ブラッドは冬の空もよく似合う。
わたしはクローバーの塔の門柱をくぐりながら、そう思った。ブラッドはいつもより厚手のコートを着込み、後ろには手下をぞろぞろと引き連れているのに、どうしても怖いという思いは湧いてこない。
広場ではすでに帽子屋屋敷の面々が陣取り、対するのはナイトメアやグレイ率いるクローバーの部下たちだ。その中にわたしが到着すると、まったく場違いな空気が生まれてしまう。


「やぁ、。ご機嫌いかがかな。そこの男に軟禁されているようだが」


誰かが何かを言うよりも早く、ブラッドは歌うみたいにそう告げた。
軽やか過ぎる毒舌にその場に居た誰もが反応できない。わたしは恐怖ではなく、背筋がぞくりと震えたのがわかった。


「やだなぁ、帽子屋さん。ユリウスが軟禁しているわけじゃないよ」


すっと隣にエースが立ち、いつもどおりの笑顔を崩さずに反論する。


「二人がラブラブだからって、ヤキモチ焼いちゃ駄目だろ」
「…………幻聴が聞こえたな。どうやら騎士殿は頭まで悪くなったらしい」


ブラッドの視線はするどくエースを射抜いている。吐息が白く、彼にまとわりつく。


「それに何か勘違いをしているようだが、私はをお茶会に誘いに来ただけだ」


ふいに投げられた視線が、わたしに合わせられる。視線の強さ、彼の持つ独特のオーラ、声の高さまでもがひどく懐かしい。わたしは微笑んでしまいそうになるのを必死に堪える。
けれど、答えたのは以外にもナイトメアだった。


「お茶会?」


瞳を細め、いぶかしむようにブラッドをねめつける。腕を組んでいる姿は、領主らしくしようとしているからかもしれない。


「違うな、帽子屋。お前、相当物騒なことを考えているだろう」
「言っている意味がわからんな。芋虫」
「気をつけろ時計屋。帽子屋はを攫ったら、手放さないつもりだ」


ナイトメアが視線をくれずに忠告する。ユリウスが、わたしの一歩後ろで「わかっている」と呟いた。
けれど、そんなことは関係ない。わたしはようやくブラッドに会えたのだ。


「お久しぶり、ブラッド。お礼を言うのが遅れてごめんなさい」


ナイトメアの忠告を無視し、わたしはユリウスやエースから前に出る。ブラッドだけを見つめなければいけない気がした。


「サーカスに連れて行って欲しいなんて、無茶を言ってごめんなさい」
「謝罪は不要だ、。私は君の願いを聞き届けたに過ぎない。…………後ろにいる不甲斐ない連中に代わってな」
「うん。感謝してる。…………そのおかげで、わたしは大切なものに気付くことができたの」


もう一歩、ブラッドへ進み出る。彼の背景が冬色の空だということが、ひどく不思議だった。今は昼だというのに、彼が苦手にしている季節だとは思えないほど心地いい。


「わたしは、ユリウスと一緒にいるよ」
「…………」
「愚かだって言われても、そうするって決めたの」


もう一歩、銃で撃たれれば助けられない位置まで移動する。もし彼が気に入らなければ、わたしはそうされてもよかった。ブラッドが手伝ってくれたから、今のわたしがあるのだ。
彼には結果を見定める権利がある。
ブラッドは瞳をすうっと細め、短く嘆息した。


「…………まったく、君はつまらない道を選んだものだ」


くるり、ぱしん。彼の杖捌きはいつだって惚れ惚れするほど軽い。


「時計屋なんかより、私の方がよほど君を楽しませる自信があるがね」
「わたしにはもったないよ」
「いいや、私がもてなしたいと思うのはこの世界で君かアリスだけだ。少なくとも、冬だからと言って君の美しい足を隠すような服は着せない」


そう言ってちらりと見つめられれば、なるほど温かさを重視したロングスカートを履いていた。わたしは確かに最近おしゃれを怠っているかもしれないとぼんやり思う。


?! ぼんやり考えている場合じゃないぞ! 否定しなさい!」
「え」


ナイトメアが必死に叫ぶので、わたしはやっと我に返った。
今の発言は、まるで生足を見せ合う仲だと言っているようなものだ。ブラッドにはいつだってきわどい服を着せられていたから頓着しなくなっていた。
気付いてしまえば背後の空気が物凄く冷たく重くなっている。はっきり言って振り向きたくはない。


「否定などしなくていい。君の足の美しさを一番理解しているのは私だ。そうだろう?」
「え? いや、前提としてそんな大層なものじゃないよ」
「謙遜など意味のない。…………絹のような肌も、そんな服では映えないだろう」


わたしはすでにブラッドに調子を奪われているせいで、凍りついたような微笑しかできない。褒め殺しだ、と頭の中で思うが言葉にするには気が引けた。
背後ではユリウスのものと思われるプレッシャーが凄まじい。今振り返ったら、たぶん、何かが終わってしまう。



「え、はい」


葛藤の最中に呼ばれたものだから、ブラッドが伸ばした腕に無意識に手を滑り込ませてしまった。
するり、とあまりにも綺麗にわたしの手は彼におさまる。
その場に居た全員が一瞬息を呑み、わたしはしでかしてしまった事の重大さに青ざめる。いつか、帽子屋屋敷で訓練された淑女としての基本がまだ残っていたのだ。


「ちょ、ブラッド! 今のは反則!」
「反則? 何を言うんだ、。体に染み付いた習慣は抜けにくいだけだ」
「そりゃあ、あれだけ特訓すればね!」


手を引いてすっかりわたしを自分の位置まで引き寄せてしまったブラッドは満足そうに笑っている。わたしは笑えない状況に、なんと返したらいいかわからない。
ブラッドの背後で銃を弄ぶエリオットがひどく嬉しそうだった。


「…………手を離せ。帽子屋」


びくり。わたしの肩が跳ね上がり、嫌な汗が背中を伝う。ブラッドは笑ったまま、わたしの腰を引いて後ろを振り向かせた。硬直した体は、それでもブラッドの言うことを聞く。
そうして向き合ったユリウスは、声よりよっぽど怒っている。するどい瞳には見ることのない光が瞬いているし、その手にすでに工具が握られていた。まずい、と思うのとブラッドがわたしの右手の甲に口付けたのは一緒だった。


「?!」
「手を離せとはよく言ったものだな。先に離したのは貴様だろう、時計屋」


吐息がかかる位置で手を握られたまま、ブラッドは低い声を出した。


「彼女を不安にして、よくも偉そうな口がきけたものだ。は貴様の所有物ではない」
「…………それはお前も同じだろう、帽子屋」
「同じ? 一緒にするな。私ならを元の世界になど帰しはしない。何ものよりも私を選ばせる…………手段など問わず、な」
「くだらん。そんなものは押し付けに過ぎない」
「下らないのは貴様だ、時計屋。束縛さえしてやれない男を選んだが、自ら檻に入っているだけの状態で満足している」


ブラッドの哀れむような声に驚いて、わたしは顔をあげる。ひどく近い場所に綺麗な赤い瞳があった。
――――――――あぁ、ブラッドは知っているのだ。ユリウスが、いつかわたしの手を離さざるを得ないことを。だから、彼にしがみ付いているのはわたしの方だということを。
醜いわたしにそれでも助け舟を出してくれる。ブラッドはやっぱり優しい。


「…………ごめんね。ブラッド」


ありがとう。それでもわたしはユリウスを選んでしまうから。
ブラッドは悲しげな瞳をまばたき一つですっかり表情から消した。君は愚かだと、まるでビバルディに言われているような気分になる。彼女たちは、本当に根っこが同じなのだ。


「では、新しい提案をしよう」


語調を柔らかくし、場にそぐわない優しげな声でブラッドはわたしに向き直る。
そうして自分の右手を胸にあて、紳士のように若干腰を折った形で瞳を覗きこまれた。


「…………私を君の愛人にしないか」


冷静な、けれどひどく艶かしい声が初め何を言ったのかわからなかった。


「…………えぇ?!」
「帽子屋さんが愛人?! が愛人じゃなくて?!」


静観していたエースが言い出した途端に笑いだした。アリスも頬を引きつらせ、ナイトメアはあんぐりと口を開けている。周囲に出来た人垣から―――一般市民だ―――あのブラッドが小娘の愛人宣言をしたとどよめきが走っている。


「あなたが、わたしの愛人?」
「そうだ。旦那がいるのだから仕方がない。忍ぶ恋というのもいいだろう」
「いや、全然忍んでないんじゃ…………」


宣言した時点で愛人ではなくなっているんじゃないだろうか。
公開浮気宣言。ここでわたしが「イエス」なんて言えば、ユリウスとの関係がうまくいくはずなどない。
なによりプライドの高いブラッドが、どうしてそんなことを言うのかわからなかった。不安そうに見つめた先で、ブラッドはゆるゆると笑う。


「…………愛人には、愛人にしか出来ないことがある。君が寂しいときに、無条件に頼ってくれて構わないよ」


都合のいい男というのも、愛人の特権だ。
ブラッドは余裕さえ垣間見える笑顔で、付け加えた。
―――――――――あぁ。そうか。


「ブラッド」


どうしてこの人は、こんなにも優しいのだろう。
マフィアのボスで、ときどきひどいことをして、けれどわたしにはすごく甘くて。


「…………頷いてくれるだろう?」


いつだって先の先を見通して、わたしを導いてくれる。
ブラッドは、わたしが彼の誘いを受けることを知っているのだ。


『簡単なことだ。一度だけでいい。私が頷いてほしいときに、頷いてくれ』
『…………それ、いつ?』
『賢い君のことだ、そのときになればわかるだろう。交渉は成立だな』



わたしはやっぱり彼の言うような賢さは持ち合わせてはいなかった。彼がまさか愛人関係を持ち出してこようとは思わなかったし、何より彼にはメリットが何一つとしてない。
けれど、わたしは約束した。彼の欲しい言葉を言えるのはわたしだけだ。
わたしはユリウスにちらりとだけ視線を送ってから、まっすぐにブラッドを見た。


「いいわ。あなたを愛人にしてあげる」


いかにも高飛車な台詞がまったく似合わない。それでもブラッドが嬉しそうに笑ったので、わたしは似合わないことでもしてよかったと思った。
周囲の喧騒は、もう耳に入ってこなかった。ざわめきもどよめきも、わたしとブラッドに何一ついらなかった。ただ、彼が嬉しそうにわたしの右手の甲に口付けるのを見ていた。


「ありがとう、


お礼を言いたいのはこちらのほうだ。
わたしがいつかユリウスと離れなくてはいけないことを、知っていてくれている。そのときどうしようもなく苦しくなることも、だからと言って誰かを頼ることもできないとわかってくれている。
身勝手なのも、見苦しいのも、わたしの方だ。


「それでは了解も得られたことだ。今日のうちは帰るとしよう。…………


くるり、ぱしん。ブラッドの声はどんな号令よりも響き、隊列を一瞬で作らせてしまう。その声で呼ばれると、まるで魔法にでもかかった気分になる。
視線だけで、なぁに、と問えば不敵な笑顔。


「いつでも来るといい。…………満足させてあげよう」


唇から漏れる甘い吐息、ブラッドの誘惑はいつだって魅惑的だ。
わたしが寂しくないように、ひとりだと思わないように、彼が言う「どんな手段を使っても」わたしを元の世界に帰さない手段として、彼は自分自身を差し出した。
彼はわかっているのだ。いくら寂しくても、ユリウスの代わりをわたしは作ろうとしないだろう。そうして段々と壊れてしまうかもしれない心を、こうやって思いがけない方法で救い出してくれる。


「…………


ブラッドの背中が消えた広場で、わたしはそれでも突っ立ったままだった。
ユリウスが隣に来てくれたけれど、どんな顔をすればいいのかわからない。


「ユリウス。…………わたし、やっぱりままならないね」
「あぁ。目が離せないな」
「…………離さないでいてくれる?」


宿敵同士のような人と、愛人になってしまうような女でも。
わたしがやっとユリウスを仰ぎ見ると、彼は絶望も呆れもしていなかった。ただ、そっと手を繋いでくれる。


「離したりしない。…………それに、お前のことはずっと私が満足させてやればいいんだろう」


ユリウスには似合わない艶めいた台詞にわたしは笑ってしまった。
ずっとだなんて、彼には言ってしまえるはずがないのに。


「うん。ずっと…………ずっとね」


だから言葉の意味を確かめるように、わたしは口に出す。あなたが約束できなくとも、わたしが忘れなければいい。信じられなくなるまで、ずっと信じていてあげる。
永遠なんてないと知っているから、わたしが投げ出す前に捕まえてね。
約束のつもりで力を込めた右手が、ユリウスの体温で温かく脈打っている。わたしは微笑んで踵を返し、心配そうに立つアリスと拍子抜けしているようなエースを交互に見比べた。ふたりとも、まったくわけがわからないという顔をしている。
わからなくていい。わたしとブラッドの秘め事を、きっとユリウスも全部はわからない。わからなくてもこうやって、わたしを繋ぎとめようとしてくれる。それだけで充分なのだ。ブラッドの言うように、わたしは自ら檻の中にいるのだから。













ただ、肯定を









(11.07.11)