「…………会いに行かなくちゃ」 ユリウスの胸の上でひとしきり笑ったあと、呟いた一言はいつも通りだった。広い胸の上で言いたいことをあらかた言い終えて、わたしたちの事情はすべてお互いに知ることになった。卑怯な胸のうちも、無意味な計算も、ユリウスとわたしの歴史みたいなものだ。 泣きすぎて腫れぼったい瞳はこれ以上こすってはいけない。固まってしまったままのユリウスの胸から起き上がり、彼を上から眺めるという奇妙な体験を―――それはなかなか壮観で気持ちのいいものだった―――したあと、わたしはしゃきりと立ち上がる。まずはシャワーを浴びて顔色を少しでもよくしなければいけなかったし、それは迅速に行わなければいけない。ずっと心配させてしまっている、彼女をこれ以上待たせないためにも。 「ユリウス、わたしアリスに会ってくるね」 倒れたままのユリウスはぽかんとして、まばたきを繰り返している。彼の驚きはあまりにも失礼な態度だと思ったけれど、隠すべきものがなくなった身軽さがそんなもの寄せ付けないくらい爽快で気分がよかった。 ユリウスの部屋を出て、慣れ親しんだくせにすべてを片付けてしまった自分の部屋に向かう。紺色のパーティドレスのまま、冬の廊下を歩くのは厳しい。指先から凍えていきそうになるのに、わたしの背筋は伸びたままだった。まるでもう恥じることなどないというように、胸を張って歩く。部屋へ辿り着くとクローゼットの中のものはすべてそのままになっていた。わたしは熱いシャワーを浴びて、アリスに会ったあとはナイトメアやグレイにもお礼を言わなくちゃ、と予定をたてていく。 「…………アリス!」 シャワーを浴びて化粧をし、瞳の赤みをきっちり押さえたのを確認した後、わたしは春に向かった。以前ビバルディにもらった桃色のワンピースを着て、まるで何もなかったように、それでも湧き上がる喜びを抑えられないと言った様子で彼女の名前を呼んだとき、確かにわたしは幸福だった。アリスはハートの城の庭先で、あきらかに落ちつかなそうにそわそわと行ったり来たりを繰り替えしていた。わたしが呼ぶと可愛らしくすぐさま振り返り、二人同時に駆け出して抱きしめあう。 「…………! 心配したのよ?!」 「ごめん!」 同姓の友人のいいところは、異性と違って謝罪の言葉がすべらかに口から出てくるところだ。わたしはアリスの胸に抱かれ、また抱き返しながら、柔らかな喜びに包まれる。薔薇の匂いに包まれたアリスの、けれど本当は家庭的な匂いのする彼女は細い指先にめいっぱいの力を込めてくれている。水色のエプロンドレスを着たアリスと桃色のワンピース姿のわたしは、ともすれば似た双子に見えなくもない。 「どうしてサーカスに行ったりしたの? どうして探さないでなんて言い置いたの? どうして、手紙なんて残したりしたの」 加えて同姓の友人は、こうやって理解できない部分をダイレクトに問うてくれる。同じ女性だから、理解できないわたしの行動を正してくれる。 わたしはアリスの肩口でさらさらと流れる栗色の髪に鼻先をうずめながら、うん、とだけ答えた。うん、うん、ごめんね。 「謝って欲しいわけじゃないわ」 「うん、うん」 「ジョーカーは危険だって、なら知っていたはずでしょう? それなのにどうして近づいたりしたの」 いくらか力を弱めてお互いの顔を確認しあいながら、アリスはひどく泣きそうな顔でわたしを見た。綺麗な青い瞳に揺らめく雫が、きらきらと光っている。 「知ってるからって、選べるわけじゃないの」 眉を八の字にして、随分傲慢な答え方をした。けれどアリスはまるで弾かれたように瞬きを繰り返したあと、仕方がないというように笑ってくれる。 「ゴーランドの言った通り…………」 「え?」 「ううん、なんでもないわ。でもユリウスは無事なの? エースは大丈夫だろうけど」 その、扱われ方に差のある騎士は未だに城についていないらしい。わたしより前に出たはずなのにまたどこかで迷っているのだろう。 わたしは牢獄に捕らわれる前にユリウスとエースに助けられたことや、そのために彼らがある程度の怪我を負ったことを告げる。アリスはまるで自分が痛みを感じているように神妙な顔をして、わたしの報告のあと彼女の体験したことを話してくれた。三度目のサーカスで起きたことと、そのあとに監獄で起こったできごと。 わたし達はそっくり話しつくし、できれば楽しいだけで終わらせたかったサーカスがそんなものではなかったことを理解した。二人とも具体的な言葉にはしなかったので、同じようで違う見解だったのだろうけど、だからバランスを保っていられるのも知っていた。 「あのね、アリス」 ジョーカーの話を切り上げ、わたしは自分の話をする。いつか、アリスと約束したのだ。わたしに大切な人が出来たなら、まっさきに教えてね、と笑ったアリス。 「わたし、ユリウスに告白されたの」 アリスの大きな瞳が丸くなり、ついで喜んでいいのかわからない困惑気味の表情をつくる。驚かなかったのは、きっと知っていたからだろう。アリスは色恋沙汰についてわたしより正常だ。言葉にして始めて、胸のうちで明るく灯る熱に気付いた。先ほどまで、それはなかったものだ。 「それで…………は、返事をしたの?」 「したよ。………わたしはユリウスが好きだもの」 口に出す言葉は、ひとつひとつがずしりと重い。言うたびにどこかに刻まれて、知らずうちに縛られていく類の鎖だ。けれどユリウスが好きなことも、また事実だった。アリスほど純粋に思っているわけでなくとも、わたしなりに彼を思っている。 アリスがほっとしたように笑うから、不純なあれこれをわざと話したりはしない。 「そう。…………喜んでいいのよね?」 「…………どうだろ。わたしもユリウスも、お互いに好きだって言っただけだから」 「え?」 「ユリウスは言い逃げする気だったみたいだし、わたしも好きだって言っただけでさっさとアリスに会いに来たから会話らしい会話をしてないの。…………だってあんまりユリウスが驚くから」 肩を竦めるとアリスはそれこそ信じられない、という顔をする。 「話をしなかったの? だって好きだって言ったんでしょう?」 「うん。…………告白されて逃げられそうだったから捕まえて押し倒してわたしも好きだって言ったんだけど……………………。あれ? なんだかこれだけ聞くとものすごく可笑しな情景だよね」 アリスはもう理解不能とばかりに疑問符を顔中に浮かべている。わたしは春の暖かな空気を思い切り吸い込んで、視線を明後日の方向に向けた。 「向き合ってちゃんと話をしないから、わたしはアリスみたいに相手を幸せにしてあげられないのかも」 思えばユリウスがあんなにも驚いたのは、わたしが彼に対してそれだけ愛情を表さなかったからかもしれない。一緒に暮らしたのだから、泣くのも笑うのもずっと共有してきたはずなのに、わたしは彼に対して特別な感情を与えていなかった。 特別なものにずっとなりたかった。そもそも特別になりたかったわたしがこの世界に魅かれたのだから、余所者という地位だけで充分満足しなければいけなかったのに、気付くと欲張りになっていた。ユリウスの特別になってみたいと望んだのは、きっと彼がわたしのことを思ってくれるよりはるかに遅かったとは思うけれど。 「ねぇ、」 悩みだしたわたしに柔らかなアリスの声が届く。彼女は先ほどまで困惑していたのに、瞳を細めて穏やかに笑っていた。わたしの悩みを全部包み込む、まるで姉のような表情で。 「ユリウスと、ちゃんと話をした方がいいわ」 「…………話になるかどうか」 「大丈夫。だって、、嬉しそうだもの」 アリスの小さく細い指が、わたしの頬をつつく。自分ではそんなに緩んでいるつもりもないけれど、どうやら自然に笑ってしまっていたようだ。いつか、ペーターが笑っていたように傍にいるだけで微笑んでしまう類の溶けるような表情ならいいのに、と思う。 ユリウスを置いてきてしまった冬に戻ろう。きっと仕事を始めているだろうし、突然消えてしまったことを怒っているかもしれない。けれどとにかく帰って話をしなければ、とわたしはすっかりアリスにのせられていた。 「うん、よし。ユリウスと、話してみる」 妙に奮起するような言い方にアリスが笑う。わたしはそんな彼女ともう一度抱擁を交わして、名残惜しそうに体を離した。何かあれば、もしくは何もなくとも、どうしたってアリスに会わなければ、と思ってしまう。愛している男を冬に残しても、わたしはいつのまにか走っているのだ。 「アリスが囚われなくてよかった」 「えぇ。あなたも」 微笑んでくれたアリスに、けれどわたしが監獄の中に見えたものの正体は言わなかった。彼女の囚われた姉を思い出し、わたしの無事を喜んでくれるアリスがあれに捕まらずによかったと思う。本当に怖いのは、ジョーカー自身ではない。 もどろうもどろう。例えば何度迷っても、きちんと帰るべき場所があれば見失わないに違いない。 きびすを返したわたしの足取りを助けるように、春風が舞って花びらが先導する。 |
ケーキに刺した鍵の本音
(10.07.20)