「ユリウス、こんなところでどうしたの」 ゴーランドのお誘いを受けて夏の遊園地に来ているというのに、アリスはその場にそぐわない人物を見つけて首を傾げた。ちょうどアリスだけが更衣室に戻っていたところで、自分の分のタオルとパーカーを持っていた。 ユリウスはいつもの黒ずくめのような服装ではなく、プールらしく髪を結んで水着も着ている。その場にそぐわない格好ではないのにユリウスが夏に来ているというだけでなんだかおかしな感じがする。 ユリウスは一瞬見つかったことに罰が悪そうな顔をした。すいと視線をはずされる。 「どうした、じゃない。……………が来ているだろう」 「? えぇ、一緒に来たけれど」 まるで要領を得ない質問にアリスはまた首を傾げる。は確かにユリウスを誘ったと言ったし、事実ユリウスはその誘いを断っているのだろう。それなのにこうやって、彼は水着まできっちり持参で夏にいる。 数秒目の前の男性を見つめたあとで、たどり着いた答えにアリスは嘆息する。 「……………心配なら心配だって言えばいいのに」 小さく呟いたつもりだったがユリウスには聞こえたらしい。夏だというのに不自然に赤らんだ顔になる。 「し、心配などしていない」 「じゃあ、なぜ声をかけないの? わたし達はずいぶん前からここで遊んでいるんだけれど」 「……………ついさっき、着いたんだ」 「そう」 どうにも本音を言いそうにない男にアリスはまたため息を漏らす。ユリウスはペーターほど過剰な心配性ではないけれど、については過剰すぎるところがある。そうしてウサギほどではないにしろ、斜め上に突っ走る傾向も持ち合わせていた。 ペーターほどわかりやすくないので見落としがちだけれど、ユリウスも大概心配性で嫉妬深い。そんな男性に付き合うは、おそらく自分よりは扱い方を心得ているのだろうとアリスは考える。ブラッドの一件と言い、あわや惨状になりかねない事態を何度も潜り抜けている。 「ねぇ、ユリウス」 「なんだ?」 「と、喧嘩していない?」 ブラッドの愛人宣言のあと、二人は穏やかに微笑みあっていた。もしペーターならば撃ち合いに発展していただろうに、彼女たちは違っていた。アリスにはわかりえないなんらかの思考が交錯しあい、エースやユリウスはブラッドたちを見送ったのだ。 ユリウスは瞳を平静に戻して、うなづく。 「喧嘩になどならん」 「……………そう」 ほっとした。ユリウスがブラッドとについて誤解をしていなくて、本当によかったと思った。それなのに、ユリウスは声を低くして付け加えた。 「は、弁解をしないからな」 「え?」 「……………がその場の勢いで愛人になるなどと言ったわけがないだろう。帽子屋のことだから取引なり何なりあったはずだ。……………だが、それをは言おうとしない」 ユリウスの視線はアリスから周囲に移される。まるで思い出すように、遠く青い空を見つめる。 「無理に聞き出せば傷つくのを承知では黙るだろう。あの二人が見つめあっていた姿を見ればわかる」 「……………なに、それ」 「帽子屋の言ったとおり。……………はじめに手を離したのは私なんだ」 遠くを見つめるユリウスが、ふいに寂しげに微笑んだ。アリスはその言葉で自分たちが立っているのが、冬に戻ったように錯覚する。帽子屋屋敷の面々が、クローバーの塔の面前まで迫っていたあの瞬間に。 ブラッドの声はよく通っていて、鼓膜に吸い込まれて脳を揺さぶる。 ―――手を離せとはよく言ったものだな。先に離したのは貴様だろう、時計屋。 「でも……………でもそれは仕方ないことだわ」 アリスはたまらなくなって声を出す。持っていたタオルをぎゅうと握り締めた。 「だってそうじゃない。ユリウスやナイトメアがサーカスに連れて行かないって言ったのはを心配していたからでしょう? 嫌がらせなんかじゃなく、を心配していたからだわ」 「……………アリス」 「確かにユリウスはに出て行けって言ったり、多少なりひどいこともしたかもしれないけど……………それだって」 「アリス」 深くて平らな、ユリウスの声。 アリスはゆっくりと視線をあげて、藍色の瞳を見上げた。ユリウスは落ち着いているように見えた。唇をもちあげて、うっすらと微笑んでいる。 「お前が気に病む必要はない。……………の心配ばかりしていると、白兎が拗ねるぞ」 「ペーターのことは、私が抑えてみせるわ」 「そうか。……………アリスが見ていてくれるなら大丈夫だろう。は危ないというのに何にでも向き合おうとするからな」 違うわ。あなたが見ていてくれるから大丈夫なんでしょう? アリスは喉まで出掛かった言葉がそれ以上出てこないことに疑問を持つ。どうして私は心の奥底で「ソレ」を認めてしまっているのだろう。ユリウスではなくアリス自身がをきちんと見張ることを、どこかで認めてしまっている。 くらり、と体の芯が揺れた気がした。 「アリス。忘れろ」 揺れた体を支えられ、耳元で強制力を持った声が響く。 忘れろ。いったい何を、どうしたら忘れられるのだろう。けれどそうしなければ終わってしまうことがあるのはわかる。この世界のルールのように無慈悲で身勝手な何かが、背後にぴたりと張り付いていて離れない。 ここは夏で日差しは強くて水浴びはひどく気持ちがよくて、自分たちはそれを存分に楽しめているはずなのに怖いのはなぜなのだろう。晴れない霧の中にいることを求められるのはいつだってアリスばかりだ。 「……………行きましょう、ユリウス」 ゆっくりと瞬きを繰り返して、アリスは足の裏の感触を確かめる。自分はこの世界にいるのだと、力をこめて踏み出した。 ユリウスは小さく頷いて隣を歩いてくれている。日差しがじりじりと肌を焼き、子供の声は高く澄んでいて、笑いあう声もはじく水しぶきも綺麗な夏の日にユリウスと二人で水着を着ているなんておかしな光景だろう。 は笑うだろうか、それとも驚くだろうか。一緒にいくことを拒んだユリウスがここにいることを、振り返って笑ってくれるだろうか。アリスはの反応を考えながら、けれど彼女ならばすべてを許容してしまうのだろうと片隅で思う。ユリウスがやってきたとしても、どうしてなどと問うことなどなく微笑んで「暑かったでしょ」なんて言って笑えるのだ。 「……………?」 早くやゴーランドの元に戻りたくて足を速めたのに、アリスの瞳に飛び込んだのは見たかったものではなかった。人ごみの先、パラソルの下でゴーランドと向き合うように座った白い背中は小さかった。両手で顔を覆っているのか、丸めた背中が震えているようにさえ見える。 背筋があわ立ち、駆け出そうとしたアリスの腕を掴んだのはユリウスだった。 「ユリウス?」 「待て」 ユリウスの視線の先を追えば、ゴーランドははっきりとこちらを見ていた。意思の強い、いつもならしない類いのまじめな表情でまっすぐにこちらを見つめている。背筋がひやりとしたのは、彼が笑っていなかったからだった。 ユリウスとゴーランドが数秒――ひどく長くて苦しい数秒だ――無言の会話をしてから、ゴーランドがの頭をたたいた。軽くリズムをとったその様子に、がぴくりと反応してすぐに立ち上がる。まるで何かにはやし立てられるようにはきびきびと動き出し、持っていたタオルを座っていたロッキングチェアに放ると足早に歩き出した。 「……………?!」 行ってしまう、と駆け出すけれど人ごみが邪魔でうまく近づけなかった。何度か名前を呼んだし、そのどれかは彼女に届いたはずなのには振り返らなかった。ゴーランドもを追わない。ようやくパラソルの下に着いたときには、はすっかり始まった水柱のショーの中に入ってしまっていた。 「ゴーランド、は?!」 「大丈夫だ、アリス。はちょっと頭を冷やしてくるってよ」 安心させるようにゴーランドが笑う。ゆっくりと目元を和らげる、彼なりのやり方だ。けれどそれがユリウスに向けられたときには、ひどく冷たいものに変わってしまった。 「…………時計屋、お前ほんっとーに阿呆だろ」 「………」 「もっと上手く立ち回れ…………なんて酷なことは言わねぇけどよ。大切なことは醜くあがいてでも吐き出させろよ」 がしがしと乱暴に頭を掻きながら、ゴーランドはの消えた方向に視線を移す。 「……………じゃねぇと、本気で掻っ攫われるぞ」 先ほどとは違った形状で水柱をあげるアトラクションは、人が多すぎてを確認できない。 アリスは胸騒ぎを覚えてユリウスを仰ぎ見るが、彼は白い顔を険しくさせているだけだった。ゴーランドは構わず続ける。 「……………帽子屋が滅多なことをしなかったのは、前回のことがあったからだ。だが今は違う。……………ジョーカーにくれるくらいなら、アイツは無理にでも攫うだろうよ」 ジョーカー。 その単語を聞いた途端、胸の奥がずきりと痛んだ。三度目のサーカスが終了し、が戻ってきたというのに自分がうろたえてはいけない。 掴んだパーカーを抱くようにして力をこめるが、腕が震えているのは一目瞭然だ。 「アリス?」 「なんでもない。なんでもないわ……………。ジョーカーは、まだ、いるのよね?」 まるで確認するように見上げた先で、ユリウスは少しだけいぶかしむ。けれど安心させるようにゆっくりと、大きな手がアリスの頭をなでた。 「……………大丈夫だ。ジョーカーは死んだが死んでいない」 なでられた手の影で、アリスは目を見開く。ユリウスの言葉は嫌でもあの場面を思い出させた。 三度目のサーカスの終わり、が捕まりユリウスたちに助け出されたすぐあと、アリスもまた彼らに捕らわれた。まったく予期していなかったわけではない。姉の亡霊を中途半端なまま彼らの元に置くわけにはいかないと思っていた。それなのに、まんまと捕まったのは自分のほうだった。ジョーカーが姉に銃口を向け、引き金を引いた瞬間にすべてが終わってしまったと思った。ペーターが現れて姉の姿を花びらに変えてくれなければ、アリスの心は壊れてしまったかもしれない。 けれど、ペーターはそのままジョーカーを殺してしまった。立て続けに鳴り響いた銃声はいまだに耳に張り付いている。背筋が冷たくなったあの瞬間、ジョーカーは人形みたいに力なく倒れた。けれど誰もが「殺したが殺せていない」とおかしな言い方をする。 「……………ビバルディと同じことを言うのね。殺したのに、死んでいない。いったいどっちなの」 「じゃあ、女王陛下はこうも言ってなかったか? ことの真相を知って、どうするってよ」 「えぇ。……………ビバルディは、知れば誰かが牢に入らなければいけないような言い方をしたわ」 ゴーランドが立ち上がり、アリスの前に立つ。彼はずいぶん背が高いので見下ろされれば影になったせいで表情がよく見えない。 「そういうもんだろ。罪を突き詰めれば誰かが代償を払わなきゃならねぇ」 「でも……………それなら」 「償うべきは殺させた自分か?……………やめとけよ、アリス。そんなことしても白兎が泣くだけだ」 それでも牢に入らなければいけないのは自分のような気がするの。 アリスは声にならない言葉を押し込める。罪を背負って牢に入るのは簡単だが、自分にはもう投げ出してしまえない人がいるのだ。ペーターはアリスを抱きしめて忘れてほしいと願うように呟いた。ジョーカーを殺したというのにちっとも安心せずに、むしろ不安だけが増したような顔をして腕に閉じ込めてくれた。 もうペーターを残して自己満足の罪に溺れてしまえるほど、アリスは真実を突き詰められない。 「ジョーカーは死んでねぇんだ。そう気に病むな」 「ゴーランド」 「だが、死んでいないから厄介なことはある」 「ユリウス……………」 「まぁな。またにちょっかい出してきやがるかもしれねぇ。帽子屋もなりふりかまってられねぇみたいだしな」 「それに……………は」 ユリウスの瞳が苦しげに歪む。何かを言いあぐねているのは明白だが、アリスはその言葉を促すべきかわからなかった。もう自分が立ち入っていい領域はとっくに過ぎ去ってしまっているような気がする。 ―――あの女も時計屋もわかっていますよ。 不意に、ペーターの声が甦った。がユリウスへの好意を認めたと報告したあと、ひどく淡々と愛しいウサギは言ったのだ。 ―――お互いが枷になることはあっても、牢にはなれない。 言葉の真意などわからないのに、アリスは鼻の奥がツンとして涙が出そうになった。がアリスを巻き込みたくないように、アリスだってジョーカーや姉が出てくる牢獄を彼女に語るつもりはない。けれどそれは、あまりにも滑稽な遠慮なのかもしれなかった。 「アリス……………そろそろアトラクションが終わるな。迎えに行ってくれるか」 目頭を押さえたアリスは、ゴーランドに頷いた。そのまま水柱に向かってゆく。 頼りない小さな背中を見送り、ゴーランドはちらりとユリウスを見た。 「……………で? は今でも声が聞こえるのか」 「…………扉の声は聞こえんようだ。……………………いや、そうじゃない。扉の声が聞こえるような場所に……………」 「行かないだけ、か?……………ったく、本当にどうしてがお前さんみたいなのを好きなのかわからんよ。手に入れたんなら白兎のようにしがみついてでも手放さない努力をしてみろってんだ」 「……………」 二人の視線の先では水柱が徐々に高さを失い、隠れていた人々が現れだしていた。アリスがを探し回り、きょろきょろと左右を見渡している。 「だがな、時計屋。アリスのようにゃいかねぇぞ。はジョーカーを殺させないだろ」 「……………」 「一時しのぎだとしても、はそれをよしとしねぇよ。理解した上でここに残るつもりだ。……………いいか、時計屋」 冷ややかな視線のままゴーランドは向きを変えて噴水に背を向けるユリウスの隣にゆっくりと立つ。 「泣くまいと虚勢を張る女を見守るのも優しさだろうが…………」 そうして友人の気軽さで、ゆっくりと視線をユリウスに合わせた。熱を持った手がユリウスの肩をぽんと叩く。 「受け止めるっつって笑ってやれよ。たぶんは大泣きするだろうが、それも愛ゆえだ」 な、バカップル。 付け加えた単語に頬を染めたユリウスが文句を言うのをゴーランドは聞き流した。 二人をお似合いだと思うし、はいい子だ。困っているなら助けてやりたい。 「!」 水柱が消えてようやくを見つけたアリスが叫ぶ。ゴーランドが一瞬そちらに意識を移した間にユリウスは人ごみにまぎれてしまっていた。あわせる顔がなくて帰ってしまったのだろうが、まったく手のかかる男だとゴーランドは思う。 ゆっくりとアリスの後ろからに近づくと、彼女は全身びしょぬれのまま微笑んでいた。ユリウスよりよっぽど肝が据わっている。はいつだって物事に正面から向き合おうとしている。 「大丈夫だよ、アリス。少し迷っただけ」 迷って迷ってその先に待つのは牢獄か、はたまた罪を飲み込み咎人に落ちるのか。 そんなことになればユリウスやエースがどんな行動に出るかわからない。実に絶妙な位置にいる女性にゴーランドは改めて感心してしまう。余所者という括りを抜きにしても、まったく最強のカードを手に入れたものだ。 もしも彼女が捕まれば、ゴーランド自身もジョーカーに引き金を引く覚悟を決めている。 |
同じ傷、同じ歪み、別の身体
2011.12.18