「わたし、あなたに会いに来たわけじゃないんだけど」

ユリウスの元に戻る途中、早足で歩くわたしはいつのまにか石畳の上にいた。昼の陽光が差し込む森ではなく、光源のわからない白々しさに晒された監獄はいとも簡単にわたしを飲み込む。音も気配もないのだから、飲み込まれる瞬間までわからない。
靴音が硬質なものに変わった時には、もうなんとなく呆れてしまった。ユリウスが壊したはずの監獄は今も変わらず目の前にあり、見渡すとやはりそこには馴染んだ顔がある。その顔を見た瞬間に、胸につかえた苛立ちが言葉になった。ピエロのジョーカーは監獄なのにサーカスの延長上にいるような、浮ついた微笑みのままだ。


「ひどいなぁ。君が約束を反故にするから、取立てに来ただけなのに」


やれやれと言った調子に、わたしは片眉をつりあげた。


「約束?」
「おやおや、忘れちゃった? 君が監獄にいた理由」


理由。もっともらしく順を追って話すジョーカーはどこまでもふてぶてしい。


「約束なら、アナタの方が先に破ったじゃない」


わたしがわざわざ監獄に行った理由を、そしてそこに留まっていた対価をジョーカーは寄越せと言っている。もちろんわたしが約束をしたものが、守られているのならば払うつもりだったがもうそんな義務はない。


「アリスに聞いたよ。あなたがお姉さんを殺して、ペーターが助けてくれたって」


わたしがここに残るから、もうアリスに構わないで。
取引は成立したはずなのに、堂々とジョーカーはやってのけたのだ。ユリウスやエースのように、ペーターだって傷を負ったのだとアリスは言った。それらが全部わたしの取引以前のことでも以後のことでも、わたしはジョーカーを許してやるつもりはない。
くつくつと、いたずらがバレた子供のようにジョーカーが体を折って笑う。


「なぁんだ。バレちゃったのか」


楽しげなくせにちっとも愉快ではなさそうに、瞳は笑っていなかった。


「でも、君はそれでいいの。時計屋を選んだとしても、安寧が訪れるとは限らない」


監獄が壊れるとき、耳元で確かに聞こえた声がだぶる。あのときだってジョーカーはわたしに訊いたはずだ。選択が間違っていないか、まるで選んだほうが間違いだとでも言うような口調で。


「間違ってない」


だから余計に腹が立ち、わたしは語気荒く返事をする。ピエロのジョーカーはわたしを怒らせることに長けている。まっすぐ睨みつけると、ようやく彼は肩を竦めた。


「やれやれ………君は理想的な囚人なのに、どうもやりづらいなぁ」
「わたしは監獄には囚われないけど、ここに迷い込まないわけじゃない。………もうそれで、充分でしょう」
「充分? そんなものはないよ。いつだって充分だと思っている半分も、ヒトは満たされない生き物だから」


欠けるもののない現在を見透かされた気がして、わたしは身構える。けれどジョーカーは相変わらず笑ったままだ。


「知っている分だけ君は忘れられない。忘れさせたいとユリウスがいくらがんばっても、君はずっとそのままだ」
「………あなたが言うと、まるで呪いみたい」
「そう? だったらそうだな。俺は君が忘れないことを祈るよ。罪悪感を覚え続けて、どうかやりづらい君のままでいてくれますように」


おどけたジョーカーが指を組んで祈る形をとったとき、背景と一緒にぐにゃりと空間が歪んだ。倒れるまいと踏ん張り、ジョーカーを逃すまいと目をこらす。


「ユリウスは永遠を約束してやれない。………彼の目が離れたら、君はまたここに来る」


呪詛よりも厄介な、それは予言を真似た未来だった。わたしは反論したかったけれど声が出ず、違うとも言えない自分自身もまた確かにいることを理解しているから、やっぱり苛立ちばかりが胸をふさいでしまう。虚勢でいいから嘘をつけたなら、彼がずっと傍にいると言ってやれたのに、馬鹿正直なわたしは言えない。
もしもう一度監獄に迷い込むようなことがあったのなら―――。


「そうしてそこに、ユリウスがいないのなら」


声に出してみると、それは起こりうる現実だと冷静な頭が判断する。ユリウスが居ない状態でわたしが迷ったのなら、きっと誰が捜してくれても戻れない場所に行ってしまうに違いない。ジョーカーの薄ら笑いを思い出して、わたしは両腕を抱えて不安に身を震わせた。
それでももう、監獄に留まることなどないと強く思いながら。
























(10.07.20)