暖炉の中でぱちりと火が爆ぜて、ユリウスはようやく自分が何もしていないことに気付いた。 今しがたが出て行った扉はまるでそんなことなどなかったように平然とそこにある。を吸い込んだくせにすぐにでも彼女が顔をのぞかせるような、いつもの表情だ。 考えがまとまらず、とりあえず立ち上がってユリウスは窓際に近づく。自分が作業台に向かっていたときがしたように窓際に立つとガラスに指先の形であとがついていた。指の腹で押したようなあとに自分の手を重ねれば、暖炉がついているにも関わらず氷のように冷たい。 「……なにが」 気に障ったんだ。ユリウスは眉を潜めて呟く。 指先に力が入り、窓ガラスが揺れた。その指先の向こう側に、の姿を見つける。彼女はクローバーの塔から出たばかりで、まっすぐにサーカスを目指しているようだった。よどみのない歩き方、真摯すぎて思いつめているような彼女特有の足音が聞こえてくるようだ。 が帽子屋屋敷に行ったことをユリウスはもちろん知っていた。夏から帰る途中にどうしてもまっすぐ戻る気分になれず冬の湖へ立ち寄り、帰ってくれば塔の連中にが探していたと告げられた。 彼女は寄り道もせず、アリスと女特有の長話さえせずに帰ってきたのだ。 教えてくれた顔なしに礼を言い、はやる気持ちを抑えて自分の部屋に向かった。もうすでにの私物が持ち込まれた、彼女の部屋とも言える作業部屋だ。 けれど、部屋にの姿はなかった。暖かにされているだろうと思って飛び込んだものだから、その冷たさは外にいたときよりもずっと辛いものだった。 机に視線をくれればそこには何もない。は書置きもせずどこかに行く女では――自分がされれば嫌だから、とは必ず書置きをしていく――ない。 ユリウスは額を自分の手で覆って天井を仰いだ。あいにく書置きをできない先をひとつしか知らなかった。 「…………帽子屋」 声に出せば、存外憎々しげに聞こえた。帽子屋が手下を率いてクローバーの塔に現れたとき、ユリウスも覚悟をしていなかったわけではない。交戦になればを守り通すつもりだったし、そのための手段は厭わなかった。けれどは銃を構えるブラッドたちに笑顔であいさつを述べて謝罪し、あっさりとその手に自分のものを滑りこませてしまった。あのときの手を引いた帽子屋の顔は愉悦に歪んでいなかった。勝ち誇った顔をしていたのなら、ユリウスはすぐにでもを奪うために手を伸ばしただろう。けれど、あのとき帽子屋はひどく安堵した顔をしていた。勢力同士がにらみ合う広場に似つかわしくない安心しきった顔だった。 「………馬鹿げている」 あの表情を自分は知っている。を迎えに無理やりサーカスに入った時だ。ジョーカーの手からを奪ったとき、同じように自分はひどく安心していた。周囲に誰がいようが構わなかった。が自分の手の届く場所にいるということが、重要だった。 まったく馬鹿げた感傷だ。皮肉なことだが、帽子屋と自分を重ねたために手を出せなかった。そのために帽子屋のまったく笑えない提案をが受け入れてしまう羽目になる。がサーカスに連れて行ってもらうために帽子屋とどんな取引をしたか知らないが、彼女は確かに一瞬驚きそれから逡巡し、けれど決意したあとは柔らかく笑った。 見つめあっていたふたりに、どうしても割って入れなかった。あのあと、エースは「ユリウスは心が広すぎるぜ」とぶつぶつ言っていたが、むしろ逆だ。心が狭かったために二人の関係を認めたくなかった。割って入れなかった無様な自分を認めないように彼女を受け止めた。 『仲直りをしよう? 本当なら最初にしなければいけないことだった』 確かに自分たちは冬になってから随分衝突していた。彼女が激情に任せて言い返す様など見たことがなかったために、ユリウスはいつだって新鮮に驚いてしまう。 どんな顔をしていても綺麗だと思ってしまうのは惚れた弱みだろう。事実、が風邪で寝込んでいるときも、自分を待つために暖炉の前で本を読んでいるときも同じように自分は感じていたのだから。はユリウスの視線の先で、見るたびに美しさを変える万華鏡のようだった。 思考がまとまらずにため息をつき、ユリウスは瞳を閉じる。けれど、すぐに邪魔が入ったことを知った。体がふわりと宙に浮くような錯覚を覚え、目を開けるとそこは夜空に七色を無理やり溶かし込んだような夢の空間だった。 「…………ナイトメアか」 「ご名答。なんだ、完全に呆けているわけじゃないのか」 視線の斜め上で腕を組んで見下ろすナイトメアは、口元にうっすらと笑みを浮かべていた。 強制的に眠りに落とされたのか、それとも幻でも見せられているのか、ユリウスは判別しようと目を凝らす。 「なんのつもりだ。私に用事があるのなら、わざわざ呼び寄せるな。自分の足で来い」 「用事があったわけじゃない。ただ私は忠告しに来たんだ。の友人としてな」 すい、と泳ぐような姿勢でナイトメアが移動する。の名前が出たことで、ユリウスの片眉があがった。 「に別れようと言われたわけではないだろう。なぜすぐに追いかけないんだ? 場所なんて関係なく、止めたいのならばすぐにでも手を伸ばせたはずだろう」 そうしていかにも見ていたような調子で話し出す。ユリウスは相手の嫌味な能力に舌打ちをしたくなる。見られて気持ちのいい場面ではなかった。指摘を受けるのも不快だ。 「お前には関係ないだろう、ナイトメア」 「あるさ。私は彼女の友人だ」 「だからと言って……」 「加えて、私もお前と同じように思っている。ジョーカーに捕らわれるくらいなら、多少のルール違反だって犯すさ」 ゆらゆらと揺られるナイトメアと視線をあわせれば、いつになく真剣なようだった。ナイトメアはがこの世界で二人目に会った役持ちだ。エースに会う前にナイトメアに会わせ、騒動を収拾させようと思っていた。けれどナイトメアは首謀者ではなく、は運命のいたずらとしか言いようのない理由でこの世界に落ちてきたことがわかった。落胆するユリウスにナイトメアは笑っていたように思う。はユリウスが紹介したこともあってかすぐにナイトメアと打ち解けた。 「知ってたか、時計屋。は引っ越しのあとすぐにここを出て行った」 「聞いている。…………アリスが城に誘ったんだろう」 「そうだ。時計塔から弾かれたことを少しばかり驚いて、引っ越しについて色々と尋ねて………アリスが誘うからとあっさりこの塔を出て行った」 ナイトメアは思い出すように視線を彷徨わせて、唇の端だけあげて自嘲する。 「あまりにも簡単にいなくなってしまうから、こちらが拍子抜けしたくらいだ。時計屋がいなくなったのだから、私を頼ってくれるものだとばかり思っていたのに」 「……それはとんだ誤算だったな」 「あぁ、しかも彼女はそれからとんでもない提案をした。滞在先を決めないと言い切ったんだ。アリスにも頼るつもりがなかったらしい。………思えば、彼女もどこか可笑しかったのかもしれないな」 役持ちの集まる会合で、彼女は毅然と前を向いて提案をした。自分は戻る人間だと宣言した上でその間は一緒に居てほしいと願った。思えばあの提案があったためにその後の混乱は起きたのかもしれない。 ユリウスは瞳を細めてナイトメアを睨みつける。 「何が言いたいんだ、お前は」 いつもの冷静沈着な男らしくない物言いにナイトメアは冷めた視線のまま口を開いた。 「はお前に怯えていたんだよ、時計屋」 指摘された事実にユリウスが大きく目を見開いた。反論しようと口を開くが、ナイトメアが急に降りてきたことで出来なくなる。 「思い出してみろ。はお前にずっと従順だった、それなのに冬になってからは反発してばかりだ。ペンダントを突っ返されたろう」 「それは私が」 「確かにお前も悪い。大方、が一人でも私たちと仲良くやっているのが気に食わなかったんだろう。彼女がひとりでも十分やっていけると知って、ショックだったのか?」 は確かに冬にもあまり動じていなかった。また何かあったのという調子で、けれどユリウスの存在を知らせると違和感に顔を曇らせた。彼女の中で、支えのないことが逆に支えになっていたとすれば皮肉な話だ。 「………………認めたくはない話だが、はジョーカーに魅かれていた」 看守服のジョーカーに、は確かに魅かれていた。帽子屋屋敷に無断外泊をして帰ってきた彼女は上機嫌だった。あのとき嫌な予感がしたことをナイトメアは覚えている。なんとなく、これ以上深くは心を覗かない方がよさそうだと思った。 それなのに、ユリウスはあっさりとその願いを打ち破ってくれた。を叱責し、追い詰め、彼女を平静でいられなくしてしまった。あのとき、は自分が何を強く願ってしまったかわかっていた。わかった上で、視線を合わせたナイトメアに懇願したのだ。 「言わないで」 「………は?」 「が強く私に念じてきたよ。………お前にはジョーカーに『会いたい』と思ったことを言わないで、とな」 「………」 「あの場には私もグレイも騎士も居たのに…………が懇願したのはお前だけだったよ」 あのとき自分だって少なからず傷ついていたというのに、ナイトメアは話してやる。こんな鈍感男のどこがいいんだ、とに問いかけながら。 「知られたくなかったんだ。はひとりでいるときよりずっと不安定だった。………お前だって気づいていただろう。それに、はっきり言われたはずだ」 ユリウスはすでに反論せず、ずいぶん大人しい。けれど視線は逸らさずにナイトメアを捉えている。静かな獣みたいに、本能のままの光を宿して。 「『捨てられたのは私の方だった』…………はそのあと必死に自分が悪いのだと思おうとしていたが………思っていないことは言えやしない」 引っ越しに影響など受けていないような顔をしていても、は傷ついていた。ユリウスの思いに気づかないふりをしていたことも手伝っては自分ばかり責めてしまったが、口から出た言葉はいつだって少なからず真実を含んでいるのだ。 ここまで言えば鈍くても頭が悪いわけではない時計屋はわかるだろう。そう思ってみやればうっすらと頬が赤い気がした。ナイトメアはとどめとばかりに肩を竦める。 「あまりにも情熱的な告白じゃないか。…………はお前に捨てられることに怯えていたんだよ」 どちらかが一方的に悪いわけではなく、二人が意識的に避けてきた問題が大きくなっただけだ。はユリウスに、ユリウスはに負い目があった。好きだということを抜きにしても相手には隠しておきたい類の傷だった。 「……………ちっ!」 盛大な舌打ちと共にユリウスがその場から姿を消した。夢から現実に戻ったのだ。何も言わずに行くところがユリウスらしい。ナイトメアは取り残された空間で腕を組みながら、なんともお人よしになってしまった自分を笑った。 「願わくば君が幸福であることを」 ナイトメアは優しい。そう言い続けてくれた彼女に自分は随分救われたのだ。自分ではない男のものにするのは面白くはないが、それでもの望みであれば仕方がない。 ナイトメアはひとりため息をつきながら、夢の中で目を閉じた。 |
焦燥を噛み潰す癖
(13.06.03)