春の匂いに包まれると、胸の奥で悲しみがいっぱいになる気がする。肌寒さの中に芽吹きはじまった緑の匂いが混じるからかもしれない。昼の時間帯の街並みはいつもにぎやかで活気があり、だからわたしは出来るだけ裏通りや端を歩こうと努力する。春の匂いの中で悲しみにあふれている女など、喜びに満ちた人々にまぎれていいわけがないと思うからだ。


「あれ、じゃないか?」


大通りをようやく抜けようとしたとき声をかけられた。わたしは少しばかりどきりとする。
振り返らなくても、その声の主を知っていた。


「エース」
「春に来るなんて、珍しいね。しかもユリウスと一緒じゃないんだ?」


赤い騎士服に身を包んだエースは、身軽にわたしの近くに走る。彼の中ではすでにユリウスとセットになってしまっているのだろうか。いついかなるときでも、一緒にあるべきだと?


「残念。ユリウスは一緒じゃないよ。それとも仕事の約束をしていた?」
「いいや。仕事は終わったばかりだから、まだお呼びはかかってないぜ。あー………でも、ここはちょっと離れた方がいいかも」
「え?」


言うなり、すいと手を取られて裏路地に連れ込まれる。エースの動きは淀みないが、いつだって自信満々に道に迷うのだから不思議だ。
これ以上、わけのわからない道に連れて行かれてはたまらないので抗議する。


「ちょっと! 今は旅には付き合えないんだってば!」
「しぃ。旅じゃないよ。問題はもっとシンプルに………ほら」


路地に身を潜め、物陰から通りを指さすエースにしぶしぶ付き合えばハートの城の兵士の姿があった。彼らは二人一組で行動しているらしく、あたりを見まわりながら進んでいる。
なんてことのない、通常の兵士たちのようにも思えた。彼らは町を見まわっているのだし、何度か言葉を交わしたこともある。けれど兵士が去ってからようやく口を開いたエースはくつくつと笑った。


「実は、陛下から命令が下っているんだよ。が城下に現れたらすぐに城に連れてくるようにってね。だから、見つかったら城に連行されちゃうぜ?」
「えぇ? なんでそんな」
「なんでって…………がユリウスにべったりだからじゃないか」


ハハハ!と空々しく聞こえる笑い声が裏路地に響いた。ビバルディにはブラッドの薔薇園で会ったけれど、たぶんその命令はずっと前から下っているに違いない。
それくらい、わたしにはユリウスだけだった。時間帯など意味のないことだと思えるけれど、もうどれくらい一緒にいたのだろう。何かを埋めたがるようにして、決して二人とも埋められないと理解しながら、一緒にいるのは滑稽だろうか。


「ありがと、エース。用事があったから助かった」
「どういたしまして…………、なんなら俺、ボディガードしよっか?」


にこにこしながら申し出てくる騎士に、わたしは負けじとにっこり笑う。


「いい。大事な用事だから、ひとりでしなくちゃいけないの」
「へぇ…………でも、さ」
「なに?」
「たまには俺の旅にも付き合ってよ」


立ち上がって歩き出そうとしたわたしの前に立ち、エースは呟く。彼の旅になど同行しようものなら帰りはいつになるかわからない。それどころか、無傷で帰ってくるのも保証できない。山を越え、谷を飛び越え、クマに追われて、数時間帯を野宿する。
わたしはそっと視線を外して、彼の真っ直ぐかつ期待に満ちた瞳を見ないようにする。


「旅はひとりの方が快適なんじゃなかったの?」
「もちろん、ひとり旅も好きだぜ? でもとも一緒に旅をしたいんだよ。ユリウスは絶対ダメだって言いそうだけど」
「わかっているなら誘わないでよ。わたしなんて、エースの足手まといになるだけだし」
「ハハハ! いいよ。その方がいつもより楽しめそうだし、置いて行かないようにするって鍛錬にもなるだろ?」


人で鍛錬しないでほしいし、命がけのサバイバルに付き合ってもいられない。
そう口にしようとして、ユリウスのことが頭をよぎった。もし彼と別れることになったとしたらエースはどう思うだろう。また引っ越しの後のような不安定なエースを見ることになるのだろうか。それとも、ユリウスを裏切ったとみなされて剣を向けられるのだろうか。
ユリウスの作業場で、わたしの膝で眠るエースは言ったのだ。ユリウスのことを忘れないでくれと。


「ねぇ、エース」
「なんだ?」
「わたしがユリウスと別れたらどうする?」


気づくと口をついて出ていた。裏路地にいるせいでエースの笑顔は一種のホラーにさえ感じられる。エースは意外なことを言われたというようにきょとんとした。


「ユリウスと別れるのか?」
「もしもの話。振ったり振られたり………そんなのありふれた話でしょ? それに、ユリウスがわたしに愛想を尽かすかもしれないし」


手離せそうにないと告白した時の寂しそうなユリウスの顔がよみがえる。ひどいことを言ったものだ。わたしだったら耐えられそうにない。


「……それはないんじゃないかなぁ」


なんともあっけらかんとしたエースの声。目を丸くさせたのはわたしだった。


「え?」
「だって、あのユリウスだぜ? を自分から振るなんてこと絶対あるはずがないし、もし仮に君が別れてくれって言ってもそうそう簡単に別れるとは思えないよ」
「いやでも……わたしのことが嫌いになったり」
、考えてもみなよ。ユリウスのあの根暗な性格上、君に嫌われたとしても絶対になんとか説得にかかるとみて間違いないだろ? ユリウスから嫌いになることは間違ってもない。それに、説得にかかられれば粘着質なユリウスのことだから、君が別れないっていうまで延々と離さないだろうし…………」


顎に手を当てながら真剣に考えているエースは、本気でそう思っているらしい。自分の友人をなんだと思っているのだろう。加えてエース自身が不安定になるほど固執しているはずの相手なのに、どうしてここまでこき下ろせるのだろう。
愛ゆえの照れ隠しなのかなと考えてみたけれど、気色が悪いので抹消する。


「つまり、君は厄介な相手と付き合ってるんだよ。例えば帽子屋さんなら飽きたらぽいっとされるかもしれないけど、ユリウスはこれと決めたらもう離さないよ」
「厄介って…………あなた仮にも友人でしょ?」
「ハハハ! 気色悪いこと言わないでくれよ!」


爽やかに、あっさりと否定されてしまった。この世界の人に正しい人の道を説いたところでまったくの無意味だということを再確認してしまう。


「明るく言いきらないでよ。…………それに、あなたも言ったけどわたしがユリウスを忘れなくても、ユリウスがわたしを忘れてしまうってこともあるんじゃない?」
「…………」
「引っ越しで弾かれて、わたしは土地に留まることのできない余所者で…………。これからもずっとそうなのだとしたら………」


いつか、ユリウスと離れてしまう道もあるだろう。一度はあったのだ。そして、それを繰り返していく中で培った愛情が消えてしまうこともありうる。なにしろこの世界は何が起きても不思議はない。
どんな世界への道も用意されているのだとしたら、『ずっと』なんて無理な話だ。


「それはないよ」


笑い声をまったく含まないエースの声。硬質で冷めている、感情のこもらない声は苦手だった。加えて、そういうときのエースは無表情だ。


「もしがユリウスを本気で好きで、ずっと一緒に居てくれるのなら………そんなことにはならない。この世界では思いが希薄な分だけ、強く願うことが反映されるんだ」
「思い……?」
「そうだよ。君がユリウスを誰より大事だと強く願えばいい。迷いながらもこの世界に留まって、大事なものを手放さなければ………」


ちゃり、とエースの腰の剣が音を立てた。


「俺も、このまま迷っていられるはずだから」


処刑人。エースの大剣は、わたしに嫌な単語を思い出させた。
監獄の管轄を離れれば、大罪人として処刑人の管轄に移される。わたしは実に微妙な位置に立っているのだろう。彼を悩ませて、惑わせていると言っても過言ではない。四六時中迷っているような人なのに、また荷物を増やすようなことをしてしまった。
彼に斬られてあげることはできないのに、こうやって甘えてばかりいる。


「エース」
「ん?」
「あんまり長くは無理だし、きっとユリウスは止めるだろうけれど…………今度、旅に付き合うよ」


この人の放浪癖に付き合ってあげようだなんて、もう金輪際思わないだろう。
けれどわたしにはそれくらいしか出来なかった。いくらでも後悔するだろうけれど、不安定なこの人と一緒に居てあげられるのはユリウスと、たぶんわたしなのだ。
エースはわたしの瞳を一瞬覗いたあと、笑った。硬質でも冷たくもない、まるで子供みたいな無邪気な顔で。


「約束だぜ! ユリウスも心配なら一緒にくればいいんだ!」


そのユリウスとの痴話喧嘩真っ最中のくせに、わたしはエースと一緒に笑った。
もし彼の言ったようにユリウスがわたしを許しても、わたし自身が許せない場合だってある。そうして罪は突き詰めれば、いつしか鎖となって四肢と言わず思考のすべてを拘束する監獄になりうる。
できれば、あなたの手にはかかりたくない。
笑う騎士を見つめながらわたしは精一杯の優しさで願う。

















いつかきみを裏切る日





(13.06.03)