クローバーの塔から出て、雪の掃かれた石畳を歩いた。しっとりと常に濡れている町並みは冬特有のものだ。この世界では雨がほとんど降らない。だから空気が濡れているのを感じるのはひどく久しぶりだった。湿った冷たい空気は肺を引き締める。
一歩ごとに、鉛のような何かが体を押しつぶさんばかりに圧迫してくる。
わたしは努めて平静を装いながら、ショウウインドウに映る自分を確認した。顔色が悪く、コートを着ているのに凍えているような表情をしていた。笑おうとするのに、今までどうやって笑っていたのか思い出せない。
石畳をじっと見て、まるで転ぶことを懸念している少女のように神経質になって歩いた。無論もう冬になって随分たつのだし歩き方もわかっているはずなのに、だ。ただ歩くことに集中していなければ、気持ちが鉛に押しつぶされてしまう。


「……………はぁっ」


クローバーの街並みを抜け出しサーカスへの道の途中、わたしは大きく息を吸う。何かから解放されたわけでもないのに、ただ荒くなる息に自分自身戸惑った。わたしは何をしているのだろう。
ユリウスに言ったことを、後悔している。
認めたくはないが、真実だった。けれどその真実があるからこそわたしは提案したのだ。
わたしではない誰かの方が、ユリウスを幸せにできるんじゃないかと思った。彼の余りある優しさを受け入れるには、わたしは我儘過ぎる。それが我儘だとわかっていながら、彼の優しさを利用しているくせに。


「………気分悪い」


近くにあった木に寄りかかり、腕ごと体を抱きしめるようにして目を閉じた。浮かぶのはユリウスの顔だ。あの部屋で、わたしが手離せないと言ったとき彼は悲しそうな顔をした。あるいは、あれが裏切られたと思った顔だったのだろうか。
裏切ったわけではないけれど、そんなものをどうやって証明すればいいのだろう。
正しいもの以外を選ばない道なんてあったのだろうか。ユリウスを特別だと思っているのなら、それ以外をきれいに区別するべきだったのだろうか。


『ユリウスと君と、一緒に話していればね。…………嫌でもわかるよ。君はあまりにも自然に、簡単にユリウスと『それ以外』を切り替える。本気で、同じ顔で笑ってるとでも思ってた?』


引っ越し直後、クローバーの国でエースは赤い瞳を楽しそうに歪ませてそう言った。
わたしがこの世界に落ちて、最初に懐いたのがユリウスだった。彼の傍を離れずにいたのも、わたしが決めたことだった。臆病だったのだ。知らない場所で、ひとりきりで歩けるほど強くなかった。しばらくは彼の部屋だけで過ごし、ユリウスが出かけると言えば付いて行った。わたしは彼に保護者を強要したのかもしれない。
エースの言うように同じ顔で笑っていなかったのだとすれば、わたしは安心しきっていただけだろう。他人に対する緊張を一切持たずに、ユリウスに接していた。


「……………あれ、じゃないか」


まぶたを開ければ、至近距離に知っている顔があった。わたしは突然のことに声がでない。
けれどそんなことに構わず、ピエロの恰好をしたジョーカーはわたしに笑いかける。


「どうしたの。また具合が悪くなった?」
「………ちょっと」
「そう。じゃあ、また医務室に来ればいい。眠れば気分もよくなるよ」


覗いていた顔を離されて、彼は背を向ける。あまりにもあっさりとしているので、拍子抜けしそうになった。わたしはなんとか足の裏に力を入れて、彼の後を追う。


「眠っている暇はないの。春に行くために季節を変えてほしい」
「春? 女王陛下にでも会いに行くの」
「違う。……ただ、約束があるの」


来てはもらえないかもしれない、来てもらっても元には戻れないかもしれない約束。
自分の声がユリウスに何を言ったのか思い出せないわけではない。ただ、ついさっきのことだというのに思い出すのが辛かった。わたしを必死で受け入れようとしてくれる人に、ひどい言葉をぶつけたのだ。
ジョーカーはわたしの変化を、すぐに感じ取ったようだった。


「ふぅん。ユリウスと何かあった? 君の体調を知らずに送り出したわけじゃないだろうしね」
「…………」
「警戒してるなぁ。もうサーカスはお終いなんだから、そう警戒しないでよ」


お終い。言いながら、手をひらひらさせるジョーカー。
わたしはその手を呆然と見つめる。どこかで終わるはずがないと思っていた。


「終わるの」
「あぁ、サーカスは終了だ」


無意識に握った拳が、ひどく冷たい。喜んでいいのかわからなかった。監獄は好きになれない場所だし、わたし達には有害だ。それなのに、どうしてこんなにも胸が締め付けられるのだろう。心のどこかで期待していた何かが裏切られる感覚。わたしが望まなくても、与えられると思っていた苦痛が遠ざかる。


「……………?」


なんでもない。そう声に出そうとしたのに、やっぱり吐息だけになってしまった。
わたしはいつだって立ち向かっているつもりだった。わたしを害するすべてに対して、この世界で自分の居場所を確保するために。それなのに、どこかで罰せられることも待っていたのだ。
捨てたことを悔やむには大切なものを手に入れすぎてしまって、もう振り向いて泣くことなんて出来なかった。泣いてしまえば手に入れた大切なものを裏切ってしまう。
黙り込んだわたしに、ジョーカーがため息をついたのが聞こえた。


「………………君はどうしても見ないふりができないんだね。見つめすぎて目もそらせない」
「………」
「見すぎてはいけない類いのものばかり見るから、他のものだって正しく見えなくなる。昔の君は、もっと今を楽しんでいたじゃないか」


昔、とはいってもそれは引っ越しの前後だ。わたしは限りなく自由で思い上がった女だった。心がないからどこへでも行けたのだし、中身など空っぽだったのだろう。
わたしは出来るだけ虚勢を張って、答える。


「けど、それじゃ何も変わらないでしょう」
「変わることがそんなに重要? 考えてもみなよ。君は変わってしまったから困ったことになったんじゃないか。引っ越しがなければユリウスに心を預けたままでいられたんだし、彼の思いにも気づかないままでいられた。誰も選ばないままで、守られていられたのに」


肩を上下させ、ジョーカーは呆れているようだった。わたしはそれに違和感を覚える。変化を伴っていたのはいつだってジョーカー自身だった。
引っ越しをしなければなんて考えたくはないし、ユリウスの思いを気づかないままでいることもできなかっただろう。それはきっと、背中を向けていただけでずっとそこにあった事実だ。
それからふいに脳裏に声がよみがえった。まるでついさっき言われたように鮮明に浮かんだ言葉が自分の声に乗って出ていく。


「いいわけがないでしょう」


笑っていないジョーカーはひどく冷たいイメージを受ける。


「気になることを放っておいていいわけがない。いけないと思うなら、まずいことに決まってる」


言い切ってまっすぐにジョーカーを見つめる。まばたきすらせずに真っ直ぐ見つめると、急にジョーカーは笑い出した。おかしいのではなくて、観念したのだろう。


「言うね。君はやっぱり俺の担当じゃなくて、ジョーカーが担当みたいだ」


いいわけねぇだろ。
もっと言葉は悪かったし乱暴だったけれどジョーカーの腰についてる仮面がわたしに言った言葉はずっと忘れられなかった。この世界はわたしやアリスに靄ばかりかけてしまうので、はっきりと断言してくれたことがうれしかった。
いけないと思うのなら、まずいことに決まってる。
本当にその通りだ。違和感を殺してまずいことには蓋をして、ユリウスと一緒にいることに懸命になりすぎていた。それなのに、ブラッドを受け入れたことでわたしは少しずつずれてしまったのだろう。


「………君は面白いね。どんどん自分で深みにハマっていくのに、どこかしらに出口がある。それは正解でも不正解でもない道なのに、ちゃんと続いてる」
「褒められている気はしないね」
「褒めてないからね。……そうだ。俺はサーカスの後片付けで忙しいし、担当も違うんだから季節を変えるのはジョーカーにお願いすればいいよ」
「え?」


じゃあね。笑顔のジョーカーがぱちりと指を鳴らした。瞬間、体の芯が揺れてたたらを踏む。
後ろ足が、かつんと冷たい音をたてた。まばたきの間にそこは森の中ではなくなる。
薄暗い監獄に舞い戻ってきてしまったのだ。わたしはとっさに左右を確認して、上を見上げた。


「ちょっとジョーカー?!」
「………んだよ」


誓って彼に言ったのではないのだが、後ろから返事が返ってきてしまった。わたしはゆっくりと振り向き、看守服のジョーカーを認める。彼はいつものように気だるそうにこちらを見ていた。


「あなたじゃなくて、あっちのジョーカーに物を申したいんだけど」
「無理だな。飽きたんだろ」
「ピエロが飽きるってどうなの」


ため息ついでに脱力した。ピエロに飽きられたというのはどういう状況なのだろ。
わたしは再び会ってしまったジョーカーに視線を合わせて、次の言葉を探すしかなくなる。前の別れが少々壮絶すぎて、どうやって切り出せばいいかわからない。例えこの世界の住人が常に撃ち合っている平和とは無縁の方々だとしても、修羅場であったことに変わりはないだろう。しかも、わたしはこの人の横っ面をひっぱたいて逃げているのだ。
気まずさも手伝ってじっと見つめたけれど、ジョーカーから会話をする気はないらしい。わたしは視線を斜め下に落として、小さく呟いた。


「ひ、ひさしぶり」




















道化と嘘の天秤







(2014・01・12)