前置きがあれだけありながら、それでもわたしは見つめた先に現れた人々に落胆せざるを得ない。牢獄の石畳の上は先ほどとは違い、うっすらと寒気すら感じた。ジョーカーは緊張した面持ちのまま、わたしに上着を返すように言った。重苦しいそれを返すと、また肩を抱かれるようにして腕が捕まえられる。 ジョーカーは動いたりしなかった。おもちゃの転がる牢獄をただじっと見つめている。まるでそこに現れることが当然とでも言うように、一歩も譲らずに立っていた。ピエロのジョーカーは力の抜けた笑みをたたえたままだ。 「…………あっれー。お出迎えされてるよ、ユリウス」 やがて本当に現れた人物が、牢獄に似合わない爽やかな笑い声をたてた。例えるのならばまばたきをした瞬間に、今までいなかった人物が出現していた。毒々しいほどの赤を背負った男と、藍色の髪の長い男の二人組みは、着地するように一度地面を踏み鳴らす。わたしは眉を潜めてそれを見ていた。嬉しいとも悲しいとも、なぜだか思うことが出来ない。 ピエロのジョーカーが、くつりと笑う。 「よく言うよ。わかりやすい入り方をしたじゃないか。こじ開けて、随分無茶をした」 「そうかな。俺もユリウスも特段無茶なことをしたつもりないぜ?」 「まぁ君たちはここに慣れてるから…………。でも、今日は仕事もないし俺たちは君たちに用事もない。一体何の用?」 挑発のつもりかピエロのジョーカーはことさらにっこり笑う。言葉とは裏腹に手に持った鞭がぱしりと鳴った。こちらを向く騎士服の爽やかな青年―――エースも、大剣を抱えたままほがらかに笑っている。 「あぁ、そうだ。迷子を捜しにきたんだ。ジョーカーさん、を返してよ」 真っ赤な服を着て、うっすらと笑ったままエースが言う。いつもの彼のはずなのに、どうして背筋に寒気が走るのだろう。例えエースがたくさんの顔を持っていて、処刑人でも騎士でも、彼が彼であることに変わりはないのに。 痛いほど捕まえられていた腕が、ふと緩んだ。 「ひでぇ言い草だな、エース。こいつは自分からここに来たんだ。迷子なんかじゃねぇよ」 「ははっ! 違うよ。迷子だからこんな場所に来ちゃうんだ。俺みたいに迷うから、より近づいちゃう」 「だとしても、自分から望んで迷い込んだのはこいつだ。それを今更返せっつーのは虫がよすぎるだろ。迷わせねぇように見張れもしねぇなら、結局無駄だ。…………なぁ、時計屋」 敵意を剥き出しにした声に、藍色の髪がわずかに揺れた気がした。もういっそ懐かしいとさえ思えるほど会っていなかったように思える人物が、そこにいる。わたしは瞳を凝らして、時計屋と呼ばれた彼を見つめた。 ユリウスは眉一つ動かさなかった。ただいつもの冷静すぎる瞳のまま、看守服のジョーカーを見ている。 「そうだ。見失ったのは私たちだ…………。捜してくれと言われたわけでもない」 「自分から出て行ったんだ。探して欲しいわけねぇだろ」 「だからと言ってお前たちの玩具になど、させない」 ゆっくりと、髪と同じ藍色の瞳がわたしを捉えた。懐かしいような、もうすっかり忘れてしまっていた生きている彼に、ひどく居心地が悪くなる。堪らなくなって外した視線の先で、ジョーカーが鞭をナイフに変えたのが見えた。 「こうして話してたってラチがあかねぇ。ちょうど苛々してんだ。ブチのめしてやるよ」 「ちょ、ジョーカー!」 声より先に離れた体は振り下ろしたナイフと一緒に受け止められた。エースが剣で受け止めたのだとわかったが、二度三度と斬りあっている間は音だけがたよりだった。わたしはただ立ち尽くして鋼のぶつかり合う音と一緒に肩を震わせるだけだ。ピエロのジョーカーが楽しげに「じゃあ、俺も行こうかな」と言いながら、するりとエースを通り抜けてユリウスに鞭をしならせる。 「…………あぁ、デジャヴ?」 いつか、こんな場面を見たことがあるでしょう。 自分の中で冷静な部分が語りかけてくる。そうだ、見たことがあるなんてものじゃない。あのときだってわたしは戦いの最中、動けなくなってしまった。最後の会合で、エースとブラッドが斬りあっていて、わたしはひどく焦りながら会場に到着したというのにその場で立ちつくすしかなかった。ここはもうすでに、わたしが問題であることなど構わないのだ。 「…………あれ。どうしたんだよ、ジョーカーさん、なんかいつもより太刀筋が荒っぽいよ」 「てめぇに言われたかねぇんだよ、エース。馬鹿力で押してきやがって」 「相変わらず次元の違う戦いだよねぇ。俺はユリウスの相手でいっぱいなのに」 「そう言いながら、急所ばかり狙うな!」 両方ともすでに無傷ではないくせに、会話だけは飄々とつなげられていく。まるで都合のいい喜劇だ。がんがん、ばしん。わたしは四人が入り乱れ、互いに撃ち合い斬り付け合うのをぼんやりと見つめる。これらに意味はあるんだろうか。わたしのせいだと理解した上で、けれどどうにも納得できない。 アリス。 ここにいない友人を心の中で呼んだ。きっと心配させている、可愛いお人形のような女性。どんな問題でも根底を見極められる人だった。事態を把握し改善策を冷静に見極められる力を持っていた。だからこそ、彼女はこの牢獄で迷う。 アリスならばどうするだろう、と考えて自分の浅はかさを呪った。アリスならばペーターが来てくれただけで嬉しいに違いない。危ない場所にいるのだと自覚し、躊躇いながらも腕を伸ばせるのだろう。 けれど、わたしにはそれができない。腕を伸ばしてしまえる相手だと、どうして言い切れるのだろう。 がん!一際大きな音と共に、すぐ脇に人が倒れ込む。看守服のジョーカーだった。 「ジョーカー?!」 「ってぇな。加減もなしに斬りつけんじゃねぇよ」 上半身を起こしながら唇の端を拭うジョーカーの頬に赤い傷跡が見えた。剣で吹き飛ばされたらしい。駆け寄って膝をつくと、わずらわしげに手をふられる。 「いい。触るな」 「…………ジョーカー。だって」 「んー? 、どうしてジョーカーさんと仲良くなってるんだ?」 疑問というよりは単純に責めているような声に、わたしはエースを仰ぎ見る。エースは血まみれではなかったけれど、それに近いように感じた。瞳の奥でどんよりと暗く光る、エースの心みたいな眼光。 わたしはエースから無理やり視線をはずして、ジョーカーに言う。 「こんなの無駄でしょう。やめてよ」 「はぁ? 当事者が何言ってんだ」 「その当事者だから言うんじゃない。だってあなたも見たでしょう? さっき、牢獄に居たのは――――――」 口にしようとした言葉はそっくりジョーカーの喉に吸い込まれた。 自分が唇を塞がれているということが、しばらくわからなかった。けれどそれはたぶん一瞬のことだ。ただわたしが驚きすぎて頭が働かなかったために、首の後ろに回された大きな手と固い唇を認識できなかったのだろう。 やがて顔を離したジョーカーは、あがった息のままでわたしを睨みつけた。 「黙ってろ」 恐ろしく低い声だった。命令だ、と理解した途端に顔がかっと熱くなり、体中の血が沸騰する。激情に名前をつけるのなら屈辱で、どうしたって否定しなければ許せないと感じた。今この場で、彼がわたしから隠そうとする事実を捻じ曲げられないために。 気付いたときには右腕を振り上げ、そのままジョーカーの左頬を打ち付けていた。 「ふざけないで」 怒っていたはずなのに声が震えた。右の手のひらが熱くて、熱がすべて集まったように感じる。渾身の力を込めたはずなのに、ジョーカーの頬はうっすらと赤くなっただけだ。 「黙らない。こんなことは無意味でしょう」 「…………」 「だってわたしはあなたを殺せない。ジョーカーを殺せないのなら捕まるか逃げ出すか、どちらしかない」 言っているうちに悲しくなり、どんどん自分が愚かに思えた。エリオットは自分自身でここを出て行った。銃口をジョーカーに向け、躊躇わずに彼を殺して監獄をあとにした。 わたしにはジョーカーを殺せない。牢の中で確信したのはそればかりだった。 「じゃあ逃げ出すってのか」 ひゅ、と風をきる音と冷たい感触が首に押し当てられるのは一緒だった。ナイフだ、とジョーカーの瞳が険しくなったのを見て確信する。側面がぴたりとあてられているので首の皮膚があわ立つ。冷たい感触に眉を潜めたけれど、それだけだ。わたしはただじっとジョーカーの瞳を見つめた。 「…………だから、は俺たちと一緒に帰るんだって言ってるじゃないか」 ナイフとは比べ物にならない風と圧迫感。エースは躊躇いもせずにわたしとジョーカーの間に剣を振り下ろした。即座に避けたジョーカーは距離をとったけれど、わたしは目の前に突き刺さる剣を呆然と見つめた。よく磨かれた鋼には、目を見開いた自分がいる。 「あっぶねぇな!」 「はははっ! 見事にフラレたね、ジョーカーさん。それには逃げ出すんじゃないよ。…………あるべき場所に帰るんだ」 ゆっくりと引き抜かれた剣。エースはにっこり笑ったまま、わたしの腕をとって立たせた。それから覗き込むようにして、瞳を捉えられる。 「そうだろ? 」 あるべき場所。わたしの手紙を読んだのだろう、エースが確かめるようにもう一度訊いた。エースの瞳は言葉とは裏腹に、どこか迷っているようにも見えた。もしわたしが否定するのなら、彼はわたしを殺すのかもしれない。 けれど答えるよりも早く、エースがわたしの肩を押した。悲鳴よりも先に、自分のいた場所にナイフが刺さるのを見て息を呑む。 「駄目じゃないか。処刑人がそれじゃあ、ちっとも秩序が保たれない」 ピエロのジョーカーが、薄ら笑いを浮かべたまま両手にナイフを持っている。わたしは押されたままに後退し、後ろに倒れ込むところを――――頭を打つ、と覚悟し目をつむった―――支えられた。大きな手のひらを背中に感じて、わたしはそれだけで自分の背後に立つ人物がわかった。かつて何度も支えられた手だ。 「お前がそれを言える立場じゃないだろう、ジョーカー」 ユリウスの固くて低い、冷静な声。わたしは頭上から聞こえる声に自分がひどく安堵していることを知った。現れた瞬間には絶望しかけたのに、こうやって支えてもらえばひどく安心する。さらり、と視界の端に藍色の髪がなびいた。 「どうして。俺は楽しませようとしているだけなのに」 「…………貴様は干渉しすぎた。秩序を保っていないのはお前のほうだろう」 「俺は道化だからね。惑わすのが仕事だ。…………でも、ユリウスがそんなに怒るのを見られたのはいい気分だよ」 肩を掴んだままのユリウスの手のせいで、わたしは振り向くことが出来ない。だからユリウスがピエロのジョーカーの言うように「怒った」顔をしているかはわからなかった。ただ、空気がかすかに音をたてたのがわかった。ぴしり、とも、ぱきん、とも聞こえたそれと同時に石畳が揺れた。 「………え?」 視界に飛び込んできた光景に身がすくんだ。監獄がひび割れていく。空間に裂け目が入り、監獄と言わず風景自体が壊れていく。ぱきん、ばらばら、がしゃん、ぴしり。まるで潰されていくように重圧に耐えかねた風景は音をたてて割れていく。ちょうど鏡のように乱反射を起こしながら、監獄は失われていく。 「おっ、ユリウス。やるなら言ってくれよ、あぶないぜ」 「エース」 「俺も協力する…………それにを支えてないとな」 駆け寄ったエースが舞い散る破片から守るようにしてわたしの傍に立った。どんどん崩れていく監獄に、けれど驚いているのはわたし一人だ。ジョーカーはふたりとも呆れに近い表情で成り行きを見守っているし、ユリウスとエースも特段の変化はない。 ただわたしだけが監獄が壊れることを、どこか釈然としない気持ちで見ている。 「…………それで、本当にいいの?」 傍にいるわけでもないのに、聞こえたのはピエロのジョーカーの声だった。わたしは遠くに居る彼を睨みつける。少なくとも、わたしは牢獄に居場所などない。 答える代わりに瞳を閉じてユリウスの服のすそを握った。ぎゅ、と握ると肩を支えてくれていた手に力が篭る。 ばきん。一際大きなカケラが壊れ、ばらばら崩れて消えていく。閉じたまぶたの向こう側で監獄が完全に消失したのが見えた。 |
最上階から投げた宝石の結末
(10.07.20)