ユリウスと二人きりになるのは久しぶりだった。彼の上着の袖をめくり、細かな切り傷を見たときにはまた顔を顰めざるを得なかったけれど、エースのときよりは落ち着いていられた。脱脂綿に消毒液を染み込ませ傷口を丁寧に綺麗にしながら、時折じわりと溢れる涙を手の甲でぬぐった。抑えようと思うのに涙は溢れて止まらずに、壊れた蛇口みたいにしまり悪く雫を落とす。


「…………あまり擦るな」


ぶっきらぼうな声が、包帯を手に持ったわたしに言う。ずっと無言だったユリウスの声は少し掠れていた。わたしはぼろりと大きく流れた涙を拭いながら、返事をする。


「仕方ないでしょ。勝手に流れるの」
「…………お前を泣かせようとして助けたわけじゃないんだ。泣くな」
「泣くなって言われても無理。だってわたしが馬鹿だったから、ユリウスもエースも怪我を負って」


包帯を巻きつけていた手が止まり、喉が苦しくなってぎゅっと目を瞑った。後悔の波はこうやって襲ってくる。呼吸が難しくなって、たちまち自分を見失う。


「わたしは勝手に出て行ったのに、どうして助けたりしたの」
「…………
「すごく身勝手な言い分だってわかってる。助けてもらわなきゃ出られなかったことも、知ってる。でもだからってあなたにルールを破らせたかったわけじゃないの」


ユリウスの腕は怪我のせいで熱を持っている。その腕を両手でそっと包むようにして、わたしは顔を伏せた。頭の中でひどく冷静な部分が、自分をあざ笑っている。ルールを破らせたくなかったなんて、彼の誠実さを考えれば予想もついたでしょう。
それでもわたしは放り出されるべきだった。この世界で奔放に振舞いすぎた報いを、受けるべきだった。


「私はお前を見失うわけにはいかないんだ」


ひどく静かで深い声と共に、温かな指が右頬を撫でた。わたしは涙を流したまま、うっすらと目を開ける。ユリウスは困ったような微笑を浮かべていた。その穏やかさに耐えられなくて、わたしは眉を潜めた。


「どうして、ユリウスが責任を持つ必要があるの? だってこの世界を選んだのも、残ったのも、わたしの責任なのに」
「…………
「あなたばかりが責任を負って、誰かに責められる。知りたいと望んだのはわたしなのに、教えてくれたあなたが責められるのは間違ってるでしょう?」


いつだってそうだ。わたしはジョーカーの言うとおりアリスよりもこの世界を知っていた。知っていなくとも近いところまで来ていたせいで、いつだってユリウスは悪者扱いされてしまう。そう気付いたのは知ってしまったあとだった。ペーターがアリスを真実に近づかせたくなかった理由を、わたしはそのときすでに知っていた。
正しいものを選び続けられればいいのに。アリスと共に談笑するとき、いつだってそう思った。わたしもアリスも、ひどく自由なくせに不自由すぎる。


「…………いいや、私は責められるべきだろう」


穏やかな表情のままユリウスが言う。独り言めいた声にむっとして、わたしは口を尖らせた。


「知りたいって言ったのはわたしでしょう」
「だが、教えたのは私だ」
「それでも悪いのはわたしなの。だって、強くお願いすればユリウスは頷いてくれるってわかってた」


ユリウスは冷たい物言いをするし、事実他人に無条件に優しい人ではない。一緒に暮らせばそういったことはすぐにわかった。最初は嫌がっていたわたしの料理も渋々食べてくれたし、仕事の間中うるさく喋っていても諌められるのは随分あとだ。付き合いのいい人か、善良な人だ、というのがある程度暮らした結果得られたユリウスへの見解だった。聞けば答えてくれるし、はっきりと答えてくれない部分は粘っていればヒントをくれた。
ユリウスを利用したのだ。探究心を満たすために、わたしは彼を利用した。それなのに、ユリウスは顔色ひとつ変えずに首を振る。


「違う。…………私は、お前が真実を知ればここに留まることを知っていた」


どこか苦悩しているようにも見えるユリウスが、ぽかんとしたわたしの頬をぬぐう。涙のあとを消そうとするように、そっと優しく丹念に撫でられる。


「この世界にお前が落ちたとき、帰る方法はあったんだ。アリスのように心を空にされたわけでもないお前なら、戻してやれた」
「…………でも、わたしがいくら帰りたいって思っても駄目だったでしょう?」
「初めからお前とお前の心には誤差があった。…………それでも、その二つがあるのなら無理をすれば帰せた」


無理をすれば、と言ってくれるユリウスは誠実に答えてくれているのだろう。
あのときのわたしは、と必死に思い出そうとする。元の世界から投げ出されて、たった一人きりで思う存分自由なくせに寂しくて仕方なかったあのとき、ユリウスがいてくれるだけで安心していられた。彼の暫定的な会話やはっきりと指針を出してくれるところが好きだった。
それなのに、それら全部が策略だったのだとユリウスは痛々しく笑う。


「お前は私を恨むべきだ。…………関わるなと教えた私が、どうしてこの世界について尋ねるお前に答えたか考えるべきだった。なによりもお前をこの世界に関わらせて、留まらせたのは私なんだ」


まるで断罪を待つ咎人のように潔く、ユリウスはわたしを一心見つめる。


「ひとところに留まれば、この世界はお前を留めようとするだろう」


すらりとユリウスの口から出たのは、わたしが聞かされ続けた戒めだった。この言葉さえ信じていれば、いつか戻れるのだと信じきっていた遠い日々。


「これは私自身への警告だった。…………お前が傍にいれば、口では帰れというくせに真実を教えそうになる。…………だから時計塔を出て、他に行けと言ったんだ」


余所者だからどこでも受け入れてくれる。事実、わたしはユリウスの傍を離れてお城でも帽子屋屋敷でも上手くやれた。アリスの手引きであらかじめ危ないものはわかっていたし、深く進入しなければ安全だった。
ユリウスの指がゆっくりとわたしから離れる。部屋は暖かいくせに、彼の指が離れた場所が冷たい。


…………お前は私を信じるべきではなかった」


いつのまにか涙は止まり、その代わり心臓がどくどくとやかましく動いている。わたしはまばたきも出来ずにユリウスを見つめるしかない。ユリウスの言うことがわたしの息の根を止めると直感で思うのに、体が動かない。
そっと、ユリウスが零す様に唇を開いた。


「私はお前を…………愛している」


心臓が一際大きく脈打ち、次の瞬間止まったように感じた。それはあながち間違いではないくらい、わたしは衝撃を受けていた。体は硬直し指もまともに動かず、そのくせ内側ばかりが混乱しているので頭の中は星が散らばっている。
口を開いていなくてよかった。もし開いていれば情けない声をあげていただろう。混乱した内側を吐き出すように、叫びともつかない声があがっていたはずだ。
ユリウスは随分落ち着いた様子で硬直したわたしの指から治療中だった右腕を引き抜くと、ぱちりと包帯を止めた。あまりにも綺麗に止めたので、わたしは流れのままそれを見ていた。ユリウスの熱が、遠ざかる。


「…………っ!!」


直感ではなく本能に近かった。わたしが引き抜かれた腕に慌ててしがみ付いたのは、ユリウスが寂しそうだったからでも彼の告白を受けての返事をしたかったからでもない。ただ、本当に本能的にこの腕を逃がしていけないと思った。もし逃がせばわたしはまた後悔することになる。


「………〜っ?! いっ!!」


傷口を思い切り掴んだせいで、ユリウスが顔を顰めた。声を上げられたので気付いたけれど、掴んだ腕を離す気はさらさらなかった。告白の衝撃と今しがたの恐怖で、心臓が悲鳴をあげている。生きている内で心臓の鼓動数が決められているのなら、確実に何年か分をこの数分に使い切った自信がある。
怖かった。背筋がひやりとし、もう取り戻せない恐怖がユリウスにはある。涙目で痛がる、自分をひどく悪くばかり言う人。


「逃げないで」


口から漏れた声は酷く怯えていた。指先が震えて、痛がっていたユリウスさえわたしの異変に気付く。


「…………? どうし」
「逃げないで行かないで、いなくならないで…………。やっと出会えたのに、どうして怖いことばかり言うの」


堰を切ったように溢れた言葉に、わたしははたと気付く。頭の片隅でパズルのピースがハマるような、時計の針が動き出すような、はっきりとした残酷な音がした。音と一緒に枯れていたわたしの瞳にも涙が再び溢れ出す。
怖かったのは気付きたくなかったからだ。知っていたのに知らないふりをして、満たされた幸福に浸っていたかった。
ユリウスがいなかった日々を、そうしていつのまにか訪れた幸福を、壊す術を教えてくれたのもまた彼だった。


「な、泣くな、。どうしてお前は私の前で泣くんだ」
「ユリウスが泣かせるからでしょう。エースにも泣き顔見られるし、不満を言いたいのはわたしの方」
「私のせいか? いや、ちょっと待て。エースの前で泣いたのはアイツが」
「おおむねユリウスのせいなんだから、ちょっと黙って」


かちんかちんぱちり。パズルはどんどん埋まっていく。頭の中が綺麗に片付けられる。
わたしはそれが寂しくて堪らない。あやふやでも、この世界は薄甘い幸福に満たされていた。アリスのように覆われているものの薄いわたしにとって、それらは毒でもあったのだが、欠けるもののない世界は永遠を形作っていた。
わたしが零している涙は、きっと偽りを許容していた膜だ。ぼろぼろと剥がれ落ち朽ちていく、安全膜。


「…………ユリウスの大馬鹿」
「…………」
「ばかばかばかばか。あたまでっかち、とうへんぼく、おたんこなす………っ」
「…………」


罵倒し慣れていないわたしにとって、それは精一杯の嫌がらせだ。ユリウスはわたしに腕を思い切り掴まれながら、アホらしい語彙で形成される罵倒を受け止めてくれる。深い藍色の瞳がわたしをきちんと見据えるので、泣き顔のわたしがそこにいるのがわかった。
みっともない。わたしは腰を浮かして腕を離し、その代わりユリウスの首に抱きついた。思わず倒れそうになったユリウスは、それでも根性で倒れない。


?!」
「…………おもしろくない」
「は?!」


思い切りのしかかってやったというのに倒れなかったことが面白くなくて、わたしはまた反動をつけてユリウスにぶつかった。変なうめき声をあげてユリウスがそのまま倒れる。ごつ、と嫌な音がしたのできっと頭を打ったのだろう。一緒に倒れたわたしはユリウスの胸の上に頭をくっつけて、くすくす笑う。涙を流したまま、くすくすと。


「やっと倒れた」
「…………っつ! お前、恨めとは言ったが地味な嫌がらせをするな」
「馬鹿ユリウス。恨んでないよ。…………ただちょっとムカついただけ」


ひとりで背負ってわたしを置いていこうとするから、隠していた最後のピースが埋まってしまった。わたしが見てもいい、これはきっとぎりぎりのライン。
だからもう何も見えないように、わたしは瞳を閉じる。男の人らしい広い腕の中で、ちくたくちくたく時計の音が心地いい。


「聞いて、ユリウス」
「…………なんだ」
「わたしもあなたを愛してる」


途端、時計の音が妙に大きくなった気がした。


「はぁ?!」


すっとんきょうなユリウスの声が、頭上で聞こえた。わたしは顔をあげずにくすくす笑ったまま、返事なんかしてやらない。ひとりで懺悔をして、きっとひとりで片付けてしまうつもりだったユリウスへの、だからこれはささやかな反抗だ。
――――――――言ってみろよ。お前は誰が好きで、誰が嫌いなんだ。
牢獄でジョーカーが尋ねた問いの、答えをわたしはもう持っている。ここまでの道のりの険しさと困難さに、わたしはそっとため息を漏らした。
もうずっと前から、この人に囚われ続けていたことを本当はどこかで知っていたのかもしれない。


























(10.07.20)