読み始めた本が数ページもめくられないうちに、わたしの本当の待ち人は帰ってきた。


「…………」
「おかえり。ただいまを言うのを忘れるほど呆れているの?」


わたしの膝の上にいる大きな犬―――子どものような、彼の部下でもある、結局のところ厄介な親友――――みたいなエースを見つめて、ユリウスは扉を開けたままの格好でこちらを凝視している。手には小さな紙袋ともう少し大きな紙袋がある。小さな方は仕事用だろう。もう一つの方は、わたしが頼んだ食材だ。今日は鍋にしようと思っていた。
ユリウスはやがて長いため息をついたあと、荷物をいったん机の上に置いた。そうしていつもだったらソファに座ってしまうのに、わざわざ暖炉の前まで来てわたしの隣に座る。


「どうしたら、コイツがお前の膝で眠りこける事態に繋がるんだ?」
「さぁ、眠いから膝を貸してって言われて」
「だから貸したのか?」
「ちゃんと尋ねたよ。『わたしはユリウスの彼女だよ』って。そしたら、あなたは心が広いから許してくれるって」
「…………」


エースが自信満々に心が広いと言ったユリウス本人は、苦々しい顔つきでまた長いため息をつく。わたしは読みかけの本を脇においやり、わたしやユリウスが話していてもちっとも目覚める気配すらないエースの頭を撫でる。こうやって撫でても、エースは不愉快そうにしない。


「不思議だと思わない? 今なら、わたしはハートの城の騎士に勝てそうな気がする」
「……………………私には目の前で堂々と浮気されているようにしか見えんな」
「浮気? ふ、ふふ。本当に浮気に見えるの?」


漏れ出す笑い声に、わたしは自分自身で驚く。どう転んでもエースがわたしの浮気相手になるはずがない。醸し出す雰囲気や扱い方、エースの放つ空気にはわたしを甘やかす一切の愛情がないのだ。ただそこにあるのは、彼の欲するゆるやかな空間を求める情念だけ。
ユリウスは自分の発言に赤くなりながら舌打ちをする。


「し、仕方ないだろう。コイツだって男だ」
「まぁ、くくり方は間違っていないと思うけど。男性っていうより、わたしにはエースだから」
「…………?」
「エースって枠組みの方が、わたしにはずっと大きいの」


柔らかな栗色の髪、闇の中で光る赤い瞳、仮面をつけた表情のないマントを着た、さまざまなエース。ユリウスの仕事を手伝っている彼をはじめて見たとき、わたしははっきり拒絶してしまった。全身で、顔中で、彼を拒否した。


「まだ…………エースが苦手か?」


ユリウスの指が伸びて、右頬を撫でる。だからわたしはゆっくりと彼の瞳を仰ぎ見て、わかるくらい小さく首を振った。


「苦手じゃないよ。やっぱりちょっと怖いときもあるけど」
「………そうか」
「そう。だって、わたしとエースは似ているところがあるから」
「似ている部分? ………あるのか。そんなところ」
「例えば、こうやって二人であなたを待っているところ」


ユリウスの部屋で、必ず帰ってくる人を待ち続ける幸福感をきっと彼は知らない。
わたしとエースだけが共有できる、だからこれは同類同士の楽しみだ。
ユリウスはわたしがあまりにも楽しそうに話すものだから、きっと怒るに怒れない。


「…………まぁ、いい。だが迷惑なら言え。コイツは許すとずかずか入り込むからな」
「今まさに実感中…………ねぇ、ユリウス」
「なんだ?」
「今日はお鍋にしようと思うんだけど、ダシは昆布がいいかな。それとも味噌にする?」
「私は昆布の方が好きだ」
「そっか。じゃあシメは雑炊がいいよね。エースはよく食べるから多めに頼んで正解だった」
「やっぱりコイツの分が入ってたのか…………道理で二人分にしては量が多いと」
「だってきっと来る頃かなって思ったから。…………あぁ、そうだ。それとね、ユリウス」
「今度は何だ。言っておくが買い忘れはないはずだぞ」
「それは信用してるよ。そうじゃなくて、わたし、またここで暮らしてもいい?」


立ち上がって仕事に戻ろうとしたユリウスが、ぴたりと動きを止めた。
クローバーの塔での仕事が減ったからといってわたしの部屋までなくなったりしていなかった。ユリウスの部屋で長く過ごしたとしても、ベッドは自分のものを使っていたのだ。けれどそれをこちらに戻そうと思った。はじめはこちらに居たのだから、そうするのが自然なのだ。
ユリウスは一旦作った間があまりにも長く不自然になってしまい、そのせいで余計に動揺しているように見えた。


「…………こんな狭苦しいところに戻ってくるのか?」
「狭苦しくても、広いキッチンがなくても、エースと三人で鍋を囲むくらいはできるでしょ」
「…………………お前はいつもフォローにならないことしか言わないな」
「嘘をつけないって言ってよ。…………手に届く場所に、いてほしいの」


あなたに。
立ち上がりかけの、ユリウスの手を握る。指の長いユリウスの手は安心できる大きさでわたしの手を握り返してくれた。こうやって、穏やかな日々が訪れるとは思っていなかった。


「一秒でも長く、ユリウスと一緒にいたい」


先ほどもエースに言った言葉は、わたし達の間では甘く響かない。響かない理由も、だからわたしがわざわざ口に出したことも、ユリウスはわかっている。
彼を見上げた格好のままのわたしの唇に、触れるだけのキスが降りてくる。離れたあと目をあわせたときの、ユリウスの真摯な瞳が好きだった。


「…………私が拒否すると思うのか」
「ううん。ただ、いきなり来たらびっくりするでしょ」
「お前についてはもういろいろ諦めている。…………好きに使え。勝手は知っているだろう」


短く返事をする。もちろん調理器具の場所も工具をしまう棚も、コーヒーミルの手入れの仕方だって知っている。わたしとユリウスは、もうずっと前から一緒に暮らすための前段階は住んでしまっているのだ。別れたわけでもないのに、ただ戻ってくるのがこんなにも懐かしいのはきっと季節があるせいだ。
わたしはユリウスの腕の中に自分がはっきりと入っているのを感じる。この部屋に居れば、それはずっと簡単に叶うのだ。


「ねぇ、ユリウス」


囲えない腕でも約束をくれなくてもいい。ただ、わたしはあなたと一緒にいたい。


「さっそくだけど、鍋の準備がしたいからエースを起こすの手伝って」
























(10.11.29)