怖いものに終わりなどないと知っていた。
いつだって平穏は無意識に恐怖を打ち消していってしまうけれど、その影で身を潜めているものを見ないわけにはいかない。
わたしは鞄にお財布とハンカチ、それに水着一式を詰めてコートを手に取る。大変おかしな装いだとはわかっているけれど、冬から夏にゆくのだから仕方がない。


「出かけるのか?」


詰め終わった鞄を持ち、ユリウスの仕事部屋に入ると彼は顔を上げて尋ねた。わたしは微笑んで頷く。
えぇ、アリスとゴーランドと約束しているの。水着を持っていることは言わなかった。


「ゴーランド?」
「そう。二人でおいでって言われていたんだけれど、ずっと行けていなくて。しびれを切らしたのか招待券を送ってくれたの」
「…………あの男がやりそうなことだ」


仕事をしているとき、ユリウスは大抵眼鏡をかけている。黒縁で神経質っぽい、けれどユリウスが掛けるのに相応しい形をした眼鏡だ。わたしはその姿を眺めるのが好きだった。ユリウスの端正な横顔、器用な指先がくるりくるりと螺子を回す所作。


「ユリウスも行かない?」


尋ねたのは、期待したのではなく義務感からだった。
彼が夏よりも冬を―――――というよりは仕事を取るのは目に見えている。


「私は仕事をしている。遅くならないようにな」
「うん。わかった。…………ユリウス」


わかっていた答えに頷きながら名前を呼ぶ。
手を止めていることを確認して、ユリウスの肩を抱くようにして手を回した。濃紺の髪に一瞬だけ顔を埋めてから、ゆっくりと息を吸う。
ユリウスを抱きしめるのが好きだ。横から抱くのも、後ろから腕を回すのも、彼からの抱擁ではなく自分からするのが好きなのだ。確かにそこにあるという確認。


「行ってくるね。遅くならないようにする」


遅く、という定義自体が曖昧な世界に居るくせにユリウスはちゃんと戒めてくれる。
わたし自身がどのくらい理解して肯定しているのかなど、彼はわからないのに律儀に聞いてくれる。そういう不器用さも愛おしかった。
暖かな部屋を出てクローバーの塔の廊下を歩いていると、幸福すぎることが怖くなった。いつ終わるかもしれない幸福を、こうやって知らしめてくる恐怖をわたしは覚えている。きっと元の世界で裏切られすぎていたのだろう。期待などするものじゃないと、実際にずっと思っていた。遠い、自分が生まれた世界をもう上手く思い出せはしない。


「あ、!」


遊園地のゲートで待ち合わせをしていたので、すぐにアリスは見つかった。彼女はいつもの水色のエプロンドレスではなく、白いワンピースを着ている。わたしは日傘を差したまま、小走りに駆け寄った。


「ごめん!遅れた?」
「いいえ、私も着いたばかり。にしても、夏はやっぱり暑いわね」
「だから、今日はプールなんでしょ」


鞄の中からビニール製の袋を取り出すと、アリスはくすりと笑った。アリスははじめて会った時よりずっと綺麗になった。笑う仕草が、目を細める瞬間が、とてつもなく綺麗だ。
招待券を見せて遊園地に入場すると、すぐにゴーランドが出迎えてくれた。


「おう!二人ともよく来たな!!夏へようこそだ!」
「お招きありがとう、ゴーランド」
「招待状に書いてあったように、ちゃんと水着は持ってきたわ。これ、ペーターに見つからないようにするの大変だったのよ?」


アリスがやれやれと言った風に肩を上下させた。確かに雑菌嫌いのウサギさんにとってプールなんて百害あって一利なしの場所だろう。加えて遊園地にいくことだって、いい顔はしなかったはずだ。わたしはその情景を思い描いて笑う。


「はっはっは!いいじゃねぇか!なんなら宰相閣下もくりゃよかったんだ」
「馬鹿いわないで。そんなことしたらプールが血で染まるわ」
「なんか一気にホラー映画っぽくなるね」


可笑しそうに笑うわたしに、アリスがうんざりしたようすで首を振る。彼女にとっては現実的過ぎるそれが、わたしには非現実的だった。少なくとも、流血沙汰といえばナイトメアの吐血くらいだ。
夏はいつもどおりどの季節よりも活気付いていた。人はもちろんのこと、草木や風や陽光までもが浮き足立っている。空気を思い切り吸い込むと、肺が焼けるようだった。


「それよりも、ユリウスが来たらよかったのに。あの人、いい加減外に出さないと病気になりそうじゃない?」
「…………一応、誘ったんだけれど」


苦笑しながらアリスに答えると、彼女はわかっていますとばかりにため息をついた。
アリスは知っているのだ。わたしが無理に誘ったりしないことを、用意がすっかり終わったあとに「あなたも行かない?」と言うことに強制力などないことも、すっかり知っている。
お互いにとって一人の時間が大切なことを、わたしもユリウスも薄々気付いていた。それがなければ近づきすぎて、きっとわたしの翼はどろどろに溶けてしまう。
自由を失ったわたしは不自由に泣くような女々しい女になるのだろうか。


「お、やってるな!」


三人でしばらく歩いていると、背の高いゴーランドが遠くを見て言う。わたしとアリスは人垣でよく見えない。けれど、オーナーがずんずん人垣を分けて進んでくれるのでほどなくしてそれは現れた。
―――――――――水の城。
高く高くあがった水柱がちょうど城をかたどっている。けっこうな水量が、轟音ともいえる豪快な音を立てながらオブジェを作り出していた。足元にはミスト状のけむりがのびてきていてひんやりと肌をしめらせてくる。


「な? ウォータースライダーも人気だが子供に人気なのがこれだ! 水柱のレパートリーも5種類あって、休憩も挟むから安全上の問題もクリアだ。中に突っ込むのもよし、そばで休むのもよし。さ、アリスたちも着替えてこいよ」


ゴーランドがひまわりみたいな笑顔で笑うので、わたしとアリスは顔を見合わせて微笑む。普通がどこにもないこの世界で、唯一楽しむことを忘れないでいてくれる遊園地のオーナーは本当にいい人だ。ただ音楽的才能だけが欠如していたことは不運だったとしか言えない。
しばらくして水着に着替えたわたしは、隣のアリスを凝視する。水色のボーダービキニを着たアリスはポニーテールを作りながら怪訝そうな顔をした。


「なに? 
「いや………天は二物を与えずってあれ嘘だなぁって思って」
「は?」
「だってそのくびれに胸はないんじゃない? 腕だって細いしぷるぷるしてないし。……………ずるいと思わない? ゴーランド」
「おーい。。そこで俺に振られると下手したらセクハラで訴えられるんじゃないか」
「だって…………うぅ。わたし、アリスの隣にいる自信ない」
「ひとりで勝手に落ち込まないで。だって素敵よ?」


いじけてしゃがみこむわたしにアリスが呆れながら手を伸ばしてくれる。少女らしい華奢な太ももにわたしはまた落ち込みそうになるが、ぐっとこらえて立ち上がった。
いつものアロハシャツに海パンという、軽装がよく似合うゴーランドがわたしとアリスの頭を軽くたたく。


「なんにせよ、俺にとっちゃ両手に華だな!宰相閣下やユリウスにゃ悪いが」


まったく悪いなんて思ってない調子で言ってくれるから素直に笑える。わたしとアリスは手をつないで水柱の城を満喫した。細かく砕けた水の粒が、顔といわず体中に張り付いて気持ちがいい。水にとっぷり浸かってしまうのとは違う涼しさと水音。水柱は何本もあがっているので手をつないでいないとすぐはぐれてしまいそうだった。
太陽の光が反射して、七色に光ってそこかしこに虹を作り出していく。幻想的な風景がよく晴れた真っ青な空を背景に輝いていた。


「はーっ。疲れた!」


休憩にしようと水柱を離れてパラソルの下で白いロッキングチェアに腰掛ける。アリスは上着を持ってくるとロッカーに戻っていた。浜辺にありそうな真っ白なロッキングチェアに寝転ぶと、どっと疲れがでた。まぶたが重くなって、自然とおろそうとしてしまう。


「こんなとこで寝るなよ。まぁた風邪引くぜ?」


言うなり首筋に走った刺激に飛び起きた。冷たい!


「ジュース買ってきた。ん? そんなにびっくりしたかぁ?」
「うとうとしている人にそれはびっくりするよ!」
「そうか? 悪い悪い」


隣のロッキングチェアに腰掛けながらゴーランドはまた快活に笑った。わたしは缶に入った――おそらく炭酸――ジュースを受け取りながら怒った表情をつくる。それでもそんなものは長続きしないのだ。ゴーランドと一緒にいると、いつのまにか笑っている。


「アリスはまだ戻ってないのか」
「うん」
「……………じゃあ、聞いてもいいか?」


うん。
まるで世間話のように続けるゴーランドを見つめ返す。わたしはこの人の前だと、どうしても素直に口を開いてしまう。もらったジュースの缶が右手の熱を奪っていく。


「……………ユリウスとは順調か?」
「うん。だと思う。喧嘩はしていないし」
「帽子屋とのことがあっても?」


この世界は、感じたとおりに狭苦しい。少なくとも、わたしが元いた世界よりはだいぶ狭いので情報など筒抜けだろう。
わたしはゴーランドをまっすぐ見つめながら、その瞳の中に自分を映す。ブラッドはどうしてこんな馬鹿な女に味方してくれるのだろう。愛人になろうなんて言ってくれて、それを堂々とみんなの前で告げてしまった。秘密がないのだからユリウスは決まり悪げだし、不機嫌だけれど、わたしはそれすらも愛されているのだと感じてしまう。


「ユリウスは怒ってはいるけれど、言葉にできないみたい。……………わたしが反論しないから、口論にならないの」
「……………まぁなぁ。目の前で愛人宣言しちまったんだろ?」


しかもあの帽子屋の方が愛人だからな、とゴーランドは頭を掻いた。
ブラッドの瞳はすごく綺麗な紅い色をしていた。久しぶりに間近で見て、あぁこの瞳に会わないために近づかなかったのだと理解した。捕まってしまえば逃げられない、絡みとられれば身動きできない危うさが瞳に押し込められていた。
多分、ユリウスが不機嫌なのはわたしが彼に魅かれていることがわかったからだ。


「わたしはユリウスが好きなのに、怖いの。一緒じゃなくなってもずっとずっと好きでいられるのかどうか」


手を離されて、目の届かない場所に移されて寂しくないわけがない。
わたしは両手で顔を覆って、真っ暗な中で自問自答する。好きだと認めてしまえば中毒患者のように愛されることを求める自分など目に見えている。恋愛ジャンキー。わたしは自分がいわゆる重い女になるなんて想像もしていなかった。ヒステリックに叫んだりするのはドラマの中の誰かだったはずなのに、わたしはこの世界でユリウスに何度もそれをやってのけている。
離れたのも捨てられたのもわたしの方だなんて、傲慢としか言いようがない。
手のひらを離してもてあそび、落ち着かずに頬杖をついて視線をパラソルの柄からプールに移す。


「落ち着け、
「……………ゴーランド」
「まったく…………そうやって不安がればいいのに、どうせユリウスの前じゃ物分りのいい女のふりをしてるんだろ」
「………驚いた。なんでもわかるのね」
「今のアンタはわかりやすいんだよ。前の不安定だった方が危うかったが読みにくかった」
「そうだね。わたしは、自分ひとりでいつも手一杯。……………気づかない振りをしなければいけないのに、どうしても終わりばかりが頭を掠めるの。嘘が許されなくなる日が、とても怖い」


恐怖は忘れたころにやってくるとはよく言ったものだ。いつだって幸せそうに笑う裏では怯えていた。ユリウスがいつしかいなくなってしまうことが、冬が訪れたときと同じく唐突に終わってしまうことが、そうしてそれを受け入れなければいけないことが。
ねぇ、本当は怖くて怖くてたまらないんだよ。
汗ではない、生ぬるい液体が目からあふれ出すのがわかった。頬をつたってぼたぼたと流れでるのは止められない。


「……………帽子屋は、お前さんが我慢してんのを知ってたんだな」


ほら。渡された厚手のタオルに乱暴に顔をこすりつけた。お日様のにおいに涙がぐんぐん吸収されていく。嗚咽が頼りなく漏れて、ゴーランドの手がわたしの頭の上にのっかった。
好きだから寂しい。寂しくて辛いから、今がどれだけ幸福かわかる。わたしは愚かだから一瞬たりともユリウスとの幸せをこぼしてしまいたくなくて、ずっと笑顔でいるのだろう。
そんなものが本当に自然体なのかと問われれば、きっと違うと誰もが答えるのに。
のっていた手が、リズミカルに二度たたかれた。


「……………アリスが来る」


そっと呟かれた声音のやさしさ。
わたしは即座に立ち上がってタオルをロッキングチェアに投げ出し、わざとらしく伸びをした。そうしてきっとひどい顔で、ゴーランドと目をあわす。


「ちょっと、水のお城で頭冷やしてくるよ」
「……………あぁ」


足早に駆け出したわたしの背中にアリスの声がかかった気がした。けれどそんなものが聞こえなくなるようにわたしは歩く。ゴーランドが取り成してくれているだろうし、だからこそ教えてくれたのだ。
アリスに知られてはいけない。知ってしまってはいけない、パズルの一部分。わたしが知らないことをアリスが持っているように、わたしもアリスに知られてはいけないパズルのピースを持っている。
水の城はちょうど新しいパターンが始まったところらしい。わたしの背丈よりも高い水柱が、まるで迷路でも作るかのように道をつくっている。高い声ではしゃぐ子供たちの邪魔にならないようゆっくりと進みながら、わたしは水柱で何度か顔をぬぐった。
駄目なのはわたしの方だ。承知の上でユリウスと一緒にいるくせに、それ以上を望んで悔やんで八つ当たりをして彼を手放す結果になんてなったらと思うとぞっとする。


「ひとりのときが強かったんじゃない。……………ふたりになって、ようやく恐怖の正体が見えたんだ」


独り言は水に吸い込まれていく。いくつもの水柱に飛び込んで水圧に苦しくなりながら、それでもわたしはやみくもに歩いてみた。目を瞑って歩くのと、それは大した違いはない。
どちらも恐怖に支配されているし、怯えながら歩くのだから足取りは重くなる。ゆっくりと慎重に、けれどこの闇が終わらないことを祈っているだなんて言ったら他人は笑うのだろうか。
ブラッドに会いに行こう。きちんと話をしなければいけないはずだ。わたしはもらったものの半分も返せてはいないし、エリオットや双子たちにも会いたかった。


「結局、この世界が好きなのね」


ボリスにもピアスにも会いたいし、ビバルディやキングともちゃんとゆっくり話したかった。ペーターとは二人きりで会ったりしたら撃ち殺されてしまうかもしれないから、アリスとふたりで会わなければいけない。
それにジョーカーとだって、きっとこれだけでは終わらないのだろう。
嫌な予感だけれど、だからこそ当たる。わたしは水の中で笑って、気持ちをやっと切り替えた。アリスやゴーランドの元に戻ろうと出口を探すと、ふいに水柱の勢いがなくなった。休憩時間に入ったのだ。


!」


とたん、聞こえる声に目を細めてわたしは笑う。
綺麗な青空とカラフルなパラソルを背景にアリスが駆け寄ってくるのが見えた。ゴーランドがやれやれといった調子でゆっくり近づいてくる。きっと賢いアリスはわたしの異変に気づいたのだろう。そうしてこんな風に心配してくれる。
わたし達はいつだってお互いを心配しながら、同時にそれだけしかできないことを理解している。


「大丈夫だよ。アリス。少し迷っただけ」


そうしていつだって呪文のように「大丈夫」と唱え続ける。
ふわりふわりと足のつかないわたし達はそうやって確認するしかないのだ。大丈夫、大丈夫。わたしはまだここにいるよ。この世界を、あなたを、愛した誰かを、裏切ってなんていないよ―――。
存在の証明に、わたし達は恐ろしく手間をかけて傷つけあっているのかもしれない。





















濡れたままなら涙を隠せた





2011.12.18