「…………まったく、君たちは老夫婦のようだな」


ぼんやりと明るい、もやのような光の中でナイトメアがわたしに笑った。彼は上も下もわからない場所をふわふわと漂っている。まるで流される葉のように、ゆらゆらとした動き。夢の中だ、とわたしは非現実的な現実を受け入れる。


「それだけ自然に見えていたら素敵だよ」
「…………いや、付き合いはじめたばかりだろう。君たちは」
「そうだけれど、そうじゃないから。だって、同居していた期間が長かったし」


思えばこの世界に落ちてきた瞬間から、わたしはユリウスを誰よりも多く瞳に収めてきた。元の世界であれば見ず知らずの男性と共に暮らすなんて考えられなかっただろうし、そんなものはドラマだけのはずだった。それなのに、わたしはいつだって理由をつけて彼と一緒にいた気がする。
ナイトメアがふわり、と腰をかがめてわたしを見つめる。


「君が幸せなら問題はないさ。ここに留められれば、私も満足だ」
「…………わたしはアリスじゃないのに、留めたかったの?」
「アリスじゃない、なんて拘るのは白ウサギだけだろう。わたしは君のことも、アリス同様大切に思っている」


それに、とナイトメアの手がわたしの耳たぶを掴んだ。


「君のそれは、悪い癖だ。すぐにアリスと比べたがる」
「だって…………」
「君たちは同じようで、まったく違う。好きになった相手が違うように」
「…………」
「そんなことは時計屋が一番よく知っているんだろう?」


優しく微笑んだナイトメアの深いアメジストの瞳に、わたしは不安そうに写っている。
こんなにも近くでナイトメアの前にいれば、どうしたって不安を隠しきれない。ナイトメアは驚くふうなく、そっと耳たぶから手を離した。


「牢の中身を、見たのか」
「…………見たよ。でも、本当はアリスが見ていたお姉さんで、わかってはいたの。だって最初、アリス越しに見えたのはお姉さんの姿をしていなかった」


元からナイトメアに隠しておくつもりなどなかったので、わたしは寂しそうに笑いながら話す。ピエロのジョーカーと話す、アリスの頼りない後ろ姿。その先に見えたものを忘れることなど出来やしない。すぐに看守服のジョーカーに瞳をふさがれ、正しいもの―――アリスが見えていた、彼女の姉の姿――――に変えられたけれど、すべては遅かったのだ。


「アリスは、自分自身に向かって喋ってた」
「…………」
「監獄にいたのはアリス自身だったの」


捕らえられているのは自分自身だというのに、アリスは必死に姉は冤罪だと主張していた。そこにいるものを罪だと認めているのは、アリス自身なのに。


「罪悪感…………ざっくり言うと、牢に捕らえられているのは自分が感じる罪の意識。罪を罪たらしめるのは、いつだって自分だもの。だからね、わたしはわかってしまった。アリスは賢い子だもの」
「…………」
「罪を、そのままに出来る子じゃない。それなのにアリスは強い罪悪感をお姉さんに覚えている。罪を償う方法がわからないから。…………この世に取り返しがつかないものなんて、ひとつしかない」


わたしはとうとう抑えきれなくなって、涙がぼろりと頬を伝った。


「…………アリスのお姉さんは、死んでるのね」


ナイトメアに答えて欲しかったわけではない。ただ、アリスをこの世界にとどめたがるペーターやナイトメアがあんまりにも痛々しいくらい健気に思えてしまった。それはとてつもなくお節介な、馬鹿げた感傷だ。
アリスはいつだって賢く良心的で、もし自分が悪いと思えば全力で償おうとするだろう。それらができないのならば、それがもう取り返しがつかないからに他ならない。この世で取り返しがつかないものなんて、限られている。
止まらない涙に両目を瞑れば、ナイトメアの腕がしっかりとわたしを抱きしめた。


「君には…………できれば知ってほしくなかった」
「…………ごめんなさい」
「責めているんじゃないんだ。ただ…………君に泣かれると、私が辛い」


腕を緩めて紳士的にハンカチを取り出したナイトメアに、わたしは泣きながら笑った。
この人は、優しすぎるのだ。


「そうでもないさ。私を恐れる者は多い」
「けど、わたしには優しいもの。…………わたしが牢獄に見たものを、ユリウスに黙ってくれているでしょう?」


ハンカチを受け取って目元に押し当てながら、わたしはナイトメアから視線を外さない。ジョーカーと一緒に見た、わたしの罪悪感。そこにあったものを心の読めるナイトメアならば、その場にいなくともわかるはずだ。
ナイトメアは顔を歪めてから、嘆息する。


「…………君のほうがよっぽど上手だな」
「違うよ。もう無くすものがないから、挑戦的になっているだけ。…………でも、ありがとう。言わないでいてくれて。わたしはユリウスに言うつもりがないから」


大切なものは一つだけだから、それを守るのは簡単なことだ。守ることに全力を注げばいい。
考えてみればわかることだった。どうしてユリウスの言葉ばかりに怯えたのか。彼が話す真実を、どうしてサーカスが来てからきちんと受け止められなかったのか。それはすべて、気付いてしまえばこの世界が終わってしまうからだ。


「嘘が許される、季節」


最初に気付いたのはそれだった。嘘。この世界は可笑しなことばかりだったのに、今更嘘をつくなんて意味がない。けれど意味がないことなどこの世界にはないのだ。無意味だと主張する顔無しにだって、きちんとわたし達が意味を見出せるように。
わたしはナイトメアに微笑もうと努力する。


「まだ騙されていたいの。だから、ナイトメア」
「…………わかったよ。というか、私が時計屋の味方をするわけないだろう。君の味方のほうが、何倍もしがいがある」
「ありがとう。…………ほら、やっぱりわたしには優しいじゃない」


くすくすと小さく笑うわたしに、ナイトメアは肩を竦めた。
この世界にきてからユリウスの言葉がどれだけ苦痛だったか、今ならわかる。彼の真実はわたしの幸福をぶち壊すものだった。やっと元に戻った、欠けるものがない幸せをどうして壊すようなことを言うのだろう。
わたしが見た牢獄の中に、捕らえられていたのはユリウスだった。
彼は無表情のままこちらを見ていた。わたしは一瞬驚こうか迷ったけれど、アリスのお姉さんを見てから薄々気付いていたので上手く驚けなかった。むしろジョーカーの方が驚いてくれていた。すぐにわたし自身へと姿を変えたけれど、罪の意識がどこにあるのかはもう間違えようがなかった。
わたしは後悔していたのだ。引っ越しの際に離れたことを、彼をきちんと愛してあげられなかったことを、だからこそ自分が彼の愛情に気付いていたという真実を。
わたしは醜い自分自身に気づきたくなかった。特別だと言って欲しくて誰一人選ばずに、意識の奥ではユリウスの愛情をしっかりと認識しながら、与えられるものばかりを欲しがって与えようとしなかった。引っ越しをして置いてきてしまったユリウスに――――置いて行かれた、とは思わなかった―――罪悪感を覚えたのはそれが理由だった。
罪悪感に気付きたくなくて、悪いのはユリウスだと―――捨てられたのはわたしの方だと―――叫んだりもしたけれど、全部わたし自身を保ちたいだけの言い訳だ。


「でも、だから一緒にいるわけじゃないの」


言い訳を呟けば、ナイトメアがわかっているよと頭を撫でてくれる。本当にただの言い訳なのに、彼はどこまで優しいんだろう。
罪悪感から好きになったのではないと、罪滅ぼしのつもりで愛しているわけではないのだと、理解できるのはわたししかいないのに、確かめるように口に出すのは弱いからだ。
ユリウスには一生秘密にしよう。死ぬ間際でも暴露なんてしない、アリスにだって話さない、だからこれはわたしとナイトメアだけの秘密だった。





































(10.11.29)