うららかな春の日差しに目を細めながら、アリスは城の中庭の手入れをしている。 ビバルディやペーターにはさんざん仕事などしなくてもいいとは言われているのだが、自分の性分がそれを許さなかった。何かをしていなければ、自分の存在意義を見出せないのだ。メイドの仕事だって十分難しいものだってあるし、事実バラの手入れを任されたのはつい最近のことだった。この世界に落ちて一度の引っ越しとエイプリルシーズンを経て、やっと認められたことになる。 どんなに狂った世界でも確実に時は流れ、わたしは変わっていくんだわ。 アリスは手元のバラに病気や萎れる前兆がないか、入念に調べる。 「………………バラは枯れても元に戻るけれど、命の巻き戻しはできないわ」 この世界の役持ちや顔なしの誰もが否定する言葉を、だからアリスはひとりのときに口にする。 彼らにとって自分の代わりはすぐに現れるものであって、さして困るものではないのだ。けれどアリスにとってこの城の城主はビバルディであり、宰相はペーターというウサギであり、騎士は方向音痴のエースだけなのだった。誰かが欠けたからといって代わりが現れ、やぁ今日からよろしくなんて声をかけられても受け入れられるわけがない。 そうね、この世界は狂っているわ。 アリスの胸で、唯一の理解者であるの声がした。思い出すだけで懐かしく、数時間帯前まで会っていたとは思えないほど遠い人だ。彼女は思い出の中でよく映える。 「どうした、アリス」 凛とした声が響き、アリスは自分の手が止まっていたことを知った。 振り返ればメイドを従えたビバルディがドレスをさばいてこちらに歩いてくる。 「疲れたのならやめておしまい。それよりわらわの相手をしておくれ」 「でも、ビバルディ」 「おや、そなたの上司はわらわのはずだが?」 有無を言わせない言い方に、アリスは苦笑せざるを得ない。ビバルディの背後のメイドが大丈夫だからというジェスチャーをした。アリスはその優しさに感謝しつつ、女王陛下のご機嫌を取るべく彼女の友人に戻ることにする。 「そうね。気分転換が必要かも」 「そうだろう、そうだろう。それにわらわもそなたも、話したいことがあるはずじゃ」 にっこりとほほ笑み、そっと手を引かれたさきにはいつのまに用意したのかティーテーブルが整えられていた。アリスはメイド服のエプロンだけを同僚に渡し、紅茶をついでもらう。女王はアリスの体面に座りながら細い指を弄ぶように組んでいた。 やけに上機嫌に見える女王を怪訝に思いながら、注がれた紅茶に自分が映るのを見つめた。ビバルディは仕事の終わったメイドを下がらせ、ゆっくりと紅茶茶碗を持ち上げる。 「に会ったよ」 アリスは目を見開き、ビバルディが場所を言わないことで悟る。 「ブラッドのところで………?」 「そう、あやつのところにお忍びで行ってみたらがいた」 「お忍びって………供もつけずに?」 いったいどこにお忍びで行けば、二人に遭遇するというのだろう。ビバルディはくつくつと笑っている。 「別に二人は密会をする立場でもあるまい? 公然の場で愛人宣言をしておるのじゃ」 「そうかもしれないけれど、ブラッドとの認識は違うわよ」 「そうじゃな。男など利用するだけ利用してやればいいものを、はそうせぬ。生きにくいことだろうに」 生きにくい。それはこの世界で? 疑問符を口に出す勇気がなくてアリスは閉口する。 ビバルディは紅茶茶碗を置いてテーブルに肘をつくと、ゆっくりと両手を交差させた。指の上に小さな顎をそっと乗せ、アリスは見つめる。 「それで? アリスもに会ったのだろう?」 「会ったわ。夏で、プールに行って………」 とゴーランドの間で交わされた言葉をアリスはわからない。けれどそれがアリスのためでもあることを、もう知ってしまっている。 「は、迷っているのかもしれない」 「迷っている? 違うな。は怖いだけじゃ」 「怖い?」 「これから先、失うばかりの道だと知った上で歩いているのには怖いのだ。失うものしか見ていないから、今を保つことにも支障をきたす」 ビバルディは唇を歪めて自嘲気味に笑った。 「だが結局、が怖いのは失って傷つくのが他人だからじゃろうな」 「え?」 「は自分が傷つく分には一向に構わぬのだろう。だから自分を軽く扱ってしまえる。けれど一度幸福を渡されて、大事なものができて、はじめて怖くなった。自分が失うことによって、傷つく者ができてようやく、な」 自分が失う? アリスは首をかしげるがビバルディはそれ以上語ろうとしなかった。 代わりに瞳を細め、慈愛に満ちたまなざしをアリスに向けた。まるで斬首を望む女王陛下ではないような、慈しみにあふれた微笑み。 「アリス、お前は幸福におなり。この際じゃ、あのウサギでも構わぬ。幸せにおなり」 「ちょ、ビバルディ。いきなり、なにを」 「そうして教えておあげ。自分がどれだけ愚かな思い違いをしているのか」 誰にとは言わなかったけれど、ビバルディの口調が優しいのですぐにわかってしまう。 アリスは少しだけ泣きそうになりながら、視線を落とした。 「それでいいの? 私は十分幸せだわ。みんなに守られているもの」 「それでいい。守ることで救われるものもいる」 「でも、それでも私だってを」 「二人で足を掬いあうのは愚かだと言うているのじゃ。そんなものは自己満足に過ぎぬ」 一蹴されて、アリスは黙るしかない。 「だがはそれを認めぬ。出来ぬことでもやろうとして、お前を守ろうとするだろう。だが無理をすれば歪みが生まれ、いずれ体を蝕む狂気になりうる。であれば、お前が助けなどいらぬと突っぱねた方が早い」 ビバルディの口調はきっぱりと後を残さない。つややかな唇に引かれたルージュの赤がまぶしい。 「の助けなど借りずともお前は幸せになれる。の手を跳ね除けるのも友情の内だと思うことじゃ」 「出来るかしら。私に」 「何もいつも厳しくしろと言っているわけではない。手を離さなければいけないと、気づくときはあっただろう?」 考えを巡らせてみれば、はいつだってアリスのためと笑っていた気がする。ジョーカーに己を差し出したとき、本当は彼女の頬を引っぱたくべきだったのはアリスだったのかもしれない。けれどは笑うから、どうしてもその優しさを受け取ろうとアリスも努力してしまっていた。二人で足を掬われていてはいけないと、本当はもっと前からわかっていたはずなのに。 決意を固めるようにアリスは深呼吸した。 「やってみるわ」 「うむ。それでこそ、わらわのアリスじゃ」 よしよしと頭を撫でられ、これも甘やかされてるのでは思うけれど女王陛下はご機嫌なので口をつぐんだ。 アリスがひとりで立っていられると主張することでが結果的に救われるのならば、そうするべきだ。彼女にだって幸せを噛みしめてほしいし、憂いは少ない方がいい。この世界が狂気に満ちていたとしても、染まるかどうかは自分次第なのだ。 いつか跳ね除けるべき優しい友人の手のひらを思い出して、アリスは心の裏側に痛みが走るのを知った。 |
一緒に枯れても
一つの花にはなれはしない
(2014.01.12)