冬に戻ってくると、雪に沈んだ町がわたしを迎えた。いつも静かで取り立てて騒ぎ立てるものがあるわけではないのだから、それが普通なのかもしれない。けれど春の華やかさや秋の喜びがないのは、どうしても比べてしまう。
その中央にそびえたつクローバーの塔を見上げると、いつだって果てしない気分にさせられた。ここはわたしが帰ってきてもいい場所かもしれないけれど、やっぱりまだまだ育った場所ほどではないと思ってしまう。もう帰ることのできない場所と比べることなど無意味なのに。
無意味だけれど元の世界を否定できない自分の方が、ずっと人間らしいのかもしれない。姑息で臆病で安心したがりな、わたしの考える人間らしさ。


「………ただいま」


クローバーの塔でも奥まった場所にあるユリウスの部屋の扉をあけながら呟く。まだユリウスは帰っていないだろうかと考え、それでもちゃんと誰かに報告するために口にする。言葉にするのは大事な仕事だ。
暖房特有の暖かくて重たい空気が頬にぶつかり、暖炉がきちんと機能していることがわかった。機械油の匂いが、部屋を出る前よりもきつくなっていることも。
―――ユリウスが帰ってきている。
理解したときドアノブを握る手が緊張のせいか固くなったことがわかったのに、どうしてもそれ以上の幸福がわたしを満たした。不在ではないことの幸福。


「…………遅かったな」


いつもの作業机の定位置で、ユリウスはわたしが夏へ行く前とそっくり同じ格好のまま出迎えた。まるでずっと仕事をしていましたというように、彼は眼鏡越しにわたしを見る。
会っていなかったのはたった数時間程度なのに、わたしは嬉しくて堪らなくなった。


「ただいま、ユリウス。ごはん、ちゃんと食べた?」


ハンガーにコートを通してブラシをかけながら、わたしは聞く。きっと彼はご飯を食べていないだろうと考え、コーヒーばかり飲んでいては胃に悪いのにと思う。思うけれど口には出さずににっこり笑って、近くの椅子に座った。
ユリウスは直している途中の時計を持ったまま、わたしを見ていた。


「どうしたの?」


しばらく作業を見ていようと思ったのにユリウスの視線は一向にわたしから離れない。藍色の瞳がひどく落ち込んでいるように見えたのは、一瞬だけの見間違いだと思いたかった。
聞きたいのだろうか。どこに向かい、誰と話し、ここにどんな心境で帰ってきたか。
でもユリウスの不在を確かめたあとでわざわざブラッドに会いにゆき、こうやって戻れば幸福だと再確認していることを正しく伝えることなどできない。
どこに行ったのか尋ねられれば帽子屋屋敷だと答えるだろうし、誰と居たのだと問われればエリオットや双子たち、ブラッドの名前ももちろん出すだろう。彼とふたりきりだったのかと詰問されれば、違うと笑顔で否定する自分などわかっている。すべて事実なのだ。ビバルディの存在は秘密にしなければいけないけれど、ブラッドと何かあったわけではないのだからユリウスが想像しているようなことは起こるはずがない。
真実と正しいことが一緒であればいいのに、それはまったく違うものであることの方が多い。


「…………いや」


視線をそらしてユリウスは作業に戻る。きっとユリウスはわたしがありのままに話すことがわかっているのだ。ブラッドと会ってきたことも、それでも何もなかったと言うわたしがいることも、だからこそこうやって戻ってきていることも。
わたしがユリウスなら耐えられるだろうか。
ふいに思う。ユリウスが少なからず好意を抱く女性に――相手も好意的である立場で――会いにいくとわかっているのなら、わたしはどうするのだろう。行かせてしまうのだろうか、行っても戻ってくると確信――又は、ユリウスの言葉を信じて――が、あるのだとしても彼が行ってしまうのを黙って見送ることができるだろうか。
そこまで考えて、わたしは笑ってしまう。
そんなことになったとしてもユリウスは戻ってくる。彼はきちんと、言葉通りに戻ってきてくれる。もし戻らないのなら、わたしにそう言ってくれるはずだ。それが彼の誠実さそのものだと知っている。
だから今喜ぶべきは、彼にとって不誠実に見えるわたしを黙って受け入れようとしてくれているユリウス自身の存在だった。


「……………」


エースなら、「ただうじうじして聞けないだけ」と一刀両断するだろう。そんなユリウスが好きなんだけどなと言って嫌がられるのも目に見えている。
わたしにこの人を独占する権利などないのに、彼はわたしのことを好きだという理由だけで受け止めようとしてくれる。好きだと言っただけで全部押し付けるのは間違っているのに、受け入れてもらえるとわたしも思ってしまう。
作業に戻ってしまったユリウスの、指先に視線を落としてわたしは口を開いた。


「わたしね、ユリウスが時計を直しているのを見るのが好きだよ」
「…………」
「珈琲を淹れてくれているときの、ちょっと神経質な顔も好きだし」
「………」
「外出するときの困ったような顔も、好き」
「………」
「迷惑だって言いながら、ちゃんとナイトメアの話に付き合ってあげるときとか」



突然ぶつぶつと独り言めいて話しだしたわたしを、ユリウスは制する。わたしは微笑んで、なぁに、と答える。


「…………機嫌でも取っているつもりか?」


不機嫌そうに、眉根をひそめてユリウスは問う。
あぁ、そう取られてしまったか。確かに愛人だと宣言する人に会ってきて罰の悪い女が、いきなり愛を囁いてきたら警戒するべきだろう。軽薄だと罵ってもいい。
ただ、わたしはそんなこと考えていなかった。指摘されて気づくくらいの分別は持ち合わせていたけれど。


「機嫌を取るつもりなら、言葉じゃなくてモノで釣ろうとすると思う。わたしの場合。例えばわざわざ珈琲を淹れにいったり」
「じゃあ、何なんだ。いきなり気色が悪い」
「気色が悪くて結構。だって、次は言えないかもしれないから」


椅子から立ち上がって、わたしは窓辺による。さすがに窓際はひんやりと冷たく、外は雪がまだ降り続いている。


「…………なぜ、言えないと思うんだ」


もうお互いの視線の先に、わたしもユリウスもいない。わたしは窓の外を見ているし、ユリウスは先ほどと同じように机に向かっている。
指先をそっと窓ガラスにつけると、氷に触れているようだった。


「ユリウスに好きだって言いたいときに、同じようにユリウスがわたしを好きだとは限らないでしょう?」


愛想を尽かされるのはわたしの方だと確信している。こんな話をする時点で間違っているということも。けれど、わたしとユリウスだからこんな話しかできないということも。


「……………お前は、私を疑っているのか」


声がこちらに向けられたので、わたしはそっと振り向いた。ユリウスは心外だと言わんばかりの表情だ。裏切られたのはこちらだと言われているようだった。
机から立ち上がったユリウスに一歩近づいて、わたしは首を傾け視線をあわせる。


「ねぇ、ユリウス。わたし達、この世界に来てから喧嘩しっぱなしだって気づいてる?」
「…………あぁ」
「それに、その喧嘩はいつも中途半端だった。終わってないの。仲直りをちゃんとしてない」


だから、とわたしは捲し立てる。


「仲直りをしよう? これは恋人同士になる前に、やらなきゃいけないことだった」


奇妙な言い分であることはわかっていた。それを肯定するようにユリウスが妙な顔をしたし、わたしだって可笑しな顔をしているだろう。自分が言ったのに要領を得ていないような顔を、晒しているはずだ。
エイプリルシーズンが来てからユリウスとは喧嘩ばかりしていた。ユリウスは一度謝ってくれたけれど、わたし達はもっと根本的な部分を避けてばかりいる。


「……………そんなものに意味があるのか?」
「そんなものじゃないよ。わたし達には大事なこと。それに……これじゃあ、ユリウスがあんまりだから」


でもね、。それはあんまりだわ。
引っ越しをしてクローバーの塔に弾かれたあと、夢の中でアリスに言われたセリフだった。あのときはブラッドの逆鱗に触れてしまい、ナイトメアに導かれる形でなければアリスに会うこともままならない状態だった。あのときユリウスが教えてくれたことを話せばアリスは静かに涙を流してそう言ったのだ。それはあんまりだわ。
わたしも今ならわかる気がする。当事者であるからすべてではないが、その一端だけでも掴めた気がした。
ユリウスは、呆れたようにため息をこぼす。


「それで? いったい何をどうすれば『仲直り』とやらになるんだ?」


心底面倒そうなのに、彼は付き合ってくれるらしい。おそらくユリウスの目にはこれが単なる手順に映っているに違いない。けれど、そんなに単純なものではないのだ。
わたしはつい先ほど仕舞ったコートを取り出して、右手に持ったまま微笑む。


「それを決めるのはユリウスだよ。………仲直りをしない道も、たぶんあるだろうから」
「…………? お前何を言って」
「決めるのはあなたがいい。わたしを好きだって言ってくれて嬉しかった。でも、それからいろいろあったでしょう?」


いろいろ。主にブラッド関係の複雑な物事が、確かにいろいろあったはずだ。


「だから、これじゃフェアではないって思ったの。ジョーカーから助けてくれたときとは状況が違うでしょう。少なくとも、あなたを悲しませるつもりなんてなかったんだけど」
「…………私は」
「それでも、わたしは手離せそうにないの。だから、あなたが決めて」


手離せそうにない。それがわたしの答えだった。
ブラッドのことも、ブラッドが作り出してくれる柔らかな空気の中にいることも、わたしはきっと手離せたりしないのだろう。
ユリウスの顔がさっと強張った気がした。わたしは絶望的に悲しくなる。


「………春で待ってる。桜が綺麗な場所があるの。そこで待っているから」


悲しかったけれどここで泣いては更にユリウスを困らせてしまうから、わたしはなんとか泣かなかった。奥歯を噛みしめて、なんとか声だけは震えずにいてと願う。


「ユリウスが、決めて」


これからのわたしと付き合っていけるかどうか。
ユリウスは黙ったままだった。わたしは笑顔が消えないうちに身をひるがえして扉を開ける。冬の冷たい空気に晒されて、ひとりであることを思い知らされる。扉を閉めて、しばらくその扉を見ていたくなったけれど、なんとか歩き出す。
ユリウスには選ぶ権利があるのだ。身勝手なわたしを糾弾するには彼は優しすぎた。だから、きっかけはわたしが与えなくてはいけない。
耐えていた涙が流れたけれど、わたしはもう振り向かなかった。

















大事にする方法を知らなかった





2012.01.09