを、ジョーカーも見たはずだ。アリスに姉が見えたように、わたしに見えたものを理解したはずだ。
上着の上からだというのに、ジョーカーの掴む指一本一本がしっかりと食い込んでくる。先ほどから一度も視線を合わせてくれないジョーカーは、きっと彼らを待っているのだろう。わたしはここでこうやって、捕食者に捕まったまま待つしかない。























(10.07.20)