冷たい石畳、見る限り入っている人もいない鉄格子の中、そうしてどこまで続いているのかわからない廊下。通る風もないのにいつだって首筋をひやりと撫でられる気がした。ここはそういう場所だ。普段忘れている罪をわざわざ思い出させようとしている。
わたしはゆっくりと一通り見渡したあとで、ジョーカーに向き直る。


「もう、サーカスは終わりなんでしょう?」


ピエロのジョーカーはそう言っていた。もう終わりだと。
サーカスの終了が何を示すのかはまだ判別がつきかねた。世界にとってはサーカスがすべてではなく、けれど彼らの存在はサーカスと監獄がすべてだったように思う。サーカスが終われば監獄も終わるなんて、虫のいい話もないだろう。
看守服のジョーカーは――ブラックさん、とわたしは呼んでみたくなる――つまらなさそうに肯定した。


「あぁ、恩赦も終わりだ。面倒くせぇ」
「そう? 少しも楽しめなかったの」
「………楽しめるかよ。お前、俺たちは楽しませる側だって聞いてなかったのか?」


やれやれと言った調子で肩を上下され、彼らが主催者側だったことを思い出す。それは例えばハートの国でのビバルディであり、クローバーの国でのナイトメアのような役割だったのだろう。主催者はわたし達を楽しませなければいけない。
わたしは少しだけ悲しくなって微笑む。心から楽しかったと言えればよかったのに、嘘はつけない。


「お疲れ様………ついでにお願いがあるんだけど」
「あぁ?」
「さっき聞いたとおり。わたしは春に行きたいの。だから季節を変えて」


ピエロのジョーカーに飽きられたらしいわたしは、彼に頼るしかない。


「春に何かあるのかよ」


看守服のジョーカーを、わたしは目を真ん丸にさせて見つめた。
聞き違いだったろうか。彼が尋ねたのは、今までは会話にのぼらなかった類のものだった。まるで彼がわたしに興味があるような。


「………驚いた。出かける理由なんて、今まで聞かなかったのに」
「気まぐれだ、気まぐれ。あとは時計屋に対する嫌がらせだな」


そう言って笑ったジョーカーは確かに意地悪そうではあったのだけれど、それが逆に気持ちのいい笑いだと思った。ホワイトさんの方ではこうはいかないだろう。彼の微笑みはいつもうさん臭くて、わたしは笑うのをためらってしまう。
時計屋に対する嫌がらせ。わたしは彼が少なからず前回の修羅場について、面白くない思いを持っていたことを理解する。
それでも先ほどとは違い、微笑んでいられるのは彼がわたしの望んだジョーカーだからだろう。


「あなたを引っぱたいたこと、謝らないから」


驚いたことにわたしは微笑んだまま、そう言っていた。ジョーカーも笑って応じる。


「誰が謝れっつったよ。それとも、俺に謝ってほしいのか?」
「そんなつもりはないよ。謝らないで」


謝ってなかったことになるものなどないし、そうしてほしくなかった。唇に感触など残ってはいないけれど、あのときジョーカーは確かに一番近くにいたのだ。乾いた唇を押し付けあって、わたし達はどちらもきっと傷ついていた。
ひとしきり笑いあったあと、ジョーカーは世間話のように唐突に切り出した。


「時計屋と喧嘩でもしたのか」


表のジョーカーのように周りからじわじわと攻めるのではなくて直球勝負は彼のいいところだ。わたしは彼らがすっかり傍観を決め込もうとしているのを知る。


「したよ。わたしが一方的に喧嘩腰になったんだろうけど」
「あの時計屋がてめぇにキレるわけがねぇな。帽子屋との一件で別れてねぇのが不思議なくらいだ」
「失礼な。…………そんなに面白そうに言わないでくれる?」


そんなことになったら一大事だというように、わたしは非難する。


「一緒だろうよ。こうして喧嘩して出てきちまえば」
「そうだとしても、わたしはユリウスといなければ意味がないんだよ」
「あぁ?」
「…………わたしが本当に怖いものを、あなたは知っているじゃない」


他に知っているのはナイトメアくらいだろう。監獄の中で、わたしと一緒に牢の中身を覗いでくれたのはジョーカーだった。あのとき、わたしは心のどこかで安堵していた。ずっと怯えていたものの正体がわかって、我慢してきたものが決壊した。そうではないとずっと否定したかったのだ。
ジョーカーは笑みを引っ込めて、わたしを見つめる。


「…………しねぇだろうよ」


それからぽつりと漏らした、彼の声音はどこか優しいように感じた。


「てめぇを、時計屋が捨てるとは思えねぇ」
「それが真実だとしても、怯えてしまうのはわたしの性格の問題なんだろうね。自分に自信がないから、終わりばかり見据えてしまう。ユリウスにいらないって言われたら死にたくなるのに、彼を悲しませるようなことばかりして……」


怖かったのは、もう一度失うことだった。わたしの思いはすでに度を越してしまっている。ユリウスと一緒にいたいと心底願っているのに、ひたりと絶望が背中に張り付いて離れない。傍にいられれば満足だと思う反面、この時間が長く続かないことを嘆いている。
所詮ないものねだりなのだ。瞳を閉じて深呼吸すれば、監獄だというのに深い森の匂いがした。


「時計屋に捨てられたらどうすんだよ。帽子屋のとこにでも行くのか?」


吐き捨てるようにジョーカーが尋ねる。わたしは首を振った。


「まさか。そんなことしないよ」
「じゃあ………」
「そのときは、扉を開ける。声のする扉を開けて、入るしかないもの」


扉の森には随分言っていないけれど、クローバーの塔にも似たようなものがある。どこでもいいし、場所などは関係ない。わたしがユリウスに捨てられても、深層心理で向かう場所に行きたかった。
ジョーカーは鼻を鳴らして、どこから取り出したのか鞭をぱしりと手で鳴らした。


「………その先が監獄じゃねぇ保証はねぇぞ」
「そうかもしれない。でも、そしたらあなたが居てくれるんでしょう?」


今度こそ牢の内側の人間になるのだとしても、彼が居てくれるのならばいいかもしれない。わたしは先ほどの気分の悪さが薄れていくのを感じていた。息の吸い方さえ思い出せなかったのに、わたしがきちんとわたしに収まっていくのを感じる。


「わたしの担当はあなただって、言われたもの」
「………チッ! ジョーカーのやつ押し付けやがったな」


心底忌々しそうに苦笑いを浮かべるジョーカーは声ほど嫌がっていないのがわかる。何を言ってもわたしがにこにこと微笑んでいるので、終いには大きなため息をついてジョーカーはわたしを睨んだ。目つきの悪い赤色の、きれいな瞳。
長い指先がしなる鞭を一瞬のうちにどこかに消してしまう。わたしは一種のショウを見ている気分だった。その指先が自分の顎を捉えるのも、まるで当然のことのように思えるほど洗練された動き。


「…………目ぇつぶれ」
「…………」
「警戒すんな。季節を変えてやるんだ、文句はねぇだろ」


至近距離で顎をつかまれたまま、前科のある男に警戒するなと言われても無理な話だろう。
薄暗い監獄の中でも赤くきらめく髪がジョーカーを縁取る。隻眼の瞳にわたしが映っていた。

「お前が誰かに会いたいと泣いたのを、見たのは初めてじゃった」

ビバルディの艶めいた声が一瞬よみがえった。わたしはこの人が確かに好きだったのだ。もう過ぎ去ってしまったあのころに、名前を付けるのならば恋だった。
わたしは照れくさくなって目を閉じた。顎をつかむ手は手袋越しなので固い。


「俺は面倒くせぇことが嫌いだ。てめぇがどうなろうと知ったこっちゃねぇ」


顎をつかむ手が離されて頬を撫でる。慈しむような一瞬の後、乱暴に引き寄せられた。両腕に無理やり閉じ込めるような性急さに感じた切なさに、心が軋んだ。
耳元で聞こえた声を、わたしは忘れないだろう。


「二度と顔を見せるな。……牢獄なんて、綺麗さっぱり忘れちまえ」


罪を忘れることなどできないのに、ジョーカーは優しくわたしを諭す。置いてきた過去をすべて背負って生きていくには、彼に捕らわれてしまう方が容易いのだろう。それでも、この人が背を押してくれるのでわたしは戻るのだ。
背骨が軋むほど強い抱擁が解けると、まぶたの裏に光を感じた。ゆっくりと目をあければ、春の日差しが柔らかく降り注いでいる。わたしは思わず振り返ったけれど、そこには誰の姿もなかった。


『ばぁか』


振り返ったわたしが寂しそうだったからかもしれない。耳元で聞こえた声はあまりにも彼らしくて、思わず笑ってしまった。わたしの看守は見逃してくれたのだ。閉じ込めてしまわなければいけない囚人を、逃がしてくれた。


「ありがとう」


呟いて、わたしは春に降り立つ。暖かな風が頬を撫でてくれたけれど、わたしは一歩一歩緊張していた。わたしの運命を決めるのは、ここなのだ。




















過ぎるほど鮮やか







(13.06.03)