「最初に、わたしは何を言うのかな」


春の街でエースと別れ、わたしは桜並木を歩いている。なだらかな平面にたくさんの桜が植えられているビバルディ御用達の桜の園は、主の不在で誰もいなかった。エイプリルシーズンが始まってすぐアリスを尋ねたとき通された場所だ。ビバルディやペーター、エースがそろい踏みでお花見をしていたあの頃がひどく遠い。サーカスや監獄をまだ知らなかった頃、無邪気に笑うわたしは誰かをこんなにも大切に思うことになるとは思ってもいなかった。
この一面に桜の咲く中で、果たしてユリウスはわたしを見つけられるのだろうか。そもそも彼が来てくれる保証すらないのに、期待がスライドして落ちていく。先ほどからずっとどんよりした気分だった。自分から言い出したはずなのに、彼にかける言葉が見つからない。


「違うか。…………何を言われるのかわからないから、怖いんだ」


ユリウスは律儀な人だから春まで来てくれるだろう。そうしてわたしを見つけて、彼が下した結論をぶっきらぼうな口調で伝えてくれるに違いない。そういう人なのだ。わたしがここで何時間帯も待ちぼうけすることをよしとしない。例え、それが今から別れる女だとしても。


「自分で考えて、自分で落ち込むのなら世話ないよね」


額に指を当て、わたしは立ち止る。もうすでに庭園をぐるぐると歩き回り、足はだるいのに気持ちが高ぶっているせいで座っていられない。見上げれば桜が、風になびいて花弁を空に巻き上げていた。くるりくるりと円を描くように空を舞う、花びら。


「別れるのは嫌だなぁ」


声と共に頬を冷たいものが伝う。それが涙だと知っていたけれど、拭う気にはなれなかった。
ユリウスと別れたら、もうどこへも行けないだろう。確信めいてそう思う自分がいる。
この世界を選んだ理由が彼の存在そのものなのに、彼に選んでもらえなければわたしはもう弾かれようがない。どこへも行けないのだろうし、行くあてもない。それこそ監獄くらしか行くところがなくなるんじゃないだろうか。
そんな理由で監獄に舞い戻れば、きっとブラックさんの方のジョーカーはひどく嫌な顔をするだろう。眉を潜め、眉間に皺を刻み蔑みを込めて睨みつけるに違いない。


「ユリウス……」


涙のせいで視界はすでにぼやけている。呟く声が掠れてしまった。
泣き崩れてしまえれば楽なのに、わたしは膝をつくことすらできない。膝を付けば、もう迎えにきてもらえない気がした。


「ユリウスと一緒にいたいよ……っ!」


細く絞りだした声と同時に、わたしは突然抱きすくめられた。急くように伸ばされた腕が後ろから迫って体を拘束したのだと、左肩にかかる荒い吐息で理解する。ぱらりと視界の端で紺色の長い髪が揺れた。
全身が甘くしびれるほど歓喜に包まれていたけれど、わたしは硬直したまま動けない。


「馬鹿かっ、きさま、は……っ」


途切れ途切れのユリウスの息はあがっていた。ここまで走ってきてくれたのだろう。あまり体を動かすことは得意ではないのに、とぼんやり思う。顔が見えなくてよかった。わたしは今ひどい顔をしている。それなのに腕をがっちり抱き込まれているせいで涙をぬぐうことさえできない。


「大体だな、……はぁ、………場所があいまい過ぎるっ」
「……………」
「私がどれだけ探したと…………、しかもここは、女王の桜だろう」
「……………」
「侵入するのさえ、難しい………………お前は私に来てほしくないのかと思ったぞ」


温かい。ユリウスの腕の中で聞くのなら彼の恨みごとさえも甘く聞こえるのだから不思議だ。わたしは全体重をユリウスに引っ張られているせいで彼に体を預ける形になりながら、先ほどまでの悲しみがきれいさっぱりどこかに行ってしまっていることに気付く。まったく現金なものだ。ユリウスで満たされていれば結局、どんな形であれ嬉しいのだから。
左肩に顔をうずめるようにして、ユリウスの熱が近づく。


「ひとりで泣くくらいなら出て行ったりするんじゃない…………」


うん、うん。
声には出せないし、頷くことすらままならない。わたしは体全部を使ってユリウスを感じることで精いっぱいだった。
肩で息をしているユリウスが、一番大きく息を吐き出す。


「…………………まず、『出て行け』と言ったことは謝る」


吐き出した息よりも小さく、ユリウスが呟く。体がびくりと震えて、さらに強く抱き込まれた。
エイプリルシーズンがはじまってすぐ、ユリウスはわたしに出て行けと言ったのだ。


「あのとき私はお前が選んだものがひどく憎かった。私がいない場所で、お前はこの世界にいることを望んだだろう」


弾かれたクローバーの国で、たくさんの出来事があった。楽しいこともそうでないことも経験して、最終的にユリウスに心を返してもらった。そのときに宣言したのだ。この世界を選ぶことを。それにはもちろんユリウスの存在だって含まれていたのに、彼は自分がいない間にわたしがこの世界に残ることを決定づける何がしかがあったと結論続けたのだろう。


「私の手に入らないのなら、いっそ遠くにやってしまいたかった」


嫉妬による八つ当たり、彼らしい根暗な考え。


「お前が帽子屋屋敷から帰ってきたときも、アリスと一緒だということはわかっていたが……………お前があまりにも嬉しそうだから、苛立ったんだ」
「…………」
「帽子屋と、何かあったんじゃないかと疑った」


疑われても仕方のないほど、あのときのわたしは確かに浮かれていた。けれど正確には看守服のジョーカーへ、この世界で突きつけてもらえなかった真実を教えてくれた人に焦がれていた。
先ほどから少しも緩まない腕は窮屈だけれど、離してほしくはなかった。何も言わないわたしにユリウスは話し続けてくれる。


「………お前がサーカスに向かったと聞いたとき、目の前が暗くなった。私の下らない自尊心でお前を傷つけてしまったのなら悔やみきれない。ルールを破りペナルティを被ってでも、連れ戻してやると…………お前が幸せになれるならそこが誰の元でもいいと思ったんだ」


あぁ、だからユリウスは最後のあいさつみたいに告白してくれたんだ。
初めての愛の告白は、だからあまりにもあっさりとしていた。彼は自分で結果を導き出して離れるつもりだったのだ。
落ち着いてきたらしいユリウスの胸から聞こえる時計の音は、まだ驚くほど速い。


「それなのに、お前が私を好きだというから…………」


十分きつく抱きしめられているはずなのに、ユリウスはそれ以上の力を込める。


「私は幸せすぎて、頭がどうにかなりそうだった」


ユリウスの乾いた唇から漏れる吐息が耳たぶの後ろにかかり、優しいキスが生え際をなぞるように落ちてくる。体中の感覚がそこに集まり、ぞくぞくと体を駆け巡った。


「愛している、……。これからも、ずっと」


もう耐えきれなかった。わたしはきつく抱かれたユリウスの腕の中で必死に身じろぐ。そうすると彼はふわりと腕を緩めた。同時に離れた唇を、けれどわたしは追うようにして口づける。つま先を伸ばさなければ届かない長身を恨めしく思いながら、腕を伸ばして首筋に回すとユリウスがわたしの腰を持ち上げた。
言葉を奪うように情熱的な口づけが、頭の芯を溶かしていく。角度を変えるたびに短く息を吸って、舌を絡ませあうたびに深くなる行為に酔いしれていた。
ようやく唇を離したとき、わたしの瞳は酸素不足で潤んでいた。


「…………わたしでいいの?」
「お前以外必要ない」
「わたしは弱くて不安定で、あなたのことを覚えていられないかもしれないのに?」


この世界を愛しているのに、不条理を訴える愚かな女だ。
嘘の許されるこの季節が終われば、わたしの記憶はまたあいまいになってしまうのだろうか。
ユリウスはわたしの目元にキスをして、儚げに笑う。


「私が覚えている。お前が忘れても、ぜんぶ」
「そんなの嫌だよ」
「なら、思い出させる。いきなりキスしたら、いくらお前でも驚くだろうな」


悪戯っぽく言うユリウスの優しさに、眩暈を起こしそうだった。


「驚くし、ひっぱたくかも。それでもめげないで、キスしてくれる?」
「お前は私の性格をわかっているだろう」
「わかってるよ。めげるだろうし拗ねるだろうし凹むだろうし落ち込むでしょ?」
「………」
「それでも、キスして。わたしが暴れても抱きすくめて」


ユリウスは片眉を持ち上げてやれやれといった表情を作った。彼はいつだって心が広すぎる。


「仕方ないな。殴られても蹴られても耐えてやる………だから」
「ん?」
「今のお前は私を拒むな。…………すべて、受け入れろ」


言葉と共に降りてきた唇が首筋を吸い、ざらりと舌が這う。
強弱をつけて吸われるたびに声が漏れてしまい、ユリウスが喜んでいるのがわかった。少し意地悪な仲直りの仕方だけれど、積極的なユリウスなんて珍しいから咎めることなんてできない。うっかりやめないでと言ってしまいそうなほど、わたしも頭がやられているというのに。
首筋がいたく気に入っているユリウスへ、仕返しのつもりで彼の耳にキスするとようやく顔をあげてくれた。ふたりともすっかり顔を上気させて、それなのにお互いの体は離すまいと腕は絡ませあったままだ。ユリウスが切れ長の瞳を少しだけ罰が悪そうに細める。


「ひとつ…………帽子屋とのことを、私は納得したわけじゃない」
「………………うん」
「だが、大事な恋人の『大切な友人』だと……、思ってやることにする」


愛人とは言いたくもないのだろうけれど、ユリウスはそうやって確信に触れてくれた。
うやむやにしてはいずれ亀裂を生む問題を、ユリウスはしぶしぶ受け入れてくれる。わたしはこの人の誠実に報いると静かに誓った。


「うん、ありがとう。ユリウス」
「言っておくが、あくまでだな」
「うん。ブラッドは『大切な友人』だよ」


ブラッドと簡単に決別できないわたしをユリウスは許してくれた。あまやかな関係などではないし、ブラッドの気まぐれかもしれないけれど、愛人関係という物騒な響きはこれからも続いていくだろう。おそらくはブラッドが飽きてしまうか、呆れられてしまうほどユリウスでわたしが満たされれば。
いつかの未来に、微笑むくらいしか出来ないけれどなんて幸せなんだろう。
もう一度抱きしめあって、ユリウスの体温をしっかり感じる。背中に当たられる指の一本まで神経を研ぎ澄まし、今が永遠ならいいのにと思った。


「ねぇ、ユリウス。愛してる」


いつか記憶がこの手から零れ落ちるとしても、今はこの人と強くありたい。
選んだ世界のルールによって弾かれるのなら、ペナルティを受けても彼のもとに必ず戻りたいのだ。
わたしはこの世界とこの人を確かに自分で選んだのだから。


















あなたにう為にちて来た









(2014/01/12)