手に入れたくて仕方のなかったものを、どうして大切にできないのだろう。 「………ユリウス?」 戻ってきた冬のクローバーの塔に、彼の姿はなかった。時計塔に通じる部屋にも、クローバーの塔のどこにも姿が見えない。ナイトメアの部下に聞けば、数時間帯前に、ふらりとどこかに出かけたらしい。けれどユリウスは彼らの上司ではないので、誰もその行き先について言及はしていなかった。 あらためて、ユリウスの微妙な立ち位置を思い出す。彼は時計塔の主であって、このクローバーの塔ではどこにも属さずにいるのだ。ナイトメアの呼び出しに応じて会議にはでているけれど、それだって出来れば参加したくはないのだろう。 わたしと同じようで違う、ユリウスの人を寄せ付けない空気。彼の部屋に戻り―――もう、わたしの部屋と同義だけれど―――中心で窓の外を見つめる。外は雪がはらはらと降る、おだやかな情景を映し出していた。 「…………………ブラッドに会いに行こう」 ふいに、そう思った。会いにいかなければと思ってはいたけれど、自然に行こうと思えたのだ。 わたしはさっさと水着を洗濯場に置いて、夏の装いを改めて秋のモノトーンに着替える。コートは行きと帰りしか使わないけれど、できるだけ服装にあったものを選びたかった。キャラメル色のスカートと薄いクリーム色のブラウスに紺のカーディガンを羽織ると、鏡の前でくるりと回ってみる。ファーの付いた短めのショートコートを選んで、バックをつかんだ。 装いを変えるのは、きっと誰かに会うためだけの手順だろう。そうしなければ、何もかも混ざってひどく混乱する。 「………あれ?」 季節を変えなければいけないと思ってサーカスに向かったのに、気付けばわたしは秋に来ていた。自分の記憶のあいまいさにしきりに首をひねり、来てみた道を振り返ったけれど何の変哲もない道が続いているだけだった。 ジョーカーに会うのははっきり言って怖かったし、気持ちのいいものではない。けれど省略できたことなんて一度もなかったのに、どうしたのだろう。 「また、誤魔化された?」 それか、はっきりとした拒絶しかない。わたしはもう一度振り返り、クローバーの塔からサーカスへの道順を思い出そうとする。いつも通っていたのに、そのたびに違った気持ちを持っていたあの小道を。 ジョーカーが会いたくないというのなら好都合だ。わたしだって出来るなら会いたくはない。あんなにも会いたかったのに可笑しな話だけれど――もちろん、看守服のジョーカーだ――もう、会ってはいけない気がした。 「あ! お姉さん!」 「お姉さんだね、兄弟!」 考え事をしながら歩いていると、目的地に着いてしまった。鉄柵の門柱の前で、双子が各自斧を持ち上げて笑顔を向けてくれる。 わたしは考え事を頭から振り払って、彼らに笑顔を向けた。この世界の人は、人の話を聞かないくせに感情の機微にはひどく敏感だから。 「久しぶり、ディー、ダム。遅くなってごめんなさい」 「本当だよ!僕ら、放っておかれてすごくつまらなかった!」 「そうだよ、休んでいても遊んでいてもつまらなかった!」 その中に仕事が含まれないことが、彼ららしくて笑ってしまう。 本当に久しぶりだ。彼らに会うこと自体はあの冬空の下での愛人発言以来だけれど、それだって会話をしたわけではない。ブラッドの背後で斧を構え、白い息を吐きながら楽しそうに舌なめずりしていたように思う。そんな彼らにはたして声をかけられたかは、意識的にしようとしてもできたかどうかはわからないけれど。 「おい、ガキども。を困らせてんじゃねーよ」 突然、右肩を引かれて誰かの体にぶつかった。大きな右手だ、と思った瞬間にはその声が誰なのかわかった。左上を見上げながら、笑いださないようにしたのに声はすっかり明るくなってしまう。 「びっくりするじゃない、エリオット」 「あー悪い。アンタが小さいの忘れてた」 「小さくないし、標準。エリオットが大きいの」 頭ひとつ分は違うエリオットは納得できないように頬をかいた。エリオットの唐突な強引さは、この世界でわたしをどんなに癒したかわからない。例えばアリスのように会うなり銃を向けられたのなら懐かなかったのかもしれないけれど、最初から理想的な優しさでエリオットは信頼を寄せてくれた。 「おいっひよこウサギ!お姉さんを離せよ!」 「そうだぞ、ひよこウサギ!お姉さんを返せ!」 きらりと光る斧が向けられて、わたしは彼らの間に挟まれていることを思い出した。双子たちはいつものやりとり同様に、イライラしながらこちらを見ている。けれど対するエリオットはというと、わたしがこちら側にいるせいかひどく余裕そうだ。 「はっ、は小うるさいおめぇらといるより俺と一緒にいるほうがいいんだよ」 「うるさいのはお前だろ!馬鹿ウサギ!」 「いっつも馬鹿みたいに仕事ばっかして、本当に馬鹿ウサギ!」 「うるせぇな!それに仕事も満足にできねぇてめぇらがごちゃごちゃ言ってんじゃねぇよ!」 前言撤回、余裕はすぐになくなった。わたしを抱き寄せた方ではない腕にはすでに、彼愛用の銃が握られている。わたしは彼らがわたしの存在などすっかり忘れて喧嘩を始める前に、そっと静止する。 「ねぇ、三人とも。わたし、ブラッドに会いに来たんだけれど」 ぴたり、とまるで申し合わせたように三人が同時に動きを止めた。わたしは微笑んだまま、その銃口や切っ先がこちらに伸びてくるのを想像をする。自分たちのボスを「愛人」なんて不名誉な立場に置いている女の存在を、彼らは思い出しただろうか。わたしが自嘲気味に三人を見回すと、彼らはぱっと顔を明るくさせた。………明るく? 「そうだよな! 悪ぃ悪ぃ! ブラッドに会いに来たに決まってるよな!」 「そうだよね、お姉さんはボスに会いに来たんだ。それしかないに決まってる」 「それじゃ、僕らが引き止めちゃいけないよね! それとも、お姉さんには裏口から入ってもらう方がいいのかな」 「違うよ、兄弟。そういう場合は僕らみたいな腹心の部下が内密に動くんだ。ボスの大事な人を誰にもわからないようにお招きするんだよ」 「馬鹿かてめぇらは。腹心の部下っつったら俺だろうが」 喜々として騒ぎ出した彼らに――ここは突っ込むところなのだろうか――悩むべき場所に迷ってしまう。彼らはむしろ、ブラッドの愛人発言を楽しんでいるようだ。 裏口から、とか、そっとブラッドの耳に入れるように、とか。彼らは男性特有の浮足立つ会話を一通り盛り上がらせたあと、「でも早い方がいい」という至極まっとうな意見にたどり着いたようだった。わたしは前をエリオット、後ろを双子たちに守られるようにして帽子屋屋敷に足を踏み入れる。 「まぁ、様。いらっしゃいませ〜」 「ようこそお出で下さいました〜。様」 「様がいらっしゃったぞ〜! 今日のディナーは変更しろ〜!」 「ボスのお部屋にはどのワインを持っていったらいいかしら〜。様がお強ければいいんだけれど〜」 忍んで屋敷に入った方がよかったのかもしれない。帽子屋屋敷のメイドたちがにわかに騒がしくなり、花を集めなくちゃ仕立て屋はまだなの、と忙しく働き出す。あの口調なので忙しげに聞こえないのが不思議だが、実際ばたばたと働く姿は珍しい。 というか、泊まる予定はないのに客室は用意してもらえずにブラッドの部屋に決定しているようだが、聞こえなかったことにしよう。 「めまいがする……………」 小さく、顔色を青くさせてつぶやく。愛人発言で、まさかこんな歓待を受けるなんて誰が思うのだろう。ふつうは非難されこそはすれ、喜ばれるものではない。 やがて通された応接室で紅茶を出され、エリオットがブラッドを呼んでくると息巻いて出ていくと、自然とため息がこぼれてしまった。 ユリウスはもう部屋に戻っただろうか。そもそもどこに出かけているのだろう。普段から仕事で出かける以外はどこにも行かないような人なのに。 「お姉さん、疲れているの?」 紅茶のカップを持とうとすらしないわたしに、ディーが尋ねた。わたしは彼らがいたことを忘れていた。弾かれるように顔をあげて笑顔を作る。 「疲れていないよ。大丈夫」 「本当に?……お姉さんもハートの城のお姉さんも、僕らが聞くと大丈夫って答えるよね」 「でも大丈夫なんかじゃないんだ。ジョーカーに付け入る隙を与えちゃうくらい、大丈夫じゃない」 ジョーカー。思い出すのはピエロの方ではなくて、看守服の彼だ。そうして彼が最後に見せた表情と、それを見てしまった為に会いたくないと思っていること。 わたしは眉を下げて困ったように笑って見せる。 「大丈夫って言っていないと、不安なんだよ」 「じゃあ僕らに言ってくれればいいよ。お姉さんが怖いものは僕らが消してあげる」 「そうだよ。ボスの愛人なんかじゃなくても、お姉さんが怖いものは消してあげるよ」 本当に心配そうに顔を覗き込んでくれるので、わたしはやっぱり困ったように笑うしかない。二人がブラッディツインズと呼ばれていることを知らないわけではない。刺客を笑いながら殺しているところも、善良な一般市民を巻き添えにして戦っているところも見たことがある。彼らが最初から誰にでも優しい双子なら、わたしはこんなにも心を動かされたりしないだろう。彼らが常人ではないこと知っているから、こんなふうに優しくされるとほだされてしまう。 「ディーもダムも………甘やかすのがうまいんだから」 「そうかな。兄弟」 「お姉さんがそういうんだからそうだよ、兄弟」 目くばせをし合って笑う二人を見ていると、心の隙間が埋まっていくのを感じた。 確かに空いていたけれど気づいていなかった場所に、きちんと埋まってしまう。 だからわたしは寂しいのだろう。ユリウスと二人だけの生活で、わたしは何もかも満たされていると思っていたのに。 背後の扉が開く音がして、振り返るとエリオットが困り顔で頭を掻いていた。 「悪い、。ブラッド出かけてるみてぇなんだ」 「………そう」 「えー? 僕らボスの姿なんて見てないよ?」 「そうだよ、ひよこウサギ。ボスは門を通らなかった!」 「………俺だってわからねぇよ。今は外に出る用事なんてねぇし」 三人が頭を抱えてしまったところで、わたしは「あぁ」と納得する。 彼らに告げずに行くとしたなら、もう一か所しかない。わたしはバラの咲き乱れる、あの幻想的な庭を思い出す。そうして一瞬、自分でも驚くほど怯んでしまう。 「?」 庭園でのブラッドはある種自由で開放されていて、わたしはいつだってあの場所にいる彼に会うには勇気がいるのだ。 わたしはエリオットに微笑み、ゆっくりと席を立つ。 「わかった。ブラッドのいるところは心当たりがあるから、直接行ってみる」 「そうか?」 「うん。………あ、三人は仕事に戻ってね?」 あそこはブラッドの秘密の庭だ。エリオットさえも近づかせていないのだから、わたしが連れて行けば確実にブラッドの機嫌を損ねるだろう。不安そうに言うわたしに、エリオットも双子も頷いた。それはもういい笑顔で。 「わかってる! の後を付いて行ったりしねぇよ。なんてたって、秘密の逢瀬ってやつだからな」 「そうだよ。そんなことしたらボスに殺されちゃう。お姉さんとの秘密の場所だもんね」 だからどこから突っ込むべきなのか。 わたしを盛大に送り出してくれる帽子屋屋敷の面々に頭痛を覚えながら、事の成り行きを説明しただろう彼らのボスにも頭を抱える。わたしのことを考えてくれるけれど、わたしの話はあんまり聞いてくれない困った人たちの筆頭。 庭園で花の手入れをしている彼に会ったなら、まず入園の許可を取ろう。そうして彼が笑ってくれたなら、エリオットたちの待遇について愚痴を言うのも悪くない。 |
拍手も然り、
煩いくらいが丁度良い
2012.0109