ユリウスと話すべきよ。
アリスの忠告どおり、わたしは再び冬に戻ってきた。木枯らしの吹く街角を抜け、物々しく佇むクローバーの塔の門をくぐり、ユリウスの部屋に直行する。その間に誰かに会ったかもしれないが、たぶん役なしの声ではわたしに届かない。なにしろ頭の中では何をユリウスと「話そう」と思っているかわからず、何から整理をつけるべきなのかも判然としなかったからだ。
ユリウスの部屋の前で、わたしの足はぴたりと止まる。何を話せばいいのか、むしろどうやって切り出せばいいのか、まったくわからない。そもそも、自分たちが同じくらい卑怯であったことを告白しあったのだからこれ以上の話し合いは必要なのだろうか。
ノブに手をかけると、ひんやりと冷たい鉄の感触に背筋が震えた。ノックをすれば自分が怯んでしまいそうだったので、そのまま扉をあけることにした。ゆっくりとノブを回し、恐る恐る中を覗き込む。


「………ユリウス?」


まっさきに仕事机に目をやれば、やはりそこにユリウスはいた。けれど作業をしているようには見えない。机には修理待ちの時計が山になっているのに、彼の手には工具すら握られていなかった。しかも机の一点を見つめ続け、しばらくわたしに気づいてさえくれなかった。不思議に思って近寄り、目の前に手のひらを差し出すとようやく瞳をまばたきさせてわたしの顔を凝視する。


?! お前、帰ってたのか」
「う、うん。突然出て行ってごめん。………えぇと、何してたの?」


首を傾げるとユリウスはわたしよりもずっと不思議な顔をした。まるで今しがたの自分が何をやっていたのかわからない口調で、「何も」と答えるユリウスは常の彼ではない。
わたしはとりあえず立っているのも可笑しい気がして、向い側にあった椅子をユリウスの隣に移動させて腰掛けた。その様子に、ユリウスはなぜか目を剥く。


「な、何をしているんだ。お前は」
「何って………話をしようと思ったから」
「なら、机を挟んでもいいだろう。なんだって私に向かって椅子を並べるんだ」


机に向かうユリウスへ直角に椅子を並べれば、当然といったふうに反論された。けれど机を挟んでは遠い気がしたし、並んで話すのでは視線をあわせられない。本当は絨毯の上に向かい合って座りこむか、ソファに並んで話したかったのだがユリウスの様子からそれは無理だろう。彼が狼狽している理由はたぶん、わたしが原因だ。


「さっきの話なんだけど」


切り出し方にまったくひねりがない、と頭ではわかっているものの口をついて出たのはやっぱりそれだった。まるで告白のやり直しのようで、わたしはやっぱり何を話すべきなのか要領を得られない。
ユリウスはわたしに身構えるようにして、体を半分斜めに向けている。全体で向き合うべきかどうか迷っているように見えた。


「わたし達、言いたいことしか言ってないと思わない?」
「あぁ。………特にお前は私を押し倒して後頭部を強打させた挙句に言い逃げしたからな」
「気持ちがハイになってたの。許してよ。だって告白されたのに逃げられそうになったことなんてなかったから」


言えば、ユリウスは逃げようとしたことに関して反論しなかった。彼に逃げるつもりがなくとも姿を消そうとしたことに間違いはないのだ。姿を消して、どうしてしまうつもりだったんだろう。何事もなく今までどおり過ごすには、打ち破ってしまった壁は厚すぎる。


「わたしの前から、もう完全にいなくなるつもりだったの?」


不安になって訊けば、ユリウスは瞳を伏せる。それから机に散らばるネジを見て、呟いた。


「少なくとも、もうクローバーの塔の連中とは顔をあわさないつもりだった」


クローバーの塔。その中にきっちりわたしが含まれていることを、言われなくともわかってしまった。


「わたしの返事は必要じゃなかったの?」
「返事………? わざわざ何故フラれなければいけないんだ。お前、ジョーカーとキスしていただろう」


言われて彼らが監獄に来てくれたとき、確かにキスされたことを思い出した。エースと戦っていたジョーカーの息は熱く、唇は乾いていた。けれど押し当てられてすぐさま、わたしは彼に平手打ちをしたはずだ。


「………喜んでいるように見えたわけじゃないよね?」
「あれだけ盛大に怒鳴ればそうは見えん。だが、あのジョーカーがキスしたんだ。お前は気に入られていたんだろう」
「えぇ……? いや、そうだとしてもなぁ………」
「それに帽子屋や三月ウサギもお前のためにルールを破る覚悟はできていた。トカゲは毎回私に突っかかってくるし、夢魔はとにかく鬱陶しい」


ナイトメアの扱いがひどいことにはこの際目を瞑り、わたしはぶつぶつと唱え続けるユリウスが本当に彼らについて頭を悩ませ、わたしに対する希望的観測を――わたしの気持ちがどこにあるのか、ということを――なくしてしまっていたことを知る。根暗なユリウスらしい、後ろ向きな考え方だ。加えてきっと、彼がわたしに対して意識的にしてきたこと――つまりこの世界の知識を与え、小瓶を預かっていたことなどを――に罪悪感を抱いていることも影響しているのだろう。
わたしはため息を零し、なんとなく目の前にいる人を抱きしめたくなる。けれど話し合っている以上、それはあとにまわすべきだ。


「わたしはユリウスが言うように、みんなと仲がいいよ。でも、一緒にいたい人はもちろんひとりだけ」


もちろん、に力を込めてわたしは出来るだけ真面目な顔を作ろうとする。そうしなければたちまち、頬がだらしなく緩んでしまいそうだった。


「ユリウスが好きだから、一緒にいたいの。わたしにとってこの世界の人は誰一人代わりになんてなれないけど、その中でもユリウスは特別」


やっぱり告白のやり直しになってしまった。押し倒して愛していると言ったあの時のほうがずっとわたしらしい気がするけれど、こうやって相手の目を見ながら恥ずかしげに言うのがまともなのだろう。ユリウスはもう唖然としていなかった。そのかわりにどこか疑うような、いぶかしむような慎重な様子になる。その様子はどこか小動物めいて笑ってしまいそうになった。


「だが、私はお前に……」
「恨んでないって言ったじゃない。無理をして帰そうとしなかったことも、知識を与えてくれたことも、ぜんぶぜんぶユリウスの愛情ってことでしょう?」


言った途端にユリウスの顔が真っ赤に染まり、言い訳ともつかない声が切れ切れに聞こえた。彼が言ったことは確かに策略ではあったのだし、ともすれば元の世界へ帰りたいと泣いていたわたしは怒ったかもしれないけれど、今のわたしはこの人を愛している。こんな浮かれた気持ちでは彼の愛情が多少歪んでいたとしても、詰ることなんて出来やしない。
本当はもっとたくさん問題はある。三度目のサーカスに行く前にわたし達は喧嘩をしているし、サーカスの季節になってからこちらぶつかってばかりだ。本当は相性最悪だったりして、とわたしは冗談ともつかない考えを巡らす。


「………言っておくが」


わたしの思考を遮って、ユリウスが口を開いた。わたしは知らずうちに微笑んで目をあわせる。


「私はお前が思っているような男じゃないぞ」
「それって、ユリウスが根暗で卑屈で後ろ向きじゃないってこと?」
「………お前、そんなふうに思ってたのか」


半ばげんなりとした様子で、ユリウスが半眼のままわたしを見る。


「うん。ついでに嫉妬深いしすぐ怒るし、仕事ばかりで構ってくれないって人だってこともわかってる」


すらすらと言いながら、わたしは自分の声がひどく甘ったるくなっていることに気づく。そうしてそれでも構わない、と思っていることも。


「知っていることが、これだけじゃ足りない?」


ユリウスはもはや呆れを通り越し、額に手を当てて笑うわたしを見ている。そうして何度か口を開こうか迷うような動きをしたあとで、やおらわたしを抱きしめた。二人とも椅子に座っていたからまずユリウスが立ち上がってわたしの腕を引き上げるようなやり方で、けれどこれ以上は我慢ならないという愛おしい性急さも充分感じ取れる抱き方だった。
頭をしっかりと抱えられたわたしは、あまりにも幸福なのに声を漏らすこともできない。


「それでも、いいんだな」


頭の上でひどく小さな、けれどとても思いつめた声がした。


「私はお前を今のように自由にさせてやれるほど、心の広い男じゃない。それでも」


いいんだな。
わたしは目を瞑り、これまで嫌と言うほど自由だったことを思い出す。そうして行き着く先がいつだって波乱と混乱に満ちていたことを苦笑と共に吐き出した。


「あなたがいい。ユリウスが鍵をかけてくれるなら、わたしの居場所はそこだもの」


監獄でもクローバーの塔でもなく、あなたの隣がほしい。
温かく包んでくれる腕に力がこもり、満足するまで抱き合った。ユリウスの腕の感触、男の人の胸の硬さや頭を押し付けるべき場所、そういったものを探りながら自分の腕を彼の背中に回す。わたしは頭まですっぽりと覆われてしまっているのにユリウスの背中の半分ほどまでしか、わたしの腕は回らない。





声が溶けそうなほど柔らかに呼ばれ、わたし達はゆるゆると見つめあう。馬鹿みたいに恥ずかしい、惜しげもない愛情。ユリウスは壊れ物でも扱うようにわたしの両頬を包んで、優しく丁寧に唇を重ねた。キスのとき目を瞑るのはきっと相手しか考えられなくするためだろう、とわたしは考える。


「……覚悟するんだな」


とろとろな声に似つかわしくない言葉で、ユリウスは囁く。わたしはこの人の、こういう実直さが好きだと改めて思った。隠せないところも、そのくせ大事な部分は決して覗かせてくれないところも、器用な指先に似合わず不器用な生き方も、言ってしまえばきりがないほど愛している。
覚悟するのはたぶんどちらもだ。わたし達はふたりで一緒に閉じ込められるに違いない。
幸福な時も、そうでないときも、わたし達が思いあう限りどんなときでも覚悟は必要になる。



























(10.07.20)