わたしが迷ったのだとすれば、この人たちと戻るのは甚だ可笑しな話だ。
背後にユリウスの、右にはエースの気配をしっかり感じながらわたしは思う。どうしても監獄に行く必要があったけれど、そのために失うかもしれないものを覚悟していたのに、それをありのまま許されるような格好で二人の傍には居ていけない気がした。まるで自分が大切にされていることを、最初から知っていたような振る舞いはすべきではない。
―――――――――それでも。
まばたきの間に変わる景色をぼんやり眺めながら、それでもここに帰ってくることを躊躇わなかったことを少しだけ嬉しく思った。先ほどまで監獄に居たというのに、もうここはすっかりユリウスの部屋だった。今はクローバーの塔に繋がれた、元々は懐かしい時計塔の、彼の部屋だ。


「あ〜………つっかれたぁ」


赤々と暖炉の燃える絨毯に座り込み、エースが伸びをする。わたしは突っ立ったまま機械油の匂いのする部屋を見渡す。様々な工具の並んだテーブル、螺子と歯車のつまった木箱、椅子にかけられた冬用のひざ掛け、もうあらかた読み終えてしまった本棚の隣には大きさも時刻もまちまちの壁掛け時計がある。いつかここがわたしの部屋だったとき、傍にあるものはすべて味方だった。例えばクローゼットも黒電話も、使わないくせに置かれているシュガーポットも、そこにあるだけで安心できた。それは多分、この部屋にあるものすべてがユリウスのように優しかったからだ。
エースがまるで自分の部屋のように寛ぎだすのを見ながら、わたしはそこでようやく気付いた。


「エース?」


言うなり、わたしはエースの隣に座り込む。そうして逃げられる前に腕を掴んだ。エースは顔を若干顰め、けれど怒ることもなくからからと笑う。彼の腕は服のせいだけではなく、赤黒く汚れていた。


「…………怪我、してるの」
「そんなに酷いもんでもないよ。空間を破ってこれくらいなら上々だろ」


肘から下にかけての染みに眉を寄せれば、珍しくエースは真面目に答えてくれた。わたしは腕を掴む力が抜けていくのを感じる。そうして、まだ突っ立ったままのユリウスを仰いだ。


「…………どうして? 出入りはできるはずでしょう?」
「………無理に押し入ったんだ。これくらいの怪我くらいは負う」


自分も右腕を庇いながら、ユリウスは事も無げに言う。じんわりと湿った熱が指に伝わり、手のひらを見ると血がついていた。エースの血、と頭では理解できているのにわたしの体は動かない。
怖い。動かない指だけがわたしの視界を占める。けれどこの傷を負って彼は戦ってくれたのだ。わたしは奥歯を噛み締める。


「傷を見せて。手当てするから」


感謝の方が先だろうとか、二人に合わせる顔がないとか、たくさん言い訳はあったのにわたしはどれも使わなかった。ただ必死にエースの腕をとって、いつのまにか安心しきっていた自分の愚かさを呪った。ここでは生き死にが驚くほど軽く、傷を負ってもいつのまにか治ってしまう。役持ちなら傷をおうことすら稀だから、どこかで安心していた。
救急箱を持ち出してエースの隣にしゃがみこむ。


「ユリウスも座って」
「…………私は」


相変わらず立ったままのユリウスに言うが、彼は動こうとしなかった。わたしは胸が押しつぶされそうになる。怪我をして、こうやって悔やんでくれている、自分ではない誰かがいるという事実が苦しい。


「お願いだから、座って。手当てをさせて」


わたしの方が傷ついたような声を出し、ユリウスは渋々エースの隣に座った。わたしはそっと慎重にエースの袖を捲り上げ、男の人らしい逞しい腕に無数の切り傷を見つける。まるで割れたガラスが頭上に降り注ぎ、ふせぐためについた傷のようだった。じくじくと血が流れ、熱を持って赤く腫れているのを見たときわたしは不覚にも泣きそうになった。左手で消毒液につけた脱脂綿を持ち、唾を飲み込みゆっくりと傷口を消毒していく。


「なぁ、
「…………なに」
「ジョーカーさんと一緒に居たかった?」


随分痛むはずなのにエースは顔色ひとつ変えない。わたしは腕を止めて、彼の吸い込まれそうな瞳を合わせる。エースの目はからっぽだからいつだって飲まれてしまいそうになる。力なく首を振って、わたしは包帯を巻きつけた。


「…………ううん」
「ははっ。よかった。一緒に居たかった、なんて言われたら俺たちの方が悪者だからな」


空笑いの響くユリウスの部屋は暖かだ。わたしは丁寧に包帯を巻きつけながら、息を吸うのも困難なほど苦しくなる。酸素が薄いのではなく、喉が上手く空気を取り込めない。それなのにあふれ出しそうになる感情ばかりが口といわず目といわず、あらゆる場所から相手にそう伝えようとする。


「…………ごめん、なさい」


もう駄目だ、と思ったときにはしゃくりあげていた。ぼろぼろと流れる涙はいったいどこから溢れてくるのだろう。目を開けていられずに、わたしは目を瞑って泣いた。洪水のように流れ出る涙が、頬や首をつたってとにかく感情を体から吐き出そうとする。
あぁ、だからだ。誰かが傷つくことを知っていたから、わたしは彼らが助けにきてくれたのに心から喜べなかった。


「わたし、エースやユリウスを失うところだったの?」


自分の身勝手さで誰かを巻き込んだとしても、傷つけたりしたいわけではなかったのにあっさり願いは打ち破られてしまった。いくら強くても、戦いと無縁な人でも、こうやって当たり前のように傷ついてしまう。


「俺たちには代わりが居るよ」


そうして当然のように、死ぬことに無頓着だ。エースの瞳は虚勢を張っているわけではない。ユリウスも瞳を伏せて、肯定を示している。わたしは瞑った目を開けて、挑むようにふたりを見た。


「代わりなんていない」
「…………」
「いないの。本当なの。…………みんなみんな、ここでは誰もが自分には代わりが居るって言う。それが普通なんだって教えてくれる。でも、ちっともわたしの言っている意味は理解してくれない」


無数の切り傷を隠す真っ白な包帯に両手をあてると、ひどく熱かった。


「ここの常識なんて関係なく、わたしにとってはひとりしか居ないの。エースもユリウスも、わたしにはたったひとりなの」


理解して欲しいとは思わない。もしわかって欲しいと望むのなら、わたしだって理解しなければいけない。この世界のひどく軽い命について、そんなものを受け入れるわけがないのにふりをしなければならない。
目を真ん丸くさせたふたりに、わたしは無理やり笑顔を向けた。


「わからなくていいよ。その代わり、わたしも理解しない。………余所者にしか出来ないことだから」
「…………?」
「ふたりに何かあったら目が溶けるほど泣いて、怒って、言葉の限りに罵倒してあげる」


そっと手を離すとエースは口元を引きつらせて笑い、ユリウスは心底呆れた顔をした。助けに行って名誉の負傷を受けたのに罵倒なんてされた日には気分が悪いなんてものじゃない。


「うーん。それじゃ、俺もユリウスもうっかり死ねないな」
「うっかり、で死なないでよ」
「はははっ。まぁ旅をしてればいろいろあるんだよ。でもさ、


よいしょ、と立ち上がったエースは首を痛めそうなほど背が高い。手当てをしたから手袋をしていない右の手のひらが、わたしの頭を優しく撫でた。


「俺はともかく、ユリウスはルールを破っても君を連れ戻すつもりだったんだ。そこんとこはいい加減、わかってやってよ」


ね、と笑ったエースとユリウスが目を剥いたのは同時だった。そうしてユリウスの小言が始まる前に「じゃあね!」と軽やかに去っていく。突然色をなくした部屋に、いっきに冬が戻ってきた。静寂とモノトーンが似合う、彼そのものの部屋。
わたしには、たったひとりなの。自分で言ってみてその言葉の重みに圧倒されてしまう。代えのきかないものなんて、ここでは作るべきじゃなかったのに。


「ユリウス」


ぶつぶつとエースに恨み言を呟いていたユリウスがわたしに向き直る。かつて、大切なものを作るなと忠告したのはこの人だった。長く留まればわたしの足かせになるといい続けてくれた。優しくて賢い、そして随分ずるい人。


「腕を出して、手当てをするから」



































(10.07.20)