「それは見事な歓待ぶりだな。我が部下ながら見事だ」 愚痴を言ったら笑ってくれるとは思っていたが、ブラッドがお腹を抱えて笑うとは思わなかった。わたしは彼と向き合う形でガーデンチェアに座っている。白い鉄製のバラをモチーフにした、瀟洒な作りのイスとテーブル。 「笑いごとじゃないでしょ。普通は怒るところだと思う」 息を吐き出し、わたしはブラッドを睨む。彼は少しも悪びれず、まだ楽しそうに笑ったままだ。涙さえ浮かべんばかりの笑いっぷり。 「が困る姿を想像したら笑えるんだ。仕方ないだろう」 「そこを見たいのなら、今すぐ屋敷に戻ろうか。一緒にいれば歓待ぶりがエスカレートしそう」 「だろうな。アイツラは喜々として世話を焼きたがる」 テーブルに肘をつき、手の甲に顎を乗せながらブラッドは瞳を細めてこちらを覗く。彼の手はいつも白い手袋に包まれているけれど、花の手入れをしていたから今は素手だった。 「大体、なぜ君を責める必要があるんだ? 愛人は私が申し出たのだから、誰も責める権利などないだろう」 「そ、それはそうかもしれないけど………例えばわたしの友達が愛人にされてしまったら、わたしは怒ると思う。友人がいいと言っても納得できないかもしれない。だって、相手は大切なものを二つも持っているなんておかしいでしょう」 言いながら、わたしは自分で自分を責めている気持ちになる。大切なものを二つ持ち続けることなんて出来ない。もともと、それは一つしか持ってはいけないものなのだ。 人を一人、独占するのはそんな容易いことではない。 「君は実に真面目だな。君の居た世界ではそれが普通でも、場所なり時代なりが違えば変わってくる。一夫多妻制がまだ現存する地域だってあるだろう」 「あるけれど……………それは特殊でしょ。確かに複数奥さんがいるかもしれないけど、はっきり二番手なんて示してない」 答えながら、自分が罪を感じている場所を見つけた。 愛人と呼ばれるのなら本命がいるはずなのだ。だとすれば、必然的に二番手だといわれていることに他ならない。わたしは自分が二番手なんて言われたら耐えられない。好きな気持ちは負けていないのに、どうして隣にずっといられないのだろうと恨んでしまう。 ブラッドは可笑しそうに片眉を器用にあげて、わたしの前髪にそっと触れた。 「なぜ君が落ち込むのか、わかりかねるな」 指の背でそっと、なでるだけで離れていくのは視線を上げさせるためだ。 「私が望んだことを、君が了承したんだ。不遇を訴えたりはしていないだろう?」 「それは、そうだけれど」 「君の世界はやはり窮屈でつまらなそうだ。おそらく愛人は冷遇され、周りからは非人道的だモラルがないと罵られ、人生を大きく狂わされるんだろう」 やれやれといった調子で肩を竦めるブラッドの言うとおりだった。わたしもあちらの世界に居た時には自分が愛人になるようなことなど絶対にないと思っていた。そんな不誠実な人とは付き合ったりしないと、理由もなく確信していた。自分が愛人を持つ立場になるとは微塵も考えなかっただけに、嫌悪した存在になるのが怖いのかもしれない。 「君の世界の愛人とやらがどれだけ酷い扱いを受けるかは知らんが、きっと存在自体を秘匿にでもしてるんだろう。妻がいるのに愛人をもって、相手を騙すから罪になる。……………………君の場合はすでに、始まりから異なっている」 「はじまり………」 「そう。愛人になってくれと懇願したとき、そこには時計屋だって居ただろう。君は私の存在を誰にも隠すことなどない。むしろ隠さずとも周知になっている」 「……………………」 周知。夏に行けばゴーランドはあっさりとブラッドとのことを聞いてきたし、ハートの城にはエースがいるのだ。わたしはもうすでに、ユリウスとブラッドを同時に手にした女ということになっている。 わたしは、やっと自分の立場の方が危ういことに気付いた。ブラッドはマフィアだし、ユリウスは葬儀屋と呼ばれどちらも業が深いし恨みも買う。そんな二人の弱みが脆弱な一人の女性だなんて、好都合すぎる。 「どうしたんだ、。顔が青く――…」 「おや、今日はもおるのか?」 急に華やいだ声がして、わたし達の前にはビバルディが姿を現した。お忍びらしくマントを羽織り、面倒そうにそれを避けながらまぶしいほどきれいな笑顔を見せる。 「姉貴…………」 「なんじゃ、がいるなら言ってくれればいいもの。独り占めなどするものではない。ふふ、、ほんに久しぶりだね。……………?」 ぼうと見上げたビバルディが、目の前で手を振った。ぱちりと目を覚ますように覚醒する。 「え、あ? ビバルディ?!」 「どうしたのじゃ、何を呆けておる。……なにやら愛人などと言っていたようじゃが………………どうせこやつが怖がらせるようなことを言ったのじゃろう。時計屋と帽子屋、ふたりを愛人に持つなど面倒なことをしてやっているというのに、お前にはメリットがない」 「…………や、メリットとかの問題じゃ」 「問題は大アリじゃ。そもそも、命の危険しか伴っておらぬ。が気軽に外出できなくなれば、わらわが困るというに」 問題はそこか。屈折しながらもビバルディ自身にも問題が生じてくるらしい。わたしはマントをさっさと脱いで隣に腰掛ける女王様に頭があがらない。きっと彼女のように強く振舞えれば――愛人なんて居て当然、という態度――問題などなくなるはずなのにと考える。 「ちょっと待て、姉貴。私を愛人にしてメリットがないとは聞き捨てならない」 「ほぉ? なら申してみよ」 「私ほどを着飾らせるものはいないだろう。体の曲線をいかに美しく、きわどく見せられるかはひどく技術がいる仕事だ」 「え? ちょっと待ってブラッド」 「ふむ、それは認めよう。が、お前の衣装は可愛らしさが足らぬ。にはもっとふわりとした春の衣装が似合う。そうそう、今度ひな祭りをやるのじゃ。かわいい着物を着せてあげよう」 「着物か…………。襟をぐっと開けたものを作らせるのも悪くないな」 「二人とも、話聞こうよ」 こういうときだけ息がぴったりの姉弟に、太刀打ちできるわけもない。余計な計画を立て始めた二人に声をあげると、ようやく止まってはくれた。視線をちらりとくれただけだけれど。 「あの、わたしが心配してるのは二人の邪魔になることだから……。捕まって人質にされたり」 「ふむ………お前の言うことももっともじゃが、人質になどしようものならそいつ等は確実に生まれてきたことを後悔する」 「そうだとも。君を攫うような輩は、君の目の届かないところで嬲って嬲って嬲りつくして…………殺してくれとせがむようにしよう」 くつり、と暗く笑った二人が同じように闇を孕んだ瞳を向ける。 「三月ウサギや双子が理性を持って犯人を捕まえるとは思えぬし、時計屋も黙ってはおらぬだろうな」 「………手を出すのが早い男じゃないことは確かだが、代わりに理性など最初からない飼い犬がいる。首輪などついていない、厄介な狂犬が犯人の喉を食いちぎるのとうちの腹心が考えもせずに蜂の巣にするのとどちらが先が…………」 「まぁ、犯人を斬首にはできまい。わらわのところに来るまで、肉片が残っておるとは到底思えぬ」 「…………………………」 別の意味で気分が悪くなってきた。たしかにエースやエリオットは話し合いすらまともにせず、斬りかかるし引き金を引くだろう。人質であるところの交渉をする気はまったくない。仮にそこでまだ生きていたとしてもブラッドの拷問が待っているし、ユリウスに至ってはわたしの想像など及ばない方法で始末しそうだ。加えて、女王の斬首刑が待っているとなれば誰もわたしのことなど捕まえないだろう。 あぁ、だから先ほどビバルディは「命が狙われる」という言い方をしたのだ。人質の価値などないから、もしブラッドやユリウスを傷つけたいと思えばわたしを殺すくらいしかできることがない。どちらにしても犯人は決死の覚悟に違いないことを思うと、なんだか申し訳ないような気さえするのはなぜだろう。 苦笑に似たため息を吐き出すと、ビバルディが思いついたように手を叩いた。 「そうじゃ。そんなに心配なら、わらわのことも愛人におし」 「………………………は?」 「姉貴…………とうとう、頭がやられたか?」 「お前にそんなことを言われたくはない。、悪い話ではないだろう? わらわを愛人にしたら、ほかの者への牽制にもなる。それに、わらわの統治下では誰もお前には逆らえぬ」 「でしょうね…………」 にっこりと冗談ではなさそうに微笑んだビバルディは、楽しげだった。確かに女王の愛人ともなれば――なおかつ、堂々と愛人であると名乗っていれば――その地位は表に裏に大いに広まるだろう。だがしかし、問題は性別だ。堂々とするのにも限度がある。 「でも、ビバルディ。わたしは十分守られていると思うよ。女王陛下の友人として、ずいぶん歓迎してもらったもの」 春の季節に飛べば、何かしら町の人が渡してくる。あぁ女王陛下のお気に入り、という視線が絡み付き、余所者ということもあってわたしの顔を知らない顔なしはいないだろう。春の街並みの中で、買い物をしていないのに両腕に荷物を持たされた滑稽なことといったらないけれど。 ビバルディはつまらないという顔をして、「そうか?」と尋ねる。 「そうだよ。ビバルディはアリスもわたしも大切にしてくれる。これ以上ないくらい。わたしはお返しをしてあげられないのに」 「何を言っておる。十分、楽しませてもらっておる」 長くて細い、芸術品みたいなビバルディの指がテーブルを叩く。そうして瞳をゆっくりと細めて、ブラッドとわたしを交互に見つめた。 「お前たちが相当面白いことになっているというだけで満足じゃ」 「…………………」 「…………………姉貴、私が言うのもなんだが……趣味が悪い」 ブラッドが珍しく眉を寄せて困り顔をする。ビバルディはころころと笑った。 この薔薇園でのふたりの雰囲気が好きだ。わたしなどいなくても完成しているのに、ふたりはきちんとわたしを加わらせてくれる。手を引いてこうやってテーブルを囲んで、親しげな空気に置いて行かれないようにしてくれる。ブラッドの寛いだ表情と、ビバルディのやわらいだ視線は彼らの領地に行けばめったに見られない。 心臓の裏がちくりと刺されたように痛んだのは、たぶんいつもの罪悪感だ。 ビバルディにさんざん遊ばれたブラッドが薔薇の世話と称して逃げてしまうと、女王陛下はやっと落ち着いて笑った。 「お前はほんに面白い子だね。あれをあそこまで弄ぶとは才能がある」 「あえて何の才能かは聞かないけれど……ブラッドが優しいだけだよ。ずるいのはわたしなのに、いつだって救ってくれる」 「救う……? 馬鹿を言うな。あれは自分のしたくないことは絶対にせん」 そうしてテーブルを叩いていた長い指でわたしの頬を撫でた。 「安心おし。お前が救われたと勘違いしておるのは、あやつがやりたいようにやったあとの偶然の副産物に過ぎぬ。それに、お前のことに関してはどうやら長期戦でゆくらしい」 くつくつと、喉の奥を震わせる笑い方はどこで習うのだろう。 ルージュがきっちりと引かれた唇に見惚れていると、ビバルディがそっと顔を近づけて耳元でささやいた。 「…………愚弟には、お前がジョーカーに魅かれたことは内緒にしておいてあげる」 「ビバルディ」 「お前が誰かに会いたいと泣いたのを、見たのは初めてじゃった」 言ったのだって初めてだよ、と視線だけで言えば女王は満足げに頷いた。クローバーの塔からハートの城へ無茶苦茶に走ったあのころはすでに遠い過去だ。あのとき確かにわたしは浮かれていた。ジョーカーに魅かれていたのだろう。看守服のジョーカーはいつだってほしい言葉をくれたから。 誰にも知られてはいけない、でもだからこそもう知っているのかもしれない。わたしはあのときジョーカーに会いたくて仕方なかったのだ。 ビバルディはひどく楽しげに、それでも微笑みだけで多くを語らなかった。守られているのだろう、と空気を吸い込むたびに気付く。ナイトメアやビバルディに、心の内側を守られている。ユリウスやアリスやブラッドに、嘘というには正しすぎる都合の悪い現実を隠しているのだ。 「……………ありがとう、ビバルディ」 ごめんと言ったら泣き出してしまいそうだったので、お礼を言った。秋の風が首筋をなでていき、ビバルディの香水の匂いを運んでくる。彼女はやっぱり微笑んで返事はしてくれなかった。 やがてビバルディが帰ると言って唐突に立ち上がり、来たとき同様さっさと帰ってしまうとわたしもブラッドに向き直った。わたしも帰るよと言うと、ブラッドは手袋をしながらあたりまえのように「では送ろう」という。帽子をかぶり杖をとったブラッドに、わたしは遠慮さえ許されない。 イチョウ並木を通り、オレンジ色に茶色をまぜた濃い色彩の中を歩く。まだ帽子屋領に近いせいか、人の姿はまばらだった。双子の日頃の成果だろう。あの子たちは近づくものはお客であろうと動くおもちゃ程度の認識なのだ。 「…………先ほどの話の続きだが」 ブラッドのなめらかな声が、静寂な空間に流れる。 「私は私の意志で君に愛人の申し出をしたんだ。気に病まれては困る」 「………うん」 「それに、そんな顔をしていると」 突然ブラッドが立ち止まり、つられて立ち止まったわたしは白い手袋にあっさりと顎をすくわれてしまった。あまりにも洗練された動きはよどみなく、無駄もない。ブラッドの顔が近すぎて焦点が一瞬あわなかったほどだ。 「愛人にしろと言ったが、君を攫うことを諦めたわけではない。……まだ冬に帰りたいだろう?」 冬に、帰りたいだろう。 冬は帰る場所なのだと、ブラッドは認めてくれる。わたしがきちんと帰ってもいい場所。吐息がかかるほど近い場所で、きっとわたしは泣き出しそうだった。それでも泣かなかったのはこれ以上ブラッドに優しくされたくなかったから。 「うん、帰るよ」 冬に帰るよ。 クローバーの塔にユリウスはもう帰っているだろうか。夏に出たまま帰ってこないわたしに腹をたてているかもしれない。ナイトメアの部下に聞けば、一度わたしが戻ってきたことはわかるだろうし、そうであれば書き置きもなく部屋を出るのはおかしいと思うだろう。 そうして書き置きをできない場所を、ユリウスはひとつしか知らないはずだ。 やはり心臓の裏側に刺すような痛みを感じながら、わたしはブラッドと一緒にいる。大切にしたいものを、自分が思った通りに大切にできない理由を探し出せもせずに滞留してしまう。このままいけば、きっと自分の手元に残るものなどないのだと知っているのに手を放すことなど出来やしないのだ。 |
君を捕まえてしまう前に
この手を振り切ってくれ
2012.01.09